銅裏駅 第5話
車庫に戻った列車は、いつもと同じ位置で停止した。ブレーキの感触も、停止時の揺れも、記憶の中にあるそれと何ひとつ違わない。違わないはずなのに、運転席を降りる瞬間、足裏に伝わる床の硬さだけが、わずかに信用できなかった。現実に戻った、と頭では理解しているのに、身体のどこかが、まだ霧の中に置き去りにされている。
「……異常なし、か」
声に出してみる。誰に聞かせるわけでもない確認。言葉にした瞬間、ようやく現実が形を持つ気がした。無線も正常、計器も正常、運行記録にも不自然な点はない。銅裏駅の文字など、どこにも残っていない。
それでも、胸の奥がざらついている。
車内点検のために、客室へ足を踏み入れる。回送列車だから、もちろん誰もいない。座席は整然と並び、床にゴミひとつ落ちていない。見慣れた光景だ。何百回と見てきたはずの、何も起こらなかった日の終わり。
なのに、視線が自然と床へ落ちる。
理由は分からない。ただ、そこに何かがある気がした。
照明の反射を避けるようにして、しゃがみ込む。指先で床をなぞる。油の染み、細かな傷、靴底の跡。その中に、ひとつだけ、異物が混じっていた。
小さな、金属の光。
「……?」
拾い上げる。
それは、古い作業服のボタンだった。縁が少し欠け、中央の刻印も摩耗している。どこにでもありそうで、どこにもない形。
心臓が、一拍遅れて跳ねる。
「……そんな、はずは」
喉が、勝手に音を絞り出す。
見覚えが、ありすぎた。
父が着ていた作業服。その胸元についていたボタンと、同じだ。何年も前、洗濯のたびに母が「また取れかけてる」と言っていた、あのボタン。事故の日、返却された遺品の中には、確かになかったはずのもの。
指先が、わずかに震える。
「持って、帰ってきた……?」
誰に向けた問いでもない。
答えが返るはずもない。
頭の中で、銅裏駅の光景が、ゆっくりと再生される。霧、古い駅舎、17:04とだけ書かれた時刻表。顔のない乗客たち。山へ向かう行列。そして、最後に掴まれた腕の感触。
あれは、幻覚だったのか。
疲労による錯覚だったのか。
だが、このボタンは、どこから来た。
制服のポケットに入れようとして、手が止まる。
なぜか、そうしてはいけない気がした。隠した瞬間、何かが確定してしまう。これは現実だ、と認めることになる。
「……今日は、帰ろう」
自分に言い聞かせるように呟き、ボタンを握ったまま、車庫を後にする。外は、いつの間にか霧が出始めていた。山から降りてくる白い塊が、線路沿いをゆっくりと覆っていく。
足を止める。
この霧は、さっきの霧と同じなのか。
それとも、まったく別物なのか。
耳を澄ます。
遠くで、微かに、汽笛のような音がした。
気のせいだ。
そう思おうとした瞬間、その音が、ほんの少しだけ、近づいた気がした。
胸ポケットの上から、ボタンを強く握りしめる。
冷たいはずの金属が、なぜか、微温かい。
境界は、閉じていない。
ただ、今はまだ、こちら側に立っているだけだ。
その事実だけが、重く、静かに、胸に沈んでいった。
帰宅してからも、ボタンは掌から離れなかった。靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、照明を点けても、指先に残る金属の感触だけが消えない。テーブルの上に置けばいい。引き出しにしまえばいい。それだけのことなのに、そうしてしまえば、何かを失う気がした。
「……まだ、早い」
理由のない独り言が、部屋に落ちる。
部屋は静かだった。時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。疲れてはいるが、異変と呼べるほどではない。目の下の隈も、運転士としては見慣れた程度だ。だが、視線を逸らそうとした瞬間、鏡の奥で、何かが一瞬だけ揺れた気がした。
霧。
もちろん、実際には映っていない。
それでも、脳が勝手に補完する。銅裏駅の空気を、あの静寂を。
「……終わったんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
回送列車は無事に戻った。記録も正常。誰にも気づかれていない。ならば、あれは過去になったはずだ。
それなのに、胸の奥が、妙に落ち着かない。
夜になっても、眠れなかった。
布団に入って目を閉じるたび、トンネルの闇が思い出される。銅裏坑道と書かれた、あの古い看板。霧の中に吸い込まれていく、顔のない背中。引き戻されたときの、異様な力。
父の作業服の感触。
「……守った、のか」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で驚く。
なぜ、あの存在が父だと分かったのか。顔もなく、声もなく、ただ服装だけが似ていただけなのに。
だが、否定する気にはなれなかった。
あれは父だった。そうでなければ、説明がつかない。
夜明け前、ようやく浅い眠りに落ちた。夢は見なかった。ただ、目を閉じて、開いただけのような感覚。時計を見ると、いつもの起床時間より少し早い。
窓の外は、白かった。
「……霧?」
カーテンを開ける。
街全体が、薄い霧に包まれている。珍しいほどではない。冬場なら、たまにある光景だ。だが、その霧は、どこか均一すぎた。流れも、揺らぎもない。ただ、そこに留まっている。
胸が、嫌な予感で締めつけられる。
出勤の支度をしながら、何度もボタンに目がいった。結局、制服の内ポケットに入れる。持っていくつもりはなかったはずなのに、気づけばそうしていた。
駅へ向かう道すがら、汽笛の音が聞こえた。
近い。
この時間帯、この位置で聞こえるはずがない音だ。立ち止まり、耳を澄ます。だが、二度目は鳴らなかった。霧だけが、足元を静かに這っている。
「……気のせいだ」
そう思うしかなかった。
詰所に入ると、同僚が何人か、雑談をしていた。いつも通りの朝だ。昨日の出来事など、誰の話題にも上らない。運行掲示板にも、異常は表示されていない。
ただ一つだけ、違和感があった。
今日の回送予定の欄に、見慣れない空白がある。
「……こんな時間、あったか?」
思わず呟く。
ダイヤそのものは埋まっている。だが、山間部を通過する一部の時間帯だけが、不自然に曖昧だ。線で引かれているわけでも、欠便でもない。ただ、強調も説明もなく、ぽっかりと空いている。
視線が、自然と時計に向かう。
17:04。
胸の奥で、何かが音を立てた。
「……呼ばれてる、のか」
誰にともなく問いかける。
答えはない。だが、否定する理由も見つからなかった。
父は、引き戻した。
だが、それは拒絶ではなかった。
まだ行くな、と。
今ではない、と。
ならば、いつかは。
霧の向こうで、境界は待っている。
選ぶのは、向こうか。
それとも、自分か。
内ポケットの上から、そっと手を当てる。
ボタンは、確かにそこにあった。
冷たいはずの金属は、今日も、微かに温度を持っている。
第一章は、まだ終わらない。
霧が晴れるその日まで、自分は、この線路を走り続けるしかない。
――銅裏駅は、確かに、存在している。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




