銅裏駅 第4話
霧は、いつの間にか日常の中に溶け込むようになっていた。
車庫の構内を覆っていた白さは、気づけば薄れ、作業員たちの姿も戻ってきた。誰も騒がない。誰も異変を口にしない。まるで、最初から霧など存在しなかったかのように、時間だけが平然と進んでいく。
それが、何よりも不気味だった。
「……見えてないのか」
呟いた声は、誰にも届かない。
見えているのは、自分だけなのか。
それとも、見えていたこと自体が、すでにこちら側では許されないのか。
運転台に座り、無意識のうちに計器へ視線を走らせる。異常はない。針は正確で、表示は明瞭だ。現実は、相変わらず整然としている。それが、逆に信じられなかった。
休憩室でコーヒーを飲みながら、同僚の会話に耳を傾ける。
「今日の回送、霧出てたらしいな」
「この時期は仕方ないさ」
それだけだ。
銅裏駅の話題は、どこにも出てこない。
聞こうとして、やめた。
答えを期待していない質問ほど、空虚なものはない。
その夜、帰宅してからも、落ち着かなかった。
目を閉じると、あの駅の静寂が蘇る。風のないホーム。錆びた駅名標。時刻表の、たった一行。
《17:04 着》
意味を考えようとするたびに、思考が滑る。
まるで、深追いすること自体が禁じられているかのようだった。
眠りに落ちる直前、遠くで汽笛を聞いた気がした。
それが夢だったのかどうか、確かめる術はない。
翌日の勤務は、通常運行だった。
乗客を乗せ、決められた駅を通過し、定刻通りに走る。何の変哲もない一日。だが、山間部に差しかかった瞬間、背筋が自然と伸びた。
霧は、出ていない。
それでも、視界の奥に、わずかな歪みを感じる。線路が、ほんの少しだけ、記憶と違う位置にあるような錯覚。レールの音が、半拍遅れて聞こえる。
「……来るなよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
トンネルを抜けた、その先で。
ホームに、人影があった。
一人ではない。
数人が、整然と並んで立っている。
列車を減速させながら、息を詰める。
駅名標を見る。
見覚えのある駅名ではない。
だが――。
違和感が、確信に変わる。
彼らの顔が、見えない。
いや、正確には、顔というものが存在していない。のっぺりとした皮膚だけが、そこにある。前に銅裏駅で見た、あの乗客たちと同じだ。
「……そんな、はずが」
ブレーキをかけ、列車は停止する。
ドアが開く音が、やけに大きく響いた。
乗客たちは、無言のまま乗り込んでくる。
誰一人として、こちらを見ない。
それでも、視線を感じる。
車内の空気が、冷えた。
次の駅へ向かう間、誰も動かない。
アナウンスを入れる声が、喉の奥で震える。
「……次は――」
言葉が、続かなかった。
バックミラー越しに、乗客たちの影が揺れる。
その中に、見覚えのある作業服が、一瞬だけ混じった気がした。
確認する勇気は、なかった。
ただ、確信だけがあった。
彼らは、帰る途中なのだ。
そして――。
自分は、その途中駅に、足を踏み入れてしまった。
列車は、静かに走り続けていた。
速度は通常運行と変わらない。それなのに、体感だけが異様に遅い。時間が引き伸ばされているような感覚。秒針の音が、耳の奥で何度も反響する。
車内は、異様なほど整然としていた。
顔のない乗客たちは、空いている座席にも座らず、通路に立ったまま揺れに身を任せている。掴まるつり革も、手すりも使わない。それでも倒れない。最初から、揺れという概念を必要としていないかのようだった。
「……目的地は、どこだ」
問いかけても、返事はない。
そもそも、問いかける相手として成立しているのかすら分からない。
視線を前に戻す。
線路は、確かに続いている。信号も正常だ。だが、風景だけが、少しずつ現実からずれていく。見慣れた山肌が、わずかに歪み、植生の配置が記憶と合わない。
この路線に、こんなカーブはなかった。
喉が乾く。
だが、運転台を離れる気にはなれなかった。ここから目を逸らした瞬間、何か決定的なものを失う気がした。
次の駅が近づく。
案内表示が、ちらりと瞬いた。
《――――》
文字が表示されるはずの欄には、何も映らない。
駅名が、存在を拒まれている。
「……止まるのか」
列車は、止まった。
ホームには、誰もいない。
いや、正確には「誰もいないはずの場所」に、微かな気配だけが残っている。空気が、ここだけ少し重い。
ドアが、開く。
顔のない乗客たちが、一斉に動き出した。
その動きは揃いすぎていて、ぞっとするほどだった。まるで、合図を待っていたかのように、同時に一歩を踏み出す。
降りていく。
一人、また一人と、無言でホームへ。
その背中の中に、見覚えのある体格があった。
古い作業服。肩の縫い目が擦り切れた、あの服。
「……待て」
声が、思わず漏れた。
その人物が、ぴたりと足を止める。
ゆっくりと、こちらを振り返った。
顔は、やはり存在しない。
それでも、分かった。
父だ。
理由などない。ただ、そうだと理解してしまった。
胸の奥が、強く締めつけられる。
「……帰るのか」
問いかけに、返事はない。
だが、父は一歩だけ、こちらに近づいた。
境界線を越えない距離で、止まる。
『――――』
音は、聞こえなかった。
それでも、意味だけが、直接流れ込んでくる。
ここは、お前の場所じゃない。
まだ、戻れる。
「……俺は」
言葉を続けようとして、息が詰まる。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。なぜ、あの事故が起きたのか。なぜ、銅裏駅にいたのか。なぜ、自分を引き戻したのか。
だが、そのどれもが、今ではなかった。
父は、ゆっくりと首を振る。
否定ではない。拒絶でもない。
ただ、時間切れを告げる動きだった。
ホームの空気が、薄くなる。
霧が、足元から立ち上ってくる。
父は、背を向けた。
顔のない乗客たちと同じように、霧の奥へと歩いていく。
その背中が、徐々に輪郭を失っていく。
「……行くな」
声は、届かない。
ドアが、閉まる。
警告音が、無情に鳴り響く。
列車は、再び動き出した。
ホームが、霧に飲み込まれる。
次の瞬間、風景が一気に現実へと引き戻された。
見慣れた駅名標。
正常な案内表示。
バックミラーを覗く。
車内には、誰もいない。
あれほどいた乗客たちの痕跡は、どこにも残っていなかった。
列車は、何事もなかったかのように、終点へ向かう。
運行記録にも、異常は記されない。
だが、胸の奥には、確かな重みだけが残った。
銅裏駅は、まだ存在している。
そして、帰路は、完全には閉じていない。
自分は、選ばれなかったのではない。
――まだ、行くべきではないだけだ。
次に汽笛を聞いたとき。
そのときこそが、本当の分岐点になる。
そんな予感だけが、静かに、確信へと変わりつつあった。
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