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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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12/25

白い曲がり角 第1話

 照屋奏多てるやかなたが夜の山道を選ぶようになったのは、逃げ場所が欲しかったからだ。


 会社を出る頃には、空はもう完全に夜になっている。

 オフィスの蛍光灯の白さがまだ瞼の裏に残っているのに、外気はひどく冷たい。その落差が、胸の奥をざらつかせた。


 社会人二年目。

 仕事には、まだ慣れない。


 覚えが悪いわけではない。手を抜いているつもりもない。

 それでも、少しのミスが積み重なると、「二年目なら分かるよね」という言葉が刺さる。


 分かっている。

 分かっているからこそ、苦しい。


 家に帰れば寝るだけの日々。

 部屋の天井を見上げながら、失敗したやり取りや、言えなかった言葉を反芻しているうちに、いつの間にか朝になっている。


 そんな生活の中で、奏多が見つけた唯一の「余白」が、夜のドライブだった。


 遠回りになることは分かっている。

 それでも、あえて街を離れ、山の方へハンドルを切る。


 とある県の山間部。

 観光地でもなければ、特別な名所があるわけでもない。地元の人間しか使わないような、細く曲がりくねった山道だ。


 街灯は少なく、一定の距離を走ると完全な闇に包まれる。

 ヘッドライトが照らす範囲だけが、現実だった。


 ラジオはつけない。

 人の声を聞く余裕がない夜もある。


 ただエンジン音と、タイヤがアスファルトを噛む低い音だけが、一定のリズムで続く。それが、不思議と呼吸を整えてくれた。


 山頂には、小さな展望台がある。


 車を停め、外に出ると、遠くに街の灯りが見える。

 それを見下ろしている間だけ、奏多は「自分の生活」を少し引いた場所から眺められる気がした。


 ――白い影が出るらしいよ。


 その山道について、同僚がそう言ったのは、いつだったか。


 山頂手前の急カーブ。

 事故が多くて、夜になると白い服の女が立っているのだという。


 奏多は、曖昧に笑った。


 怪談は嫌いではない。

 だが、それはあくまで「聞き物」だ。実際に遭遇するとは、考えていなかった。


 事故が多い場所には、必ず噂がつきまとう。

 白い服というのも、夜道で一番目立つからだろう。合理的な理由はいくらでも思いついた。


 その日も、仕事は長引いた。


 時計を見ると、二十二時を少し回っている。

 帰宅ルートを一瞬だけ迷い、それからいつものように、山の方へ向かった。


 ハンドルを切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 舗装の荒れた道に入り、カーブが増えてくる。

 街の明かりは、すぐに背後へ消えた。


 闇が、濃い。


 ヘッドライトの外側には、何もないように見える。

 実際には木々が密集しているはずなのに、それすら飲み込まれている。


 そのときだった。


 次のカーブを照らした光の中に、白いものが浮かび上がった。


 一瞬、理解が遅れる。


 反射的にブレーキを踏み、体が前に投げ出される。

 シートベルトが肩に食い込み、心臓が跳ねた。

 車は、ぎりぎりで止まった。

 ヘッドライトの先。道端に、人が立っている。

 白いワンピースを着た、女だった。女は、動かなかった。


 白いワンピースの裾が、夜風に揺れている……ように見えたが、よく見ると、実際にはほとんど動いていない。風が吹いていないわけではないのに、布だけが取り残されたようだった。


