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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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白い曲がり角 最終話

 山道を通らなくなっても、夜は終わらなかった。

 照屋奏多の生活は、表面上は以前と変わらない。朝起きて、会社へ行き、仕事をして、夜に帰る。ただそれだけだ。

 だが、確実に「何か」が違っていた。

 夜になると、部屋の隅が暗すぎる。電気をつけていても、光が届かない場所があるように感じられる。シャワーを浴びている最中、背中に冷たい視線を感じる。振り向けば、当然誰もいない。それでも、首の後ろの産毛が逆立ったまま戻らない。


 そして、車。

 エンジンをかけるたび、無意識に助手席を確認してしまう。そこに何もないことを確かめて、ようやく呼吸が整う。


 それなのに――


 バックミラーだけは、どうしても見られなかった。見てしまえば、そこに映る気がした。白いワンピース。伏せた顔。かすれた声。


 ――迎えは、まだ。


 その言葉が、現実と夢の境界を溶かしていく。


 ある夜、仕事帰りに雨が降り出した。

 ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを叩く。街灯の光が、水滴の向こうで滲む。

 信号待ちで車を停めたときだった。

 何気なく、バックミラーに視線が吸い寄せられる。逃げる間もなかった。そこには、確かに映っていた。助手席に座る、白い影。

 以前よりも、はっきりとした輪郭。ワンピースの皺まで、見える。

 奏多の喉が、ひくりと鳴った。

 影は、こちらを見ていない。ただ、前を向いて座っている。

 まるで、そこが「自分の席」であるかのように。

 次の瞬間、後続車のクラクションが鳴り、奏多は我に返った。

 信号が青に変わっている。

 再びミラーを見ると、そこには何もなかった。

 手が、震えている。

 ハンドルを握り直しながら、奏多は理解していた。

 彼女は、弱まっていない。むしろ、こちらに近づいてきている。距離が、縮まっている。その夜、奏多は決めた。

 もう一度、あの場所へ行く。逃げ続けても、意味がない。彼女が待ち続けている限り、自分は終われない。


 時計を見ると、二十二時を少し過ぎていた。あの夜と、同じ時刻。

 車に乗り込み、エンジンをかける。胸の奥が、静かに冷えていく。

 山道へ向かう分岐で、一瞬だけ躊躇した。それでも、ハンドルは自然と、そちらへ切られていた。

 街の灯りが、背後で遠ざかる。闇が、再び近づいてくる。ヘッドライトの先に映る道は、以前よりも細く、歪んで見えた。

 まるで、現実そのものが、こちらを拒んでいるかのようだった。

 そして、白い曲がり角が、近づいてくる。

 胸が、痛いほど締めつけられる。

 呼吸をするたび、冷たい空気が肺に流れ込む。


 奏多は、カーブの手前で車を停めた。エンジンを切る。

 静寂。

 雨音だけが、世界に残る。ドアを開け、外に出る。アスファルトは濡れ、街灯のない闇が、足元に溜まっている。


 ここだ。


 彼女が、消えた場所。彼女が、待ち続けている場所。

 奏多は、ゆっくりと振り返った。

 車の中を、見る。助手席は、空いている。だが――バックミラーには、もう、白い影が映っていた。

 彼女は、初めて、奏多を見ていた。


 視線が、重なる。その口が、ゆっくりと動く。


「……来てくれた……」


 声は、雨音に溶けながらも、確かに聞こえた。

 奏多は、動けなかった。恐怖よりも、別の感情が、胸を満たしていた。


 ――責任。


 知らない誰かを助けようとした、その善意が、ここまで連れてきた。

 彼女は、待っている。今も。迎えを。そして、その迎えが、誰であるのかを。

 雨の中、白い曲がり角で、二人の時間だけが、静かに進み始めていた。

 雨は、強くなっていた。

 フロントガラスに打ちつける水滴の音が、やけに近く感じられる。

