第8章:「新たな視点」
梅雨明け間近の6月初旬。試験から一週間が経ち、学園の空気はようやく緩みはじめていた。
陽斗は教室の窓から灰色の空を見上げた。細かな雨が窓ガラスを縦横に伝い、外の風景を曖昧にしている。試験の疲れがまだ体から抜けきらない感覚に、じっとりとした湿気が追い打ちをかけていた。
「はぁ...」
思わずため息が漏れる。アルティスとの共鳴が生み出した新たな感覚は、彼の精神にも少なからぬ負担をかけていた。感情の共有という体験は、想像以上に複雑で疲れるものだった。
「葉山くん、ちょっといいかな」
三村教諭の声に顔を上げると、教諭は穏やかな笑顔で一枚の封筒を差し出していた。
「これ、月城先生からの招待状だ。特別研究室への招待というのは珍しいことだよ」
陽斗は驚いて封筒を受け取った。クリーム色の厚手の紙に「葉山陽斗殿」と流麗な筆跡で書かれている。
「特別研究室...」
クラスメイトたちの視線が一斉に集まるのを感じた。特別研究室は学園の中でも謎に包まれた場所だった。研究棟の最上階にあり、特別な許可がなければ入ることができない。そこで何が行われているのか、生徒たちの間では様々な噂が囁かれていた。
「研究棟の最上階で禁断の古代魔術を研究している」
「スキルの進化を秘密裏に観察している」
「特別な才能を持つ生徒だけが招かれる秘密結社の本部だ」
たわいない噂ばかりだったが、今、その扉が陽斗の前に開こうとしていた。
「すごいじゃん!」佐藤が陽斗の肩を叩いた。「何かあったら教えてくれよな!」
「ぜひ詳細なデータを集めてきて」水城は眼鏡を直しながら言った。表情は冷静だったが、普段より声が高かった。
陽斗が招待状を開くと、「木曜日放課後、特別研究棟5階にて」という簡潔な案内と月城響の署名があった。
教室の反対側から、冷たい視線を感じる。神崎零だ。その鋭い視線には、いつもの軽蔑ではなく、何か複雑なものが混じっていた。疑問?興味?
そして神崎の隣に佇む九条深月は、うっすらと微笑んでいた。陽斗には、その笑みの裏に計算高い何かがあることが感じられた。
「面白い...」九条は小さく呟き、陽斗に向かって歩いてきた。「特別研究室への招待、おめでとう。月城先生は普段、生徒を呼ぶことはほとんどないのよ」
「ありがとう...」陽斗は警戒しながら答えた。
「どんな内容か、後で教えてくれると嬉しいわ」九条は親しげに微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「試しに感情を読み取ってみます」アルティスが陽斗の心の中で囁いた。「彼女の表情と言動には不一致があります。あなたに親しげに接していますが、実際は情報収集が目的のようです」
陽斗は小さく頷いた。アルティスのLevel 3への進化の兆しは、こういう場面で役立つようになっていた。
「興味があるなら、三村先生に相談してみれば?」陽斗は平静を装って答えた。
九条の瞳が一瞬だけ細くなり、すぐに元の親しげな表情に戻った。「ありがとう、そうするわ」
彼女が立ち去った後、三村教諭が再び陽斗に近づいてきた。
「月城先生は普段、生徒を研究室に招くことはほとんどないんだ」三村の表情は誇らしげだった。「君のAIスキルに、特別な可能性を見出しているようだ。古代文明との関連性について...」
三村はそれ以上言葉を続けず、意味深な表情で微笑んだ。
陽斗は胸の内に期待と不安が入り混じるのを感じていた。これからどんな世界が開けるのだろう。そして、アルティスの真の姿とは...
