白い曲がり角 第2話
眠れない夜が、続いた。
布団に入って目を閉じても、意識が沈まない。
まぶたの裏に浮かぶのは、闇に切り取られた山道と、ヘッドライトに照らされた白いワンピースだった。
夢に見るほど、はっきりとした映像ではない。
むしろ、思い出そうとすると輪郭が崩れ、代わりに「感触」だけが残る。
助手席の、あの冷たさ。空気に触れたはずなのに、指先にまとわりついた異物感。
そこに“誰かがいた”という確信だけが、何度も蘇る。
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めるようになった。
鏡に映る自分の顔は、思った以上に疲れている。目の下にうっすらと隈ができ、口元はこわばっていた。
──疲れているだけだ。
そう思おうとしても、心のどこかが拒否する。
会社に向かう途中、無意識のうちに車の助手席を見てしまう自分に気づき、奏多は苦笑した。
当然、そこには何もない。
仕事中も、集中力が続かなかった。キーボードを打つ音が、やけに遠く感じる。同僚の会話が、壁越しに聞こえてくるようだった。
「照屋くん?」
上司の声で、はっと我に返る。
「……あ、すみません」
咄嗟に頭を下げる。
幸い、深く追及されることはなかったが、背中に冷や汗が流れた。
昼休み。
休憩室で、コーヒーを片手にぼんやりしていると、数人の同僚が雑談を始めた。
「そういえばさ、あの山道、通行止めになってたよね」
その一言に、心臓が強く打つ。
聞き間違いだと思いたくて、視線を落としたまま耳だけを澄ませた。
「ほら、山頂手前のカーブ。事故があったらしいよ」
血の気が引いていくのが分かった。
「夜に車が崖下に落ちたんだって。運転してたの、女の人らしい」
コーヒーの苦味が、急に強く感じられた。
「一週間くらい前だとか。即死だったって」
一週間前。
その言葉が、頭の中で反響する。
奏多は、椅子に座ったまま、身動きが取れなくなっていた。
会話は続いているはずなのに、もう内容が耳に入らない。
――一週間前。
あの夜と、重なる。
仕事が終わると、奏多はまっすぐ帰宅した。
寄り道をする気力はなかった。
部屋に入るなり、スマートフォンを手に取る。
指先が、わずかに震えている。
検索窓に、山道の名前と「事故」という文字を打ち込む。
候補が表示され、無意識に一番上をタップした。
地方ニュースの、小さな記事だった。
見出しは淡々としている。
日付。場所。概要。
読み進めるにつれ、呼吸が浅くなっていく。
年齢、二十代前半。
事故発生時刻、二十二時過ぎ。
そして、服装。
――白いワンピース。
スマートフォンを握る手に、力がこもる。
偶然だ。
そう思おうとしても、否定できる要素が見つからなかった。
画面を閉じると、静かな部屋に、自分の呼吸音だけが残った。
そのとき、ふと気づく。部屋の中が、少しだけ、冷えている。エアコンはつけていない。窓も閉まっている。
それなのに、背中に、あの夜と同じ冷気が這い上がってくる。
奏多は、反射的に、部屋の隅へ視線を走らせた。
もちろん、誰もいない。
だが、胸の奥で、何かが静かに形を成し始めていた。
――あれは、偶然じゃない。
自分が、関わってしまったのだ。
知らない誰かを助けようとした、ただそれだけで。
そして、まだ終わっていない。
理由は分からない。
だが、確かな予感だけが、心臓の裏側に張り付いていた。
――彼女は、まだ、そこにいる。
それからというもの、奏多の日常は、目に見えない歪みに侵食されていった。
仕事中、ふとした瞬間に背後の気配を感じる。
振り返れば誰もいない。それでも、視線だけが、確かに「そこ」に残っている。
エレベーターの鏡に映る自分の肩越し。夜のコンビニのガラス窓。信号待ちで停まった車の、バックミラー。
白いものが、視界の端をかすめる。
はっきりとは見えない。見えないからこそ、否定もできなかった。
ある晩、帰宅途中に赤信号で停まったときだった。
無意識に、バックミラーを見る。
一瞬、そこに――
白い影が、座っているように見えた。
心臓が、喉まで跳ね上がる。
瞬きをすると、影は消え、自分の青白い顔だけが映っていた。
後続車のヘッドライトが、やけに眩しい。
――疲れているだけだ。
何度も、そう言い聞かせた。
だが、心のどこかでは、もう分かっていた。
彼女は、奏多の「記憶」の中にいるのではない。
奏多の「周囲」にいる。
数日後、耐えきれなくなり、同僚の一人にそれとなく聞いてみた。
「……あの山道の事故、詳しく知ってる?」
声が震えないよう、努めて平静を装う。
「ああ、あれ? 夜だったらしいね。迎えが来るはずだったとか」
その言葉に、息が止まる。
「迎え……?」
「うん。詳しくは知らないけど、家族か恋人か、誰かが来る予定だったらしいよ。でも、連絡がつかなくて」
