銅裏駅 第2話
霧は、最初からそこにあったわけじゃない。
山間部に差しかかる直前、いつもの勾配に備えてノッチを一段落とした、その瞬間だった。フロントガラスの向こうで、白いものが滲むように広がった。煙のように湧き、膜のように貼りつき、気づけば視界を削り取っていく。
「……霧、か」
声に出して、妙に安心しようとした自分がいた。
回送列車。客はいない。遅れもない。焦る理由はない。
この路線では、冬の霧は珍しくない。
それは、身体が覚えている。何度もこの区間を走ってきた。
だが――今日の霧は、様子が違った。
ヘッドライトの光が、数メートル先で白く反射し、そのまま吸い込まれる。線路が、途中で途切れているように見える。枕木の影が、曖昧に歪む。
「……見えなさすぎるだろ」
速度を落とす。
金属が擦れる微かな振動が、座席越しに伝わってくる。普段なら無意識に処理している感覚を、ひとつひとつ確認するように神経を尖らせる。
そのときだった。
――線路の感覚が、ずれた。
何かが、違う。
レールの上を走っているはずなのに、足場が傾いたような、そんな錯覚。ほんの一瞬、腹の底がふわりと浮いた。
「……気のせいだ」
自分に言い聞かせる。
霧の中では距離感が狂う。それだけだ。
だが、胸の奥に沈んだ違和感は、しつこく残った。
計器を見る。
速度、圧力、ブレーキ系統。すべて正常。針は、規則正しく動いている。
次に、GPS。
画面が、一瞬だけ暗転した。
《測位不能》
「……は?」
思わず声が漏れる。
次の瞬間には、何事もなかったかのように現在地が表示された。エラー履歴も残っていない。
無線を入れる。
「こちら回送一二三。現在――」
返ってきたのは、ザーッ、という雑音だけだった。
「……回送一二三、応答願います」
同じ。
まるで、こちらの声だけが世界から切り離されたみたいだった。
ハンドルを握る手に、じっとりと汗が滲む。
――落ち着け。
――霧で電波が乱れてるだけだ。
そう思おうとした、そのとき。
前方に、影が見えた。
黒く、縦に伸びた影。
トンネル――そう思った。
だが、すぐに否定する。
この区間にトンネルはない。
それは、地図よりも、記憶よりも、身体が知っている。
「……あり得ないだろ」
ブレーキに手をかけ、一瞬だけ迷う。
止まるべきか。確認すべきか。
だが、線路は続いている。
信号も異常なし。影は、ただそこにあるだけだった。
列車は、そのまま進んだ。
影の中に入った瞬間、霧が、消えた。
いや、消えたというより――断ち切られた。
風の音が止み、エンジン音さえ遠のく。耳鳴りがするほどの静寂が、運転席を満たす。
「……静かすぎる」
トンネルの中だと思った。
だが、圧迫感がない。天井の近さを感じない。
数秒。
それとも、もっと長かったのか。
時間の感覚が、溶けていく。
やがて、前方が開けた。
「……駅?」
ブレーキをかける。
ホームが、そこにあった。
見覚えのない駅。
木造の駅舎。低い屋根。古い照明。
なのに、不思議と、朽ちていない。
最近まで使われていたような、そんな気配。
駅名標が、目に入る。
錆びた文字。
《銅裏》
「……どう、のうら……?」
口に出した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
聞いたことがある。確かに。
だが、どこで聞いたのか、思い出せない。
列車は完全に停止した。
エンジン音だけが、場違いに響く。
「……ダイヤに、こんな駅はない」
理屈では分かっている。
降りるべきじゃない。
それでも。
「……確認だけだ」
自分に言い訳して、ドアを開けた。
冷たい空気が、足元から這い上がる。
霧はない。だが、空気が重い。
ホームに降りた瞬間、背中に、視線のようなものを感じた。
振り返る。
誰もいない。
「……誰か、いますか」
返事はない。
それでも――。
「誰かが、いる」
その確信だけが、胸の奥に残った。
駅舎の中は、外観の印象よりも整っていた。