 世界が、車とその周囲だけに縮んでしまったようだった。


 奏多は、ゆっくりと運転席に戻った。

 逃げる、という選択肢はもうなかった。足が、勝手に動いている。ドアを閉める。その瞬間、車内の空気が、はっきりと変わった。

 冷たい。これまで感じてきた冷気とは、質が違う。

 「そこにいる」という存在感が、隠されることなく、助手席に満ちていた。

 奏多は、視線を前に固定したまま、口を開いた。


「……あなたは」


 声が、震える。


「迎えを、待ってたんですよね」


 すぐに返事はなかった。雨音と、エンジンのアイドリング音だけが、沈黙を埋める。

 やがて、かすれた声が、助手席側から聞こえた。


「……待ってた……」


 短い言葉。それだけで、胸の奥が締めつけられる。


「……約束、してたんです」


 彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。


「山の上で……迎えに来てくれるって……」


 奏多の脳裏に、情景が浮かぶ。

 夜の山道。街灯もなく、ただ闇だけが広がっている。

 その中を、白いワンピースの女性が、一人で歩いている。


「でも……来なかった……」


 声に、わずかな揺れが混じる。


「待っても……待っても……」


 奏多は、ハンドルを強く握りしめた。

 指先が、白くなる。


「……それで?」


「……車の音がして……」


 彼女は、少しだけ、こちらを向いた。

 横目で見るその顔は、半分が闇に沈み、半分がメーターの淡い光に照らされている。


「助けてくれるって……思った……」


 奏多は、何も言えなかった。

 自分が、まさにその「車」だったことを、はっきりと理解してしまったからだ。


「……でも……」


 彼女の声が、低くなる。


「曲がり角が……見えなくて……」


 その先の言葉は、なかった。だが、十分だった。事故の瞬間。闇と、衝撃と、終わり。

 それが、頭の中で、音を立てて繋がる。


「……あなたは……まだ、待ってるんですか」


 絞り出すように、尋ねた。


「……うん……」


 間髪入れず、返事が返ってくる。


「迎え……まだ……」


 奏多は、ゆっくりと息を吐いた。

 胸の奥に、奇妙な感情が広がっていく。恐怖だけではない。同情とも、責任感とも、違う。もっと、重いもの。


「……迎えが来なかったから……」


 彼女の声が、微かに震えた。


「代わりが……必要……」


 その言葉の意味が、理解できてしまった。

 代わり。誰かが、彼女を迎えに行かなければならない。終わらせるために。

 そして、その役目に――

 自分が選ばれている。

 奏多は、バックミラーを見た。

 そこに映る、自分の顔は、驚くほど冷静だった。


「……それが、僕だって言うんですか」


 沈黙。だが、否定はなかった。

 雨音が、強くなる。ワイパーが、視界を必死に保つ。

 奏多は、ゆっくりと、ギアを入れた。

 エンジン音が、わずかに高くなる。白い曲がり角が、すぐそこにあった。


「……行けば……終わる……」


 彼女の声が、背中を押す。

 奏多は、アクセルに足を乗せたまま、動かない。終わる、とは何を意味するのか。自分は、戻って来られるのか。

 だが、その答えを考える前に、もう一つの事実が、胸に浮かんだ。


 もし、ここで逃げれば――彼女は、永遠に待ち続ける。

 そして、自分もまた、逃げ続けることになる。

 奏多は、目を閉じた。短く、息を吸う。


 そして――

 アクセルを、踏み込んだ。

 車は、雨の中を走り出す。白い曲がり角へ向かって。迎えを、果たすために。

 雨粒が、ヘッドライトの光の中で白く弾ける。

 車は、ゆっくりと速度を上げていた。

 急げば危険だと、頭では分かっている。それでも、ブレーキを踏む理由は、もうどこにもなかった。


 白い曲がり角が、目前に迫る。

 あの夜と、同じ場所。彼女が消えた場所であり、彼女が終われなかった場所。

 奏多は、ハンドルを握りながら、ふと気づく。