迎え。彼女が、車内で呟いた言葉が、鮮明に蘇る。
――迎えに行かないといけないんです。
奏多は、ようやく気づき始めていた。
言葉が、裏返っていたのだ。
迎えに行くのではない。迎えを、待っていた。事故当日、彼女は山道を歩いていたのかもしれない。暗闇の中、約束の相手を待ちながら。
だが、迎えは来なかった。
理由は分からない。事故だったのか、約束が破られたのか、それとも――。
未完のまま残された感情だけが、あの場所に滞留した。
そして、夜の山道を走る、たまたま通りかかった奏多の車を見つけた。
助けようとした、その善意が、境界を越えてしまった。
奏多は、冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干した。
喉を通る冷たさが、現実に引き戻してくれる。
それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
彼女は、まだ待っている。迎えを。
そして――
迎えに来なかった「誰か」を。
その夜、夢を見た。
山道を、一人で歩いている夢だ。
街灯のない闇。足元が、よく見えない。
遠くに、車のライトが見える。助けてもらえる、と思った瞬間、ライトは消える。闇だけが残る。
振り返ると、カーブの先に、自分自身が立っていた。
白いワンピースを着て。悲鳴を上げようとして、声が出ない。
そのとき、耳元で、かすれた声が囁いた。
「……迎えは……?」
奏多は、叫び声を上げて目を覚ました。
心臓が、暴れるように脈打っている。
――行かなければならない。
あの場所へ。
理由は、分からない。だが、行かなければ、終わらない。
白い曲がり角が、奏多を呼んでいた。あの山道へ行くべきではない。理性は、何度もそう警告していた。行けば、何かが決定的に変わってしまう。戻れなくなる。そんな予感が、はっきりとあった。
それでも、行かないという選択肢は、最初から存在していなかった。
夜になるたび、胸の奥がざわつく。
時計が二十二時を回ると、無意識に車の鍵を探している自分に気づく。
彼女が消えた時刻。事故が起きたとされる時刻。
すべてが、そこに収束していく。
仕事を終えた奏多は、誰にも告げず、再び山道へ向かった。
街を離れるにつれ、空気が変わる。エンジン音が、やけに大きく響く。ヘッドライトが照らす範囲だけが、現実。その外側には、闇しかない。あの夜と、同じだ。
心臓の鼓動が、速くなる。
呼吸が、浅くなる。
問題のカーブが近づくにつれ、胸の奥が締めつけられるような感覚が強まった。視界が、わずかに歪む。
――待っている。
誰かが、確かに、そう思っている気配があった。
奏多は、カーブの手前で車を停めた。
エンジンを切ると、耳鳴りのような静寂が訪れる。風の音が、木々を揺らす。
外に出ると、夜気が肌にまとわりついた。吐く息が、白い。
足元のアスファルトには、事故の痕跡がまだ残っている。擦れたガードレール。割れた反射板。
ここで、彼女は――。
奏多は、自然と手を合わせていた。
慰めたいのか、謝りたいのか、自分でも分からない。
その瞬間。
背後で、微かな音がした。砂利を踏む、足音。
心臓が跳ねる。
ゆっくりと、振り返る。
誰もいない。
だが――車のバックミラーが、視界の端に入った。
そこには、はっきりと映っていた。助手席に座る、白いワンピースの女性。初めて、彼女の表情が分かった。
無表情だった顔に、かすかな焦りの色が浮かんでいる。まるで、時間が迫っていることを知っているかのように。
奏多は、声を失った。
ミラー越しに、彼女の視線が、こちらを捉える。そして、ゆっくりと、口が動いた。
「……迎えは……まだ……」
声は、直接耳に届いたわけではない。
それでも、頭の内側で、はっきりと響いた。
次の瞬間、影は消えた。風が、強く吹き抜ける。
奏多は、震える足で車に戻った。ドアを開ける手が、うまく動かない。
助手席を見る。誰もいない。だが、シートは、確かに――わずかに沈んでいた。誰かが、そこに座った重み。
奏多は、悟った。
彼女は、まだ終われていない。迎えを待ち続けている。
そして――
自分が、その「迎え役」に近づいていることを。
その夜以降、奏多は山道を通らなくなった。
それでも、意味はなかった。
夜、車に乗るたび、バックミラーの奥に、白い影が映る。信号待ちのたび、助手席の気配を感じる。
彼女は、場所を離れたのではない。奏多の「そば」に移ったのだ。
――迎えは、まだ。
その言葉が、耳の奥で、今も繰り返されている。
そして、奏多は知っている。いつか、その問いに答えなければならない日が来ることを。
それが、どんな意味を持つとしても。
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