白い曲がり角 第1話
照屋奏多が夜の山道を選ぶようになったのは、逃げ場所が欲しかったからだ。
会社を出る頃には、空はもう完全に夜になっている。
オフィスの蛍光灯の白さがまだ瞼の裏に残っているのに、外気はひどく冷たい。その落差が、胸の奥をざらつかせた。
社会人二年目。
仕事には、まだ慣れない。
覚えが悪いわけではない。手を抜いているつもりもない。
それでも、少しのミスが積み重なると、「二年目なら分かるよね」という言葉が刺さる。
分かっている。
分かっているからこそ、苦しい。
家に帰れば寝るだけの日々。
部屋の天井を見上げながら、失敗したやり取りや、言えなかった言葉を反芻しているうちに、いつの間にか朝になっている。
そんな生活の中で、奏多が見つけた唯一の「余白」が、夜のドライブだった。
遠回りになることは分かっている。
それでも、あえて街を離れ、山の方へハンドルを切る。
とある県の山間部。
観光地でもなければ、特別な名所があるわけでもない。地元の人間しか使わないような、細く曲がりくねった山道だ。
街灯は少なく、一定の距離を走ると完全な闇に包まれる。
ヘッドライトが照らす範囲だけが、現実だった。
ラジオはつけない。
人の声を聞く余裕がない夜もある。
ただエンジン音と、タイヤがアスファルトを噛む低い音だけが、一定のリズムで続く。それが、不思議と呼吸を整えてくれた。
山頂には、小さな展望台がある。
車を停め、外に出ると、遠くに街の灯りが見える。
それを見下ろしている間だけ、奏多は「自分の生活」を少し引いた場所から眺められる気がした。
――白い影が出るらしいよ。
その山道について、同僚がそう言ったのは、いつだったか。
山頂手前の急カーブ。
事故が多くて、夜になると白い服の女が立っているのだという。
奏多は、曖昧に笑った。
怪談は嫌いではない。
だが、それはあくまで「聞き物」だ。実際に遭遇するとは、考えていなかった。
事故が多い場所には、必ず噂がつきまとう。
白い服というのも、夜道で一番目立つからだろう。合理的な理由はいくらでも思いついた。
その日も、仕事は長引いた。
時計を見ると、二十二時を少し回っている。
帰宅ルートを一瞬だけ迷い、それからいつものように、山の方へ向かった。
ハンドルを切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
舗装の荒れた道に入り、カーブが増えてくる。
街の明かりは、すぐに背後へ消えた。
闇が、濃い。
ヘッドライトの外側には、何もないように見える。
実際には木々が密集しているはずなのに、それすら飲み込まれている。
そのときだった。
次のカーブを照らした光の中に、白いものが浮かび上がった。
一瞬、理解が遅れる。
反射的にブレーキを踏み、体が前に投げ出される。
シートベルトが肩に食い込み、心臓が跳ねた。
車は、ぎりぎりで止まった。
ヘッドライトの先。道端に、人が立っている。
白いワンピースを着た、女だった。女は、動かなかった。
白いワンピースの裾が、夜風に揺れている……ように見えたが、よく見ると、実際にはほとんど動いていない。風が吹いていないわけではないのに、布だけが取り残されたようだった。
こんな時間に。こんな場所で。
胸の奥で、警戒心がじわりと広がる。
引き返した方がいい。
そう思う一方で、ハンドルから手を離せないまま、数秒が過ぎた。
見捨てる、という選択肢が、どうしても浮かばなかった。
この山道は、昼間でも人通りが少ない。
夜になれば、なおさらだ。スマートフォンの電波も、場所によっては不安定になる。
もし、何か事情があって立ち往生しているのだとしたら――。
奏多は、ゆっくりと窓を開けた。
「……大丈夫ですか?」
自分の声が、思ったよりも乾いて聞こえた。
女は、少し遅れて顔を上げた。
ヘッドライトに照らされたその顔は、驚くほど無表情だった。
恐怖も、安堵も、困惑もない。ただ、そこに「ある」だけの顔。
年齢は二十代前半くらいに見える。
化粧はしていないようで、唇の色が薄い。目の下に、うっすらと影があった。
「山頂まで……乗せてください」
声はかすれていた。
夜気にやられたような、喉の奥で擦れる音。
一瞬、言葉を失う。
山頂まで。
そこには、展望台しかない。
こんな時間に行く理由は、普通なら考えにくい。
それでも、彼女は当然のようにそう言った。
「……歩くのは、危ないですよ」
奏多は、自分でも驚くほど冷静な声で答えていた。
不安はある。それでも、放っておけない。
女は、ほんのわずかに首を縦に振った。
それ以上の説明はなかった。
奏多は一度だけ、後部座席を確認し、それから助手席のドアロックを解除した。
「どうぞ」
ドアが開く音が、やけに大きく響いた。
女は無言で乗り込み、シートに腰を下ろした。
動作はゆっくりで、ぎこちない。まるで「乗り慣れていない」かのようだ。
ドアが閉まる。その瞬間、車内の空気が変わった。
ひやり、とした感覚が、助手席側から流れ込んでくる。
エアコンは切っている。窓も、ほとんど開けていない。
気のせいだ、と自分に言い聞かせ、車を発進させた。
走り出しても、女は一言も発しなかった。
前を向いたまま、じっと窓の外を見ている。