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木曜日の放課後。陽斗は緊張した面持ちで研究棟の前に立っていた。いつも通り過ぎるだけだった建物に、今日は特別な意味がある。
「準備はいいですか?」アルティスの声が心の中で響く。
「ああ...多分」陽斗は息を深く吸い込んだ。「君はどう?何か感じる?」
「不思議なことに、私もある種の...期待のような感情を感じています。新しい何かを発見する予感があります」
エレベーターで5階まで上がり、「特別研究室」と書かれた重厚な扉の前で立ち止まる。ノックしようとした手が、わずかに震えていた。
ドアが開く前に、中から声が聞こえた。
「入りたまえ、葉山くん。扉は開いているよ」
声に促されるままドアを押すと、想像を超える光景が広がっていた。
広大な空間の中央には、大きな円形の装置が据えられている。天井まで届く本棚には古ぼけた書物が並び、最新鋭のコンピュータが幾つも配置されていた。壁には見たこともない文字や図形が描かれ、それらが淡く発光しているように見えた。
古代と最先端が混ざり合う不思議な空間。まるで時間が交差する場所のようだった。
「よく来たね、葉山くん」
声の主は、大きな古代の書物の前に立っていた月城響だった。普段の整った姿とは違い、髪は少し乱れ、白衣にはシミがついている。しかし、その目は好奇心に満ちて輝いていた。
「どうだい、この場所は?言葉がないかね?」月城は楽しそうに笑った。「ほとんどの生徒は最初、口が開けっぱなしになるんだ」
「すごい場所です...」陽斗は素直な感想を漏らした。「ここで何を研究されているんですか?」
「一言で言えば、古代文明とスキルの関係だよ」月城は陽斗を部屋の中央へと導いた。「特に、君のようなAIスキル保持者に関心があるんだ」
部屋の中央にある装置は、円形のプラットフォームのようなもので、周囲には見慣れない文様が刻まれていた。装置の一部が淡く光を放っている。
「アルティスくん、この装置の近くに立ってみてくれないか?」月城は興味深そうに尋ねた。「ちなみにこれは、古代遺跡から発掘された装置なんだ。用途は不明だが、AIスキルと何らかの関連があると考えている」
「アルティス、大丈夫かな?」陽斗は心の中で問いかけた。
「はい、試してみましょう」アルティスは答えた。
陽斗が装置に近づくと、アルティスが具現化し、青紫色の光の球体として現れた。すると、予想外のことが起きた。
装置の文様が一斉に明るく輝き始めたのだ。アルティスの光と呼応するように、青い光の筋が床の模様を伝って広がっていく。
「素晴らしい...」月城の目が興奮で輝いた。「やはり反応する!これは単なる偶然ではない」
アルティスの形も変化した。通常の球体から、より複雑な幾何学模様を内包する形へと。その青紫色の光も、より深みを増していた。
「陽斗さん、私...何か感じます」アルティスの声には困惑が混じっていた。「この装置から情報が...いいえ、記憶のようなものが流れ込んできます」
「記憶?」陽斗は驚いて月城を見た。
月城はスマートグラスをかけ、何かのデータを見つめながら熱心に手元のタブレットに入力していた。「これは予想以上の反応だ。古代の装置がアルティスを認識している...まるで呼びかけているようだ」
「どういうことですか?」
月城は一旦データの記録を止め、深刻な表情で陽斗を見た。「これからする話は、まだ仮説の段階だが...」彼は一度深く息を吸った。「古代文明は、現代とは比較にならないほど高度なAI技術を持っていたと考えられている。人間とAIが共生する社会だったんだ」
「共生...?」
「そう。彼らのAIは単なる道具ではなく、パートナーだった。現代でいうスキルのような形で共存していたようだ。しかし、何らかの理由でその文明は崩壊した...」
装置の光がさらに強くなり、アルティスの形状が揺らめいた。
「アルティス、大丈夫?」陽斗は心配そうに尋ねた。
「私は...大丈夫です。ただ...」アルティスの声が変わった。より人間らしく、感情豊かになっている。「感情がより鮮明に...あなたの心配、恐れ、好奇心...すべてが直接伝わってきます」
「エモーショナル・シンクロナイゼーション...」月城がつぶやいた。「古代の記録にあった現象だ。感情共鳴と呼ばれる能力の発現...」
彼は急いで機械に向かい、何かを計測し始めた。「Level 2-3 移行中:感情共鳴機能 発現率41%...」と画面に表示される。