 こんな時間に。こんな場所で。


 胸の奥で、警戒心がじわりと広がる。

 引き返した方がいい。

 そう思う一方で、ハンドルから手を離せないまま、数秒が過ぎた。


 見捨てる、という選択肢が、どうしても浮かばなかった。


 この山道は、昼間でも人通りが少ない。

 夜になれば、なおさらだ。スマートフォンの電波も、場所によっては不安定になる。


 もし、何か事情があって立ち往生しているのだとしたら――。


 奏多は、ゆっくりと窓を開けた。


「……大丈夫ですか?」


 自分の声が、思ったよりも乾いて聞こえた。

 女は、少し遅れて顔を上げた。

 ヘッドライトに照らされたその顔は、驚くほど無表情だった。

 恐怖も、安堵も、困惑もない。ただ、そこに「ある」だけの顔。


 年齢は二十代前半くらいに見える。

 化粧はしていないようで、唇の色が薄い。目の下に、うっすらと影があった。


「山頂まで……乗せてください」


 声はかすれていた。

 夜気にやられたような、喉の奥で擦れる音。


 一瞬、言葉を失う。


 山頂まで。

 そこには、展望台しかない。


 こんな時間に行く理由は、普通なら考えにくい。

 それでも、彼女は当然のようにそう言った。


「……歩くのは、危ないですよ」


 奏多は、自分でも驚くほど冷静な声で答えていた。

 不安はある。それでも、放っておけない。

 女は、ほんのわずかに首を縦に振った。

 それ以上の説明はなかった。


 奏多は一度だけ、後部座席を確認し、それから助手席のドアロックを解除した。


「どうぞ」


 ドアが開く音が、やけに大きく響いた。

 女は無言で乗り込み、シートに腰を下ろした。

 動作はゆっくりで、ぎこちない。まるで「乗り慣れていない」かのようだ。


 ドアが閉まる。その瞬間、車内の空気が変わった。

 ひやり、とした感覚が、助手席側から流れ込んでくる。

 エアコンは切っている。窓も、ほとんど開けていない。


 気のせいだ、と自分に言い聞かせ、車を発進させた。


 走り出しても、女は一言も発しなかった。


 前を向いたまま、じっと窓の外を見ている。

 街灯のない闇が、ガラス越しに流れていく。


「……この道、よく通るんですか?」


 沈黙に耐えきれず、声をかけた。

 女は、少し間を置いてから、口を開いた。


「……迎えに行かないといけないんです」


 それだけだった。


「迎え?」


 問い返すと、女はそれ以上何も言わなかった。

 まるで、その言葉以上の意味を持たせる必要がないかのように。


 奏多は、ハンドルを握る手に、じんわりと汗が滲むのを感じた。


 迎えに行く。

 誰を。どこへ。


 頭の中で、いくつかの可能性が浮かんでは消える。

 しかし、どれもしっくりこない。

 女の横顔を、ちらりと盗み見る。

 まばたきをしていないことに気づき、視線を逸らした。


 目が、乾かないのだろうか。

 そんな、どうでもいい疑問が浮かぶ。


 山道は、次第に勾配を増していく。

 エンジン音が、わずかに重くなる。


 やがて、問題のカーブが近づいてきた。


 山頂手前の急カーブ。

 ガードレールには、何度もぶつけられた痕跡が残っている。

 女は、その方向を、じっと見つめていた。

 視線が、まるで縫い止められたように動かない。


「……この先、ですか?」


 奏多がそう尋ねた瞬間――

 空気が、抜けた。

 助手席にあったはずの「重さ」が、消える。

 反射的に、視線を向ける。


 そこには、誰もいなかった。


 声が、喉の奥で凍りつく。

 ブレーキを踏む間もなく、車はカーブへと差し掛かる。

 ハンドルを切りながら、何度も助手席を確認する。


 ドアは閉まっている。

 シートベルトは、垂れ下がったまま。


 確かに、さっきまで、そこに──。

 理解するより先に、恐怖が全身を支配した。


 奏多はアクセルを踏み込み、逃げるように山頂へ向かった。

 バックミラーを見る勇気は、なかった。

 ただ一つ、はっきりと分かることがあった。


 あれは、人ではなかった。


 アクセルを踏み込んだ瞬間、エンジンが悲鳴を上げた。

 速度計の針が上がっていく。

 山道に不慣れな走り方だと分かっていても、緩めることができなかった。


 ──振り返るな。


 そう強く意識すればするほど、首の後ろが熱を持つ。

 誰かに見られている感覚が、ぴったりと張り付いて離れない。


 助手席を見てはいけない。バックミラーも、見てはいけない。


 それでも、視界の端に何かが映り込むたび、心臓が跳ねた。

 カーブを抜ける。さらにもう一つ、緩やかな曲がり角。山頂までの道が、やけに長く感じられた。


 ようやく展望台の駐車スペースが見えたとき、奏多はほとんど転がり込むように車を停めた。


 エンジンを切る。

 突然訪れた静寂が、耳鳴りのように重くのしかかる。

 息が、荒い。

 数秒、いや、数十秒かもしれない。

 ハンドルに額を押しつけたまま、動けずにいた。


 ……落ち着け。


 あれは、見間違いだ。

 疲れていただけだ。


 自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと顔を上げる。


 そして、恐る恐る、助手席を見る。

 誰もいない。

 分かっていたはずなのに、胸の奥がずきりと痛んだ。

 ドアを開け、外に出る。

 夜気が肌を刺す。


 展望台から見下ろす街の灯りは、いつもと変わらず、静かに瞬いていた。

 その光景が、逆に現実感を薄れさせる。


 ――さっきまで、ここに来る途中で、あんなことが起きていたのか?


 夢の続きを見ているような感覚。奏多は、車の周囲を一周した。足跡はない。何かが落ちている様子もない。助手席のドアに手をかけ、もう一度中を覗く。


 シートは、少しだけ、沈んでいるように見えた。


 気のせいだ。

 そう思おうとした瞬間、ひやりとした空気が、腕に触れた。


 思わず手を引っ込める。


 ……冷たい。


 明らかに、外気よりも冷たい。


 車内に戻る気にはなれず、奏多は展望台の手すりに寄りかかった。

 しばらく、何も考えないように、街の灯りを眺める。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 ようやく呼吸が整い、「帰ろう」と思った、そのときだった。


 足元で、砂利が鳴った。

 びくりと体が跳ねる。

 誰かいるのか、と視線を向けるが、展望台には自分しかいない。

 音は、風が運んできた小枝が転がっただけだった。


 ……過敏になりすぎている。


 車に戻り、今度は意を決して、助手席に視線を向ける。

 やはり、誰もいない。

 それでも、そこには「何かがいた」痕跡だけが、はっきりと残っている気がした。


 座席に染みついた冷気。

 わずかに沈んだクッション。


 そして、耳の奥に残る、かすれた声。


 ──迎えに行かないといけないんです。


 その言葉が、何度も頭の中で反芻される。


 迎え。

 誰を。どこへ。


 意味は分からない。

 だが、分かりたくない、という感情が先に立った。


 その夜、奏多は普段よりも早く山を下りた。


 帰り道、何度もバックミラーを見てしまったが、そこに映るのは、自分の怯えた顔だけだった。


 家に着き、シャワーを浴び、布団に入っても、眠りは浅かった。


 目を閉じると、あの白いワンピースが浮かぶ。


 表情のない顔。

 乾いた声。


 そして、急カーブの闇。


 翌朝、目覚めたとき、助手席の冷たさだけが、やけに鮮明に残っていた。


 それが、すべての始まりだった。

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