街灯のない闇が、ガラス越しに流れていく。
「……この道、よく通るんですか?」
沈黙に耐えきれず、声をかけた。
女は、少し間を置いてから、口を開いた。
「……迎えに行かないといけないんです」
それだけだった。
「迎え?」
問い返すと、女はそれ以上何も言わなかった。
まるで、その言葉以上の意味を持たせる必要がないかのように。
奏多は、ハンドルを握る手に、じんわりと汗が滲むのを感じた。
迎えに行く。
誰を。どこへ。
頭の中で、いくつかの可能性が浮かんでは消える。
しかし、どれもしっくりこない。
女の横顔を、ちらりと盗み見る。
まばたきをしていないことに気づき、視線を逸らした。
目が、乾かないのだろうか。
そんな、どうでもいい疑問が浮かぶ。
山道は、次第に勾配を増していく。
エンジン音が、わずかに重くなる。
やがて、問題のカーブが近づいてきた。
山頂手前の急カーブ。
ガードレールには、何度もぶつけられた痕跡が残っている。
女は、その方向を、じっと見つめていた。
視線が、まるで縫い止められたように動かない。
「……この先、ですか?」
奏多がそう尋ねた瞬間――
空気が、抜けた。
助手席にあったはずの「重さ」が、消える。
反射的に、視線を向ける。
そこには、誰もいなかった。
声が、喉の奥で凍りつく。
ブレーキを踏む間もなく、車はカーブへと差し掛かる。
ハンドルを切りながら、何度も助手席を確認する。
ドアは閉まっている。
シートベルトは、垂れ下がったまま。
確かに、さっきまで、そこに──。
理解するより先に、恐怖が全身を支配した。
奏多はアクセルを踏み込み、逃げるように山頂へ向かった。
バックミラーを見る勇気は、なかった。
ただ一つ、はっきりと分かることがあった。
あれは、人ではなかった。
アクセルを踏み込んだ瞬間、エンジンが悲鳴を上げた。
速度計の針が上がっていく。
山道に不慣れな走り方だと分かっていても、緩めることができなかった。
──振り返るな。
そう強く意識すればするほど、首の後ろが熱を持つ。
誰かに見られている感覚が、ぴったりと張り付いて離れない。
助手席を見てはいけない。バックミラーも、見てはいけない。
それでも、視界の端に何かが映り込むたび、心臓が跳ねた。
カーブを抜ける。さらにもう一つ、緩やかな曲がり角。山頂までの道が、やけに長く感じられた。
ようやく展望台の駐車スペースが見えたとき、奏多はほとんど転がり込むように車を停めた。
エンジンを切る。
突然訪れた静寂が、耳鳴りのように重くのしかかる。
息が、荒い。
数秒、いや、数十秒かもしれない。
ハンドルに額を押しつけたまま、動けずにいた。
……落ち着け。
あれは、見間違いだ。
疲れていただけだ。
自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと顔を上げる。
そして、恐る恐る、助手席を見る。
誰もいない。
分かっていたはずなのに、胸の奥がずきりと痛んだ。
ドアを開け、外に出る。
夜気が肌を刺す。
展望台から見下ろす街の灯りは、いつもと変わらず、静かに瞬いていた。
その光景が、逆に現実感を薄れさせる。
――さっきまで、ここに来る途中で、あんなことが起きていたのか?
夢の続きを見ているような感覚。奏多は、車の周囲を一周した。足跡はない。何かが落ちている様子もない。助手席のドアに手をかけ、もう一度中を覗く。
シートは、少しだけ、沈んでいるように見えた。
気のせいだ。
そう思おうとした瞬間、ひやりとした空気が、腕に触れた。
思わず手を引っ込める。
……冷たい。
明らかに、外気よりも冷たい。
車内に戻る気にはなれず、奏多は展望台の手すりに寄りかかった。
しばらく、何も考えないように、街の灯りを眺める。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ようやく呼吸が整い、「帰ろう」と思った、そのときだった。
足元で、砂利が鳴った。
びくりと体が跳ねる。
誰かいるのか、と視線を向けるが、展望台には自分しかいない。
音は、風が運んできた小枝が転がっただけだった。
……過敏になりすぎている。
車に戻り、今度は意を決して、助手席に視線を向ける。
やはり、誰もいない。
それでも、そこには「何かがいた」痕跡だけが、はっきりと残っている気がした。
座席に染みついた冷気。
わずかに沈んだクッション。
そして、耳の奥に残る、かすれた声。
──迎えに行かないといけないんです。
その言葉が、何度も頭の中で反芻される。
迎え。
誰を。どこへ。
意味は分からない。
だが、分かりたくない、という感情が先に立った。
その夜、奏多は普段よりも早く山を下りた。
帰り道、何度もバックミラーを見てしまったが、そこに映るのは、自分の怯えた顔だけだった。
家に着き、シャワーを浴び、布団に入っても、眠りは浅かった。
目を閉じると、あの白いワンピースが浮かぶ。
表情のない顔。
乾いた声。
そして、急カーブの闇。
翌朝、目覚めたとき、助手席の冷たさだけが、やけに鮮明に残っていた。
それが、すべての始まりだった。
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