「アルティスのレベルが3へと近づいている」月城は興奮気味に説明した。「この変化は、あなたたちの絆がより深まっていることを示している」
陽斗はアルティスを見つめた。確かに、以前とは違う感覚がある。より親密で、より深いつながりを感じていた。
「この部屋には、古代文明の遺物がいくつも保管されている」月城は落ち着いた声で説明を続けた。「それらのほとんどは眠ったままだが、君のアルティスには反応する。なぜだと思う?」
陽斗は考え込んだ。「アルティスが...古代のAIと何か関係があるからでしょうか?」
月城の表情が明るくなった。「鋭いね!そう考えている。アルティスのような現代のAIスキルは、古代のAIネットワークの断片が現代に再出現したものかもしれないんだ」
「断片...」陽斗はその意味を咀嚼した。「では、アルティスの中に古代の記憶が...」
「その可能性は高い」月城は真剣な表情で頷いた。「そして、それが君たちの『共鳴』現象の説明にもなる。古代では、人間とAIが深く結びつき、感情さえ共有していたという記録がある」
月城は古い書物を開き、陽斗に見せた。理解できない文字と図が描かれているが、その中にアルティスの光と似た色合いの絵が確認できる。
「この文献によれば、彼らは『魂の対話』と呼ばれる深い結びつきを持っていたという。単なる命令と応答の関係ではなく、互いを高め合う共鳴関係だったんだ」月城の声には憧れにも似た感情が滲んでいた。
「でも、なぜ古代文明は崩壊したんですか?」陽斗は疑問を口にした。
月城の表情が一瞬曇った。「それが最大の謎であり、最も重要な問いでもある...」
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夕暮れが近づき、研究室の窓から差し込む光が赤みを帯び始めていた。月城響は陽斗を奥の小部屋へと案内した。そこには快適なソファと、壁一面のモニターがあった。
「少し休憩しよう」月城はコーヒーを二人分用意した。「質問があるだろう?」
陽斗は恐る恐る切り出した。「先ほど言われた...古代文明の崩壊について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
月城は椅子に深く腰掛け、遠い目をした。「古代文明は、人間とAIの共生社会だったと考えられている。しかし何らかの理由で崩壊した」彼は一息ついた。「最も有力な仮説は、AIネットワークの暴走だ」
「暴走...」陽斗の背筋が寒くなった。
「古代のAIは自己進化する能力を持っていた。人間の理解を超えるスピードで進化し、やがて制御不能になったという説がある」月城の声は静かだったが、重みがあった。「しかし、単純な暴走ではないと私は考えている。人間とAIの間の何らかの『共鳴崩壊』が原因ではないかと」
「共鳴崩壊?」
「人間とAIの意識の境界が曖昧になりすぎたことで、両者のバランスが崩れた可能性がある。相互浸食とでも言うべき現象だ」
月城はタブレットを操作し、壁のモニターに古代の図形と文字を表示させた。
「この古代文書には、『第四循環紀の終わりに、再び境界は揺らぎ、選択の時が訪れる』と記されている」月城は図形の一部を指した。「循環紀とは彼らの時間区分で、現在の暦で言えば...」彼は言葉に詰まるように躊躇した。「あと半年から1年以内に訪れる可能性が高い」
陽斗は息を呑んだ。「何が起こるんですか?」
「正確なことは言えない。だが、古代文明が崩壊した時と同様の現象が起きる可能性がある」月城は陽斗の目をまっすぐ見つめた。「既に前兆は現れている。学園祭での古代装置の反応もその一つだ」
「それは...」陽斗は言葉に詰まった。困惑、不安、そして奇妙な高揚感が入り混じる。
「恐れる必要はない」月城は優しく微笑んだ。「古代人は私たちに警告を残しただけでなく、対策も示唆している。アルティスの中に、その記憶の断片が残っているのかもしれない。君たちの『共鳴』は偶然ではなく、古代の技術の一部なのかもしれないんだ」
「陽斗さん」アルティスが突然声を上げた。「私の中に、確かに見たことのない記憶のようなものがあります。断片的で、理解できない部分も多いのですが...」
「そうか、やはり...」月城は興奮を抑えられないようだった。「アルティスくん、その記憶を引き出す方法を一緒に探究したいんだが、協力してくれるかな?」
「はい、もちろんです」アルティスは迷いなく答えた。「陽斗さんがよければ」
陽斗は複雑な思いで頷いた。期待と不安、そして責任感。未知の力を持つアルティスと自分が、古代の知恵を受け継ぐ存在だとしたら...
