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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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銅裏駅 第3話

 銅裏駅から戻った直後の運転は、拍子抜けするほど何事もなく、霧はすっかり晴れ、線路の先にはいつもの山肌が横たわっていた。信号も勾配も、すべて記憶どおりで、回送列車は規定速度を守りながら淡々と進んでいく。車輪の刻む音も、長年聞き慣れた、あの単調なリズムに戻っていた。


「……夢、だったのか」


 そう呟いてみたが、声には自分でも分かるほど確信がなかった。運転席に座ったまま、何度も周囲を見回す。見知らぬ駅舎も、錆びた駅名標も、霧の向こうから現れたあの列車も、どこにも存在しない。あるはずがない。ここは、毎日のように走っている、見慣れた路線だ。


 計器に視線を落とす。速度、圧力、ブレーキ系統、すべて正常。針は規則正しく動き、異常を訴える兆候はない。無線からは管制の声が途切れなく流れ、現実が、きちんと現実として機能していることを主張していた。


「回送一二三、進行良好。そのまま車庫へ」


「了解」


 短く返事をしながら、胸の奥に薄い膜が張りついたような感覚が残る。言葉にすれば取るに足らない違和感だが、確かにそこにある。何かが、決定的に噛み合っていない。歯車が、ほんの一歯だけずれている。


 ふと、手首に視線が落ちた。袖口の下、皮膚にこびりついた乾いた土が見える。爪の隙間にまで入り込んだそれは、軽く擦った程度では落ちなかった。


「……いつ、こんなの付いた」


 記憶を辿ろうとしても、はっきりした場面が思い出せない。気づかないうちに汚れた、と言い切るには、あまりにも不自然だった。まるで、最初からそこにあったかのような感触が残っている。


 やがて車庫が近づき、見慣れた構内の景色が広がった。作業灯の白い光が線路を照らし、鉄の匂いと油の匂いが鼻を突く。ここに戻ってくれば、すべて終わるはずだった。そう思っていたはずなのに、背中を冷たいものがゆっくりと這い上がっていく。


 列車を停止させ、エンジンを落とす。静寂が戻り、耳の奥で、かちり、と小さな音がした。何かが切り替わるような、そんな感覚だった。


「……終わり、か」


 呟いた直後、車内点検のために立ち上がり、ふと足を止める。床に、小さな影が落ちていた。しゃがみ込み、拾い上げたそれを見た瞬間、思考が止まる。


 金属製の、古いボタン。


「……父さんの」


 作業服の胸元についていたものと、同じ形。同じ傷。同じ、くすんだ色合い。見間違えるはずがなかった。背筋に、冷たいものが一気に走る。


「……そんな、わけが……」


 言葉は最後まで続かなかった。あの駅で、顔のない男に腕を掴まれたときの感触が、急に生々しく蘇る。無言の圧力。皮膚の奥に直接流れ込んできた、拒絶の感情。


『行くな』


 あれは、警告だったのか。それとも、願いだったのか。


「……まだ、終わってないのか」


 車庫の奥で、金属が触れ合うような音がした。誰かがいる。そう思って顔を上げたが、そこに人影はない。代わりに、構内の線路の先に、薄く霧が溜まり始めているのが見えた。さっきまで、確かになかったはずの霧だ。


「……おい」


 思わず声を上げる。霧の中で、一瞬だけ黒い影が揺れた。列車の――影。


 ここは現実だ。車庫だ。霧が出る理由など、どこにもない。それでも、霧は確かに存在し、まるでこちらが戻ってきたのを待っていたかのように、静かに広がっていった。

 霧は、ゆっくりと、しかし確実に構内を侵食していった。夜霧というには早すぎる時間で、天候の変化を示す前触れもない。それなのに、線路の奥から湧いた白さは、まるで意思を持つ生き物のように、境界を曖昧にしながら広がっていく。


「……あり得ないだろ」


 そう呟いた瞬間、自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。理屈では否定できる。だが、目の前の光景は、理屈をまるで気にしていない。


 再び運転席に戻り、計器を確認する。速度計はゼロを指し、ブレーキ圧も正常値。エンジンは停止している。異常を示すランプは、ひとつも点灯していない。


 現実は、正しい。


 それなのに。


 フロントガラス越しの景色だけが、どこか歪んで見えた。霧の向こうで、線路が微かに揺れている。いや、揺れているのは線路ではなく、自分の距離感のほうかもしれない。


「……父さん」


 名を呼んでから、遅れて後悔が押し寄せた。返事などあるはずがない。それでも、口に出さずにはいられなかった。あの事故以来、胸の奥に沈め続けてきた名前だ。


 数年前、旧銅山跡近くで起きた保守作業中の事故。公式には、不運な転落事故として処理された。だが、現場に最初に駆けつけた同僚の言葉が、今も耳に残っている。


「……変だったんだ。あの場所」


 それ以上は、誰も詳しく語ろうとしなかった。


 霧の向こうで、何かが動いた。

 一瞬、古いディーゼル車の輪郭が浮かび上がった気がして、息が止まる。だが次の瞬間には、ただの影に戻っていた。


「……まだ、来るのか」


 銅裏駅は、終わりではなかった。

 あそこは、境目だったのだ。


 計器の現在地表示が、ふっと揺らいだ。数字が一瞬だけ乱れ、見慣れない文字列が混じる。


《測位補正中》


 次の瞬間、元に戻る。


「……ふざけるな」


 吐き捨てるように言い、無線に手を伸ばす。


「こちら回送一二三。構内で霧を確認。状況――」


 途中で、言葉が途切れた。

 スピーカーから返ってきたのは、応答ではなく、微かな走行音だった。


 ゴウン……。


 耳に覚えのある、あの鈍い音。


「……嘘だろ」


 無線を切っても、音は消えない。

 それは、線路の奥――霧の向こうから、確実に近づいてきていた。


 銅裏駅で見た、あの列車。

 顔のない乗客たち。


 そして、無言で腕を掴んできた、父の姿。


『行くな』


 あれは、単なる拒絶じゃない。

 ここまで来るな、という、必死な境界線だったのではないか。


「……俺は」


 言葉が、喉で詰まる。

 もし、あのとき引き戻されていなければ。

 もし、一歩先へ進んでいたら。


 今、自分はどこに立っていたのだろう。


 霧の中で、再び影が揺れた。今度は、はっきりと車両の形をしている。ヘッドライトは点いていない。それなのに、確かに「来ている」と分かる。


 胸の奥に、奇妙な感覚が広がる。恐怖と同時に、抗いがたい引力のようなもの。あの駅の静寂。時刻表の「17:04」。すべてが、再び揃おうとしている。


「……まだ、帰してくれないのか」


 霧は、答えない。

 ただ、静かに距離を詰めてくる。


 この世界は、まだ完全には戻っていない。

 計器が示す現実と、目に見える現実の間に、薄い裂け目が残っている。


 銅裏駅は、消えたのではない。

 こちらが、まだ見えていないだけなのだ。


 遠くで、汽笛が鳴った。


 それは、合図のようにも、呼び声のようにも聞こえた。

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