古い木の床は黒ずみ、歩くたびに小さく軋むが、抜け落ちそうな気配はない。壁に残る傷も、長い年月の中で自然に刻まれたものに見えた。廃駅特有の、湿った埃の匂いがしない。それが、かえって不気味だった。
「……使われてる、のか?」
独り言が、やけに大きく響く。
それだけ、音のない空間だった。
正面の壁に、時刻表が掛かっているのが見えた。
近づき、覗き込んだ瞬間、思わず息を止めた。
行先、列車番号、発車時刻。
すべてが、空白。
ただ一箇所だけ、ぽつりと記されている。
《17:04 着》
「……着?」
行先もない。発もない。着、だけ。
腕時計を見る。
秒針の動きが、異様に遅く感じられる。
――16時58分。
「……偶然、だよな」
そう口にしたが、声は自分でも驚くほど掠れていた。
胸の奥が、じわじわと締めつけられていく。
そのとき、駅員室の方から、微かな音がした。
カタン。
心臓が、跳ねる。
「……誰か、いるんですか」
声を張ったつもりだったが、響きは弱々しかった。
駅員室の戸は、半開きだった。
中を覗くと、机の上に湯呑みが一つ置かれている。
湯気が、立っていた。
「……今、淹れたのか」
手を伸ばしかけて、止める。
温度を確かめる勇気が、なかった。
背後で、低い音が鳴った。
ゴウン……。
振り返る。
線路の向こう、何もないはずの空間に、白い靄が湧き上がっていた。
それは、霧とは違う。意志を持った何かが、形を取ろうとしているようだった。
靄の中から、影が現れる。
列車だ。
古いディーゼル車。
色あせた車体。だが、不自然なほど傷がない。
エンジン音は、水の底で響くように鈍い。
「……そんな、バカな」
列車は、ゆっくりとホームに滑り込み、止まった。
ドアが、開く。
最初に降りてきたのは、スーツ姿の男だった。
その瞬間、思考が止まる。
顔が、ない。
目も、鼻も、口もない。
のっぺりとした皮膚だけが、そこにある。
「……っ」
声にならない息が、喉から漏れた。
次に、着物姿の女。
学生服の少年。
作業着の男。
全員、顔がない。
それなのに、誰一人として、こちらを見ない。
いや――見ていないはずなのに、視線を感じる。
彼らは無言で整列し、駅舎の前を通り過ぎ、山へ向かって歩き出した。
足音だけが、妙に鮮明に響く。
「……待て」
気づけば、そう口にしていた。
だが、誰も振り返らない。
胸の奥に、説明できない衝動が湧き上がる。
見届けなければならない。
ここで目を逸らしたら、何か取り返しのつかないことになる。
「……行くな」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
足が、勝手に動いた。
山道に入った瞬間、音が消えた。
風も、虫の声も、すべて。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に残る。
行列の先に、トンネルが見える。
古い看板。
《銅裏坑道》
文字を見た瞬間、胸の奥が、強く締めつけられた。
――父の事故現場。
――旧銅山跡。
忘れたふりをしていた記憶が、無理やり引きずり出される。
「……まさか」
一歩、踏み出した。
その瞬間、背後から、強い力で腕を掴まれた。
「――っ!」
振り返る。
顔のない男。
だが、その作業服は、見間違えようがなかった。
「……父さん?」
喉が、震える。
男は、何も言わない。
それでも――。
『行くな』
声ではない。
感情が、直接流れ込んでくる。
抵抗する。
だが、力が異常に強い。
地面を引きずられ、駅へ戻される。
「……離せ! 俺は――」
言葉は、途中で途切れた。
回送列車のドアが、閉まる。
霧が、すべてを覆う。
次に気づいたとき、運転席に座っていた。
時計を見る。
ほとんど、時間が進んでいない。
無線は正常。
線路も、いつもの景色。
だが、手首に、土の汚れがついている。
そして、掌の中に残る、冷たい感触。
「……父さんは、何を……」
答えは、返ってこない。
ただ、遠くで、汽笛が鳴った気がした。
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