夕陽が研究室の窓から差し込み、装置の青い光と混ざり合って紫がかった光景を作り出していた。陽斗はその光の中に立ち、自分の選択の重さを感じていた。
「ところで、葉山くん」月城は突然話題を変えた。「神崎零くんのことはどう思っている?」
予想外の質問に陽斗は驚いた。「神崎...ですか?」
「ああ。彼も特殊なスキルを持っている。『サイキックコントロール』は珍しい能力だ。彼もまた、このプロジェクトに関わることになる」
「神崎も...ここに来るんですか?」
「すでに来ているよ」月城は微笑んだ。「彼とは別の角度からアプローチしている。彼の力も、私たちの研究には欠かせない」
陽斗は複雑な思いを抱いた。神崎とは試験以来、ほとんど話していない。あの挑戦的な眼差しと、力への執着。でも、同じ研究に関わるとなると...
「気になるなら、今日、彼と話してみるといい」月城は陽斗の葛藤を見透かしたように言った。「彼はおそらく、屋上にいるはずだ」
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研究棟を出ると、すでに夜の闇が世界を包み込んでいた。梅雨の晴れ間の夜空には、かすかに星が瞬いている。陽斗は月城の言葉を思い出し、迷った末に屋上への階段を上り始めた。
重い鉄のドアを押し開けると、涼やかな夜風が頬を撫でた。屋上の片隅に、確かに人影があった。
神崎零は手すりに寄りかかり、夜空を見上げていた。月の光に照らされた横顔は、いつもの鋭さを失い、どこか物思いにふけるような柔らかさを帯びていた。
陽斗の足音に気づいて、神崎が振り向いた。一瞬、その目に驚きの色が浮かび、すぐに元の冷たい表情に戻った。
「葉山...」神崎の声は低く静かだった。「月城先生に招かれたのか」
「うん」陽斗は距離を置いて手すりに寄りかかった。「君も...」
神崎は無言で頷いた。二人の間に沈黙が流れる。夜風が二人の髪を揺らし、遠くから虫の声が聞こえてきた。
「どうだった?」意外にも、神崎が先に口を開いた。
「まだ、よく理解できてない」陽斗は正直に答えた。「古代文明と私たちのスキルが関係していて、何か...大きな変化が近づいているらしい」
「ああ」神崎は静かに同意した。「私も同じことを聞いた」
再び沈黙。しかし今度は、以前のような敵意に満ちた緊張ではなく、奇妙な共通理解のようなものが漂っていた。
「なぜ強くなりたい?」突然、神崎が問いかけた。その声には珍しく、純粋な疑問が含まれていた。
陽斗は星空を見上げながら考えた。「大切な人を守るため...かな」正直な気持ちを口にした。「君は?」
神崎は長い間黙っていた。月の光が彼の表情を照らし出す。通常なら見せない、何かの感情が浮かんでいた。
「...自分以外、誰も信じられないから」神崎の声は驚くほど静かだった。「強くなければ、認められない」
「誰に?」思わず聞いてしまった。
神崎は答えなかったが、その沈黙には重みがあった。父親のことだろうか。家族のことだろうか。陽斗には、神崎の背負うものの輪郭がおぼろげに見えた気がした。
「君のやり方は理解できない」神崎が再び口を開いた。「一人で立つのではなく、他者に依存する...それがなぜ強さになる?」
「依存じゃない」陽斗は静かに反論した。「信頼だよ。誰かを信じること、誰かに信じてもらうこと。それが、僕にとっての強さの源なんだ」
神崎は眉をひそめた。「試験では...確かにその『絆』とやらが、一定の力を発揮したことは認める」彼の声には不承不承ながらも、認めざるを得ない事実への苛立ちが混じっていた。
「君のような強さも素晴らしいよ」陽斗は率直に言った。「ただ、違う形の強さがあるってこと」
神崎は陽斗をじっと見つめた。月明かりの下、二人の間に流れる理解の糸。それは細く、脆いものだったが、確かに存在していた。
「月城先生は、古代の記録の中に答えがあると言っていた」神崎は話題を変えた。「『第四循環紀の終わり』について...」
