銅裏駅 第1話
回送列車は、嫌いじゃない。
むしろ好きな部類だ。
誰もいない。
誰の顔も見なくていい。
ダイヤと信号と、線路だけを見ていればいい。
「……よし」
指差喚呼は、癖みたいなものだ。
声に出すと、少しだけ頭が整理される。
冬の夕方。
山に近づくにつれて、空気が変わっていくのが分かる。冷たいというより、重い。肺に入ってくる空気の量が、目に見えない何かに削られている感じがする。
前照灯の光が、白く滲んだ。
「霧か……」
山間部じゃ珍しくない。
そう思おうとしたが、視界は思ったより早く潰れた。数メートル先が、もう白い壁だ。
自然とノッチを落とす。
回送だから、急ぐ理由はない。
事故を起こす理由も、ない。
……そのはずだった。
列車が進むにつれて、足の裏の感覚がおかしくなった。
レールを踏んでいる感触が、薄い。
浮いている、というより――
「ずれている」。
「……?」
思わず声が漏れた。
線路は、ずれない。
そんなことは、ありえない。
計器を見る。
異常なし。
もう一度見る。
異常なし。
「気のせいだ……」
そう言いながらも、視線がGPS表示に吸い寄せられた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
表示が「不明」になった。
「は?」
声が裏返る。
すぐに通常表示へ戻る。
見間違い。
通信のラグ。
そういうことは、たまにある。
……ある、はずだ。
無線を入れる。
「こちら回送――」
返ってきたのは、ザッ、ザッ、という雑音だけだった。
胸の奥が、じわりと冷える。
「……おい」
誰に向けたわけでもない言葉が、運転席に落ちる。
そのとき、前方に黒い影が見えた。
霧の中に、ぽっかりと穴が開いたみたいな影。
奥行きがある。
「……トンネル?」
そんなはずはない。
この区間にトンネルは存在しない。
知っている。
何度も走っている。
父と一緒に点検に来たことだってある。
――父。
一瞬、その顔が浮かび、すぐに打ち消した。
「落ち着け……」
ブレーキをかけるべきだ。
そう思うのに、手が動かない。
むしろ、前に進めと言われている気がした。
影に近づくにつれて、霧が薄くなる。
まるで、そこだけが“通り道”として用意されているみたいだった。
「……行くなよ」
自分に言い聞かせる。
でも、列車は止まらない。
影の中へ入った瞬間、音が消えた。
エンジン音が遠のく。
振動が、消える。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「……なんだよ、これ」
トンネルを抜ける。
そこにあったのは、見知らぬ駅だった。
木造のホーム。
低い屋根。
古いが、朽ちてはいない。
駅名標に、錆びた文字。
「……銅裏、駅」
読んだ瞬間、胸の奥がざわついた。
知らない。
なのに――
「……知ってる、気がする」
理由は分からない。
ただ、嫌な予感だけが、はっきりしていた。
列車は、静かに停車した。
ここは、停まる場所じゃない。
回送列車が、来るはずのない場所だ。
それでも。
蒼は、扉の開閉スイッチから、目を離せなかった。
しばらく、動けなかった。
回送列車は完全に停止している。
非常制動がかかったわけじゃない。
最初から、ここで停まる予定だったみたいに、自然に。
「……停車位置、良好」
反射で指差喚呼をしてから、苦笑する。
何をやっているんだ、俺は。
ドアを開ける。
冷たい空気が、足元から入り込んできた。
ホームに降りた瞬間、音が少ないことに気づく。
いや、少ないんじゃない。
ほとんど、ない。
風の音がしない。
木が軋む音もしない。
遠くの川の気配すら、感じられない。
「……静かすぎるだろ」
自分の声だけが、やけに響く。
それがまた、不安を煽った。
駅名標をもう一度見る。
やっぱり、「銅裏」。
聞いたことはない。
なのに、頭の奥で何かが引っかかる。
――銅山。
そんな言葉が浮かぶ。
昔、この辺りにあったと聞いたことがある。
そして、父の事故現場も――
「……やめろ」
首を振る。
今は関係ない。
駅舎へ向かう。
木の床が、ぎい、と鳴いた。
ちゃんと、音は出る。
なのに、周囲は相変わらず、死んだみたいに静かだった。
中に入る。
待合室は、古いが整っている。
埃はほとんどない。
最近まで使われていた、と言われても信じる。
壁に、時刻表が貼ってあった。
覗き込む。
「……?」
行先欄は、すべて空白。
列車番号も、ない。
ただ一つだけ。
「17:04着」
それだけが、はっきりと書かれていた。
嫌な予感が、背中を這い上がる。
腕時計を見る。
……16時58分。
「……近いな」
独り言が、乾いた音で落ちる。
駅員室の方を見る。
引き戸は、少しだけ開いていた。
「すみません」
声をかける。
返事はない。
中を覗くと、机の上に湯呑みがあった。
湯気が、うっすらと立っている。
「……誰か、いるだろ」
思わず、そう言った。
でも、部屋には誰もいない。
椅子も、倒れていない。
ただ、今さっきまで人がいた、という“痕跡”だけが残っている。
胸が、妙に苦しくなる。
「……来るな、ってことか」
誰に言うでもなく、呟く。
そのとき。
遠くから、低いエンジン音が聞こえた。
最初は、気のせいかと思った。
でも、確かに近づいてくる。
「……列車?」
ホームへ駆け戻る。
霧の向こうから、灯りが揺れていた。
古いディーゼル車。
見たことのない型。
なのに、なぜか懐かしい。
それは、ゆっくりと、銅裏駅に入線してきた。
時計を見る。
17:04。
――ぴったりだった。
蒼は、無意識に一歩、後ずさる。
「……何だよ、これ」
答えは、どこにもなかった。
ただ、列車の扉が、静かに開いた。
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