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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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赤いキャリーケース 第2話

 怖くなり、僕は走るコースを変えた。


 山道を避け、住宅街を抜け、海沿いの平地を走る。

 景色は単調で、坂もなく、体力づくりには物足りない。

 けれど、精神的には楽だった。

 あの白いワンピースの女がいないというだけで、呼吸が軽くなる。


 一週間が過ぎた。

 夢も見なくなり、少しずつ恐怖が薄れていく。

 人間の慣れとは不思議なもので、あれほどの恐怖も、時間が経てば薄まる。


 ――もう、いないだろう。


 そう思ってしまったのが間違いだった。


 二月十五日。

 僕は久しぶりに山道を走ることにした。

 大学の練習が始まれば、もっと厳しい環境で走ることになる。

 今のうちに坂道で足を作っておきたい。

 そんな、ただの“理由づけ”だった。


 山道の入口に立った瞬間、胸の奥がざわついた。

 冷たい風が吹き抜け、木々がざわめく。

 空気が重い。

 まるで、山そのものが僕を拒んでいるようだった。


 それでも、僕は走り始めた。


 足音が、やけに響く。

 鳥の声が聞こえない。

 昨日までの平地とは違う、静寂があった。


 例のカーブが近づくにつれ、心臓が早鐘を打つ。

 汗が背中を伝う。

 寒さではない。

 恐怖の汗だ。


 ――いない。

 ――いないはずだ。


 そう自分に言い聞かせながら、カーブに差し掛かった。


 その瞬間。


 背後から、腕を掴まれた。


「っ……!」


 反射的に振り返る。

 そこに、いた。


 白いワンピース。

 困った顔。

 眼鏡の奥の、焦点の合わない瞳。


 そして、あの声。


「あの、すみません……」


 声は昨日までと同じなのに、距離が違った。

 近い。

 近すぎる。

 息が触れるほどの距離で、彼女は僕の腕を掴んでいた。


 掴む力は、異常だった。

 細い腕からは想像できないほど強く、

 まるで鉄の爪で挟まれているようだった。


「離してください……!」


 振り払おうとしても、びくともしない。

 彼女の手は冷たく、氷のように硬い。

 人間の体温ではなかった。


「実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできませんか?」


 同じ言葉。

 同じ抑揚。

 同じ間。


 だが、今日は違った。


 彼女は僕を、崖の方へ引き寄せていた。


 足元の砂利が崩れ、靴が滑る。

 ガードレールの向こうは、落ち葉の積もった急斜面。

 その先は、崖。


「やめて……!」


 声が震える。

 喉が乾き、呼吸が乱れる。

 心臓が痛いほど脈打つ。


 彼女の顔が近づく。

 表情は困ったままなのに、瞳だけが笑っているように見えた。


 崖まで、あと一メートル。


「もういいだろ……!」


 叫んだ瞬間、彼女の力が緩んだ。


 その隙に腕を振りほどき、僕は全力で走った。

 背後で何かが動く気配がしたが、振り返る余裕はなかった。


 足がもつれ、転びそうになりながら、

 気づけば管理事務所の前に倒れ込んでいた。


 息ができない。

 肺が焼けるように痛い。

 手足が震え、立ち上がれない。


 事務所の職員が驚いて駆け寄ってきた。


「大丈夫か!? どうした!」


 僕は声にならない声で、「女が……」とだけ言った。


 だが、職員は首をかしげた。


「今日は誰も通ってないぞ。朝から俺が見てる」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。


 僕は、確かに掴まれた。

 腕には赤い指の跡が残っていた。


 なのに、誰も見ていない。


 あの女は、何だったのか。


 その日は家に帰っても震えが止まらず、

 布団に潜り込んでも、眠れなかった。


 窓の外で、風が吹くたびに、

 あの声が聞こえる気がした。


「あの、すみません……」

 

 二月二十七日。


 その日は、朝から妙に胸騒ぎがしていた。

 山に行く気にはなれず、家でストレッチをしていたとき、

 リビングのテレビからニュース速報の音が流れた。


「……徳島県内の山中で、女性の遺体が発見されました」


 何気なく視線を向けた瞬間、全身が冷えた。


 画面に映ったのは、眼鏡をかけた二十九歳の女性。

 白いワンピースではなかったが、顔は間違いなく、あの女だった。


 アナウンサーが淡々と読み上げる。


「遺体は、真っ赤なキャリーケースの中から発見され……

 死後、一か月以上が経過しているとみられています」


 一か月以上。


 僕が彼女を見たのは、二月四日から十五日まで。

 つまり、僕が会っていた彼女は――


 生きているはずがなかった。


 手が震え、スマホを落としそうになる。

 呼吸が浅くなり、視界が揺れる。


 ニュースは続く。


「キャリーケースは斜面の奥に落ちており、

 発見が遅れた原因になったとみられています」


 斜面の奥。

 落ち葉の積もった場所。

 僕が見た、あの赤いキャリーケース。


 あれは、ただの荷物ではなかった。


 僕は、あのとき――

 “彼女自身”を見ていたのだ。


 背中に冷たい汗が流れた。

 あの日、腕を掴まれた感触が蘇る。

 氷のように冷たく、硬い手。

 あれは、夢でも幻でもなかった。


 テレビの音が遠のき、

 代わりに、耳の奥で別の声が響いた気がした。


「あの、すみません……」


 僕は思わず振り返った。

 誰もいない。

 部屋は静まり返っている。


 それでも、声は確かに聞こえた。

 あの山で聞いたのと同じ、抑揚のない声。


 僕はテレビを消し、

 窓のカーテンを閉め、

 布団に潜り込んだ。


 だが、目を閉じると、

 白いワンピースの女が浮かぶ。


 困ったように眉を下げた顔。

 焦点の合わない瞳。

 そして、あの台詞。


 ――実はキャリーケースを落としてしまって。


 ――どうにか取ることはできませんか。


 あれは、助けを求めていたのか。

 それとも、僕を連れて行こうとしていたのか。


 答えは、今でもわからない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがある。


 あの山を思い出すたび、

 耳の奥で、あの声が繰り返される。


「あの、すみません……」


 まるで、まだ終わっていないと言うように。


 まるで、今もどこかで――

 誰かに同じ言葉をかけ続けているように。

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