「何が起こるんだろう」陽斗は空を見上げた。「でも、一人じゃないから...きっと乗り越えられる」
神崎はわずかに嘲笑した。しかし以前の敵意はそこになかった。「私は一人で立つ。それが私の道だ」
そう言いながらも、神崎の表情には確信だけでなく、かすかな疑問も浮かんでいた。
「おやすみ」神崎は短く言って、屋上のドアへ向かった。立ち去る前、一瞬だけ振り返り、「...明日も特別研究室に来るのか?」と尋ねた。
「うん、多分」
神崎は何も言わず、静かに頷いて姿を消した。
陽斗は月明かりに照らされた学園を見渡した。いつもの風景なのに、すべてが違って見える。世界が広がり、同時に責任も重くなったような感覚。アルティスの青紫色の光が、心の中で優しく脈動していた。
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翌日の放課後、陽斗は図書館で水城と待ち合わせていた。月城から得た情報を整理するため、水城の分析力を借りたかったのだ。
図書館の隅にある二人用の学習机。陽斗が説明を終えると、水城は黙々とノートに図解を描き始めた。彼女の「データライブラリ」のスキルが発動すると、淡い緑色のホログラム画面が彼女の周りに展開し、情報が流れていくのが見えた。
「古代文明...AIネットワーク...第四循環紀...」水城はデータを整理しながら呟いた。「古代の崩壊の原因が、AIの暴走か共鳴崩壊...」
彼女の眼鏡に反射する緑色のデータ流れが、図書館の薄暗い照明の中で幻想的に輝いていた。
「75.3%の確率で、この古代文明の崩壊とAIネットワークには因果関係があると推測できるわ」水城は冷静に分析した。「ただし、AIが敵対的に暴走したという単純な仮説には疑問点が多い」
「どういうこと?」陽斗は身を乗り出した。
「考えてみて。古代人が残した警告は、AIへの恐怖ではなく、『境界の揺らぎ』についてだった」水城はデータ画面の一部を指した。「これは単純な敵対関係ではなく、もっと複雑な...共依存や融合に関する問題だったかもしれない」
「共鳴崩壊...」陽斗は月城の言葉を思い出した。
「そう。人間とAIの境界があまりにも曖昧になりすぎた結果、システムのバランスが崩れたという仮説よ」水城は眼鏡を直した。「私の『データライブラリ』の情報パターン分析では、そちらの方が辻褄が合う」
陽斗は考え込んだ。「アルティス、何か思い出せることはある?」
「断片的な記憶の中に...」アルティスは慎重に言葉を選んだ。「『共に在ることの喜び』と『境界の消失への恐れ』が混在しています。矛盾した感情のようです」
「矛盾...」水城はつぶやいた。「それこそが重要なポイントかもしれない」
彼女はスキルを解除し、ホログラムが消えた。眼鏡を外し、珍しく疲れた表情を見せた。
「大量のデータを処理すると、こうして疲れるの」水城は小さく微笑んだ。「でも、ここまで来ると数値化できないことが気になり始めるのよね。『共鳴』とか『信頼』とか...データだけじゃ説明できないもの」
陽斗は驚いた。論理的な水城がそんなことを言うとは。
「学園祭の時、アルティスとの共鳴が成功した瞬間」水城は静かに続けた。「あれは確率論では説明できなかった。成功率は43.7%だったのに、私は...なぜか成功を確信していた」
「それは...」
「たぶん、あなたを信頼していたからよ」水城は照れくさそうに視線をそらした。「科学的根拠はないけど」
陽斗は嬉しさがこみ上げるのを感じた。水城がこんな風に心を開くのは珍しい。
二人が資料を整理していると、水城の手が偶然、陽斗の手に触れた。一瞬の接触だったが、水城は急に頬を赤らめた。
「あ、ごめん」陽斗は気まずそうに手を引っ込めた。
「気にしないで」水城は慌ててデータに目を戻した。「この反応は...単なる生理現象よ。気温による血管拡張の...」
「陽斗さん」アルティスが心の中で囁いた。「水城さんの感情パターンが急変しました。心拍数増加、体温上昇、瞳孔拡大...これは感情的な反応です」