 恐怖が、薄れている。

 心臓は確かに速く打っているが、逃げたいという衝動はなかった。

 代わりに胸を満たしているのは、奇妙な静けさだった。


 ――なるほど。


 ここに来るまでのすべては、この瞬間のためだったのかもしれない。


 視線を横に向ける。助手席に、彼女は座っていた。もう、影ではない。はっきりとした輪郭を持つ、一人の女性として。

 白いワンピースは、雨に濡れていない。髪も、乱れていない。

 まるで、時間そのものが、事故の瞬間で止まっているかのようだった。


「……怖い?」


 彼女が、初めて問いかけてきた。

 奏多は、少し考えてから答えた。


「……怖いですよ」


 正直な気持ちだった。死が怖くない人間など、いない。自分も例外ではない。

 彼女は、小さくうなずいた。


「……私も……怖かった……」


 その言葉に、胸が詰まる。

 事故の瞬間。闇の中で、彼女は何を思ったのだろう。

 迎えが来なかった不安。置き去りにされたという絶望。そして、迫ってくる終わり。


「……でも……」


 彼女は、前を向いたまま続けた。


「一人より……誰かと……一緒のほうが……」


 それ以上、言葉は続かなかった。だが、十分だった。

 奏多は、ゆっくりと息を吐く。


「……じゃあ……行きましょうか」


 自分でも驚くほど、穏やかな声だった。彼女は、わずかに微笑んだように見えた。次の瞬間、白い曲がり角に差し掛かる。

 視界が、一瞬だけ歪む。

 ヘッドライトの光が、雨と闇に吸い込まれ、境界が曖昧になる。


 ――落ちる。


 そう思った。だが、衝撃は来なかった。代わりに、世界が静止する。音が、消える。雨も、風も、エンジン音も、すべてが遠ざかる。

 奏多は、気づけば、車の外に立っていた。

 白い霧のような空間。足元も、空も、境目がない。隣には、彼女がいる。


「……ここが……境目……」


 彼女は、静かに言った。


「迎えが……必要だった……」


 奏多は、周囲を見回す。

 遠くに、かすかな光が見えた。暖かく、懐かしい色。


「あそこへ……行けば……」


 彼女が、光の方を指さす。


「終われる……」


 奏多は、少しだけ、迷った。

 自分は、どうなるのか。戻れるのか、それとも――。

 だが、その答えを求める前に、彼女の表情を見て、すべてがどうでもよくなった。

 そこには、安堵があった。

 長く待ち続けた者が、ようやく「終わり」を見つけた顔だった。


「……行きましょう」


 奏多は、そう言った。

 二人で、光の方へ歩き出す。一歩、また一歩。距離が縮まるにつれ、彼女の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。


「……ありがとう……」


 その声は、もう、かすれていなかった。

 そして、光に触れた瞬間――彼女は、完全に消えた。

 奏多は、立ち尽くす。

 次の瞬間、強烈な光に包まれ、視界が白に染まった。




 目を開けると、運転席にいた。

 車は、白い曲がり角を抜け、山頂へ向かう直線に差し掛かっている。

 雨は、いつの間にか止んでいた。

 ブレーキを踏み、車を停める。震える手で、助手席を見る。誰もいない。

 シートは、沈んでいない。冷気も、残っていない。

 ただ、静かな夜だけが、そこにあった。

 翌日、ニュースに、特別な記事は載らなかった。

 山道で新たな事故が起きたという話も、噂も、聞かなかった。

 それでも。奏多は、今でも、夜の山道を走ることがある。


 白い曲がり角を通るたび、バックミラーを見る。そこに、白い影は映らない。

 だが、ふとした瞬間、助手席に「誰かが座っていた記憶」だけが、胸の奥で疼く。

 迎えを待っていたのは、彼女だった。

 けれど――迎えに行ったのは、確かに、自分だったのだ。

 夜の山道は、今日も静かに続いている。何事もなかったかのように。

 そしてその静けさが、奏多にとっては、何よりも恐ろしかった。

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