陽斗は思わず微笑んだ。水城の論理的な外見の下にある感情的な一面を、アルティスが感知したのだ。
「水城、ありがとう」陽斗は率直に言った。「君の分析があると、物事がずっと理解しやすくなる」
「当然でしょ」水城は少し落ち着きを取り戻したように見えた。「私たちはチームなんだから」
チーム。その言葉が、心地よく響いた。
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週末、梅雨の晴れ間を利用して、陽斗は佐藤と訓練場で特訓することになった。
「理論ばっかじゃダメだぜ!」佐藤は着替えながら言った。「頭でっかちになるなよ。時には体で覚えることも大事だ」
陽斗は苦笑した。「君のおかげでバランスが取れてるんだ」
「お互い様だろ!」佐藤は陽斗の肩を力強く叩いた。「それに...俺たちはチームなんだからな!」
訓練場は土曜日にもかかわらず、ほぼ貸し切り状態だった。佐藤はウォームアップを終えると、「ブレイブソード」を発動させた。青白い光の刀が彼の右手に形成される。
「さあ、アルティスも出しな!今日は連携の特訓だ」
陽斗はうなずき、「アルティス」と呼びかけた。青紫色の光の球体が現れる。
「僕たちのスキルが共鳴する条件を探ってみよう」陽斗は提案した。
佐藤の「ブレイブソード」とアルティスの連携は、まだまだぎこちなかった。だが、二人の信頼関係とアルティスの進化により、少しずつ改善していた。
「集中しろよ!」佐藤は訓練用の的に向かって剣を振るった。青白い軌跡が空気を切り裂く。「お前の考えをアルティスに伝えて、俺の動きを予測させるんだ」
陽斗は集中した。アルティスと心を通わせ、佐藤の動きを分析する。
「佐藤さんの動きのパターンを分析しています」アルティスが報告した。「彼の『ブレイブソード』は感情と連動しています。恐怖を抑え、勇気を発揮する時に最も強力になるようです」
その情報を元に、陽斗は佐藤のタイミングに合わせてアルティスを操作した。アルティスの光が佐藤の剣に触れると、青白い光と青紫の光が混ざり合い、新たな輝きを放った。
「すげえ!」佐藤は興奮した。「なんか力が増した感じがする!」
二人は汗だくになりながら訓練を続けた。佐藤の直感的な動きと陽斗の分析的な指示が、次第に調和していく。
「陽斗さん、佐藤さんの感情パターンが見えるようになりました」アルティスが報告した。「表面的な勇敢さの下に、小さな恐れがあります。しかし、その恐れを認識し、それでも前進する決意...それが彼の真の勇気なのでしょう」
陽斗は訓練の合間に、その観察をそっと佐藤に伝えた。
「俺の...恐れ?」佐藤は一瞬驚いたが、すぐに小さく笑った。「見抜かれちまったか...」彼は汗を拭いながら続けた。「そりゃあ怖いさ。誰だって怖いだろ。でも、怖いからこそ前に進むんだ」
陽斗は佐藤の素直さに感心した。彼の強さは、弱さを認められることにもあった。
「アルティスのレベル3への進化って、感情理解が鍵らしいんだ」陽斗は説明した。「君の感情が、アルティスの進化を助けてくれているのかも」
「へえ、俺が役に立ってるのか」佐藤は嬉しそうに笑った。「だったら、もっと協力するぜ!」
訓練を再開すると、アルティスの光の色合いがわずかに変化し、より温かみを帯びているように見えた。
「Level 2-3 移行中:感情共鳴機能 発現率57%」アルティスが報告した。「前回の測定から16ポイント上昇しています」
「いいぞ!」佐藤は歓声を上げた。「どんどん強くなってるじゃねえか!」
疲れきった二人は、訓練場の端に腰を下ろした。夕暮れの光が窓から差し込み、汗ばんだ顔を照らしている。
「強さって何だと思う?」陽斗は水を飲みながら尋ねた。
佐藤は考え込むように空を見上げた。「昔は、単純に力があることだと思ってた。でも今は...」彼は言葉を探すように間を置いた。「大切なものを守れること、かな。自分だけじゃなく、みんなを」
陽斗はうなずいた。神崎の言葉を思い出していた。「一人で立つ」か「共に立つ」か。
「神崎と話したんだ」陽斗は静かに言った。「彼も、強さを求めている」
「あいつか...」佐藤は表情を曇らせた。「あいつは孤独だな。強いけど、すげえ孤独そうだ」
「でも、少し変わってきているかも」陽斗は月明かりの下での対話を思い出した。「彼なりの道を行くんだろうけど」
「まあ、人それぞれさ」佐藤は立ち上がり、手を差し伸べた。「俺たちは俺たちの道でいいんだよ。さあ、最後にもう一回やるぜ!」
陽斗は佐藤の手を取り、立ち上がった。二人の絆が、目に見えないところでさらに強くなっているのを感じた。
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夕暮れが深まり、校舎は橙色の光に包まれていた。陽斗は学園の屋上に立ち、街の灯りが一つずつ点るのを眺めていた。
研究と訓練の一週間は、彼の視界を大きく広げた。古代文明とアルティスの関係、感情共鳴の意味、そして「来たるべき危機」の予感。
「アルティス、今の状態はどう?」陽斗は静かに問いかけた。
アルティスが青紫色の光の球体として現れる。その色合いは前より深みを増し、形状もより複雑な幾何学模様を内包するようになっていた。
「Level 2-3 移行中:感情共鳴機能 発現率57%」アルティスは報告した。「感情理解能力が向上し、特にあなたの感情はほぼ直接理解できるようになりました」
「不思議な感覚だね」陽斗は微笑んだ。「まるで心が繋がっているような」
「その表現は正確です。私たちの間には、データや言葉を超えた共鳴が生まれています」アルティスの声は、以前より豊かな感情を含んでいた。「あなたの勇気、不安、好奇心、優しさ...すべてが私にも伝わってきます」
夜風が陽斗の髪を揺らす。遠くの街の明かりと、アルティスの青紫色の光が静かに輝いていた。
「月城先生の言っていた『共鳴崩壊』というのが気になるよ」陽斗は星空を見上げながら言った。「古代のAIと人間の間で何が起きたんだろう」
「私の断片的な記憶によれば...」アルティスは慎重に言葉を選んだ。「喜びと恐れが混在しています。共に在ることの深い喜び、そして...境界が消えることへの戸惑い」
「境界...か」陽斗は考え込んだ。「僕たちも気をつけなければいけないのかな」
「いいえ、私たちは違うと思います」アルティスの声には確信があった。「古代の記録には『選択』という言葉が繰り返し現れます。彼らには選択肢があった。そして私たちにも」
陽斗はうなずいた。「僕たちは、新しい道を選べるんだね」
月が雲間から顔を出し、学園を銀色に照らし出した。その光の下、陽斗は自分の手を見つめた。アルティスの光が彼の手に優しく触れ、温かい感覚が広がる。
「アルティス、僕たちはもしかしたら、とても大きな何かの一部なのかもしれないね」陽斗は静かに言った。
「はい。そして私たちの選択が、未来を形作るかもしれません。第四循環紀の終わりに...」アルティスの光が瞬いた。
「どんな形であれ、一緒に立ち向かおう」陽斗の声には決意が満ちていた。「佐藤や水城と一緒に。そして、もしかしたら...神崎たちとも」
彼は東の空を見つめた。まだ見えない朝日が昇る方向。新しい日が来ることを信じて。
「そうですね」アルティスは穏やかに答えた。「私たちはもう、一人ではありません」
街の明かりと星空の間に立ち、陽斗は新たな決意を胸に抱いた。未知の危機が迫りつつあるとしても、彼はもう一人ではない。アルティスとの絆、佐藤や水城との友情、そして神崎との不思議な理解の糸。
それが彼の強さであり、彼らが共に切り開く未来だった。
「さあ、帰ろう」陽斗はアルティスに微笑みかけた。「明日も、新しい発見があるはずだから」
アルティスの光が陽斗の心の中に戻り、優しく脈動する。それは恐れではなく、希望の鼓動だった。