海と江ノ電
朝早くに海へ行きたい。
そのためだけに、引っ越しを決めた知り合いが居た。
海というか、水族館も碌に行ったことがないハツミにとっては、よく分からない感覚。
でも好きなことのために衝動で動ける、その心意気というか、その感覚は分かるような気がしたし、羨ましくもあった。
何でもよかったが、「海」に影響を受けたために、水に足を浸そうと思った。
そんな機会も、今まであまりなかった。
別に海が遠い内陸に住んでいるわけでもないのに、ハツミは江ノ島を目指している。
旅マップの簡易版を買う。
江ノ島、江ノ電、寺社仏閣。
江ノ島だろうが神社だろうが何でもよかったが、歴史的な資料にとこじつけて、いろいろ見て回りレポートを作ろう。とか。
江ノ電の沿線には寺社仏閣だらけ。
途中で降りれば、なにがしかの寺社仏閣がある。
風情を感じるにはもってこい。あと、情緒を感じるのにも、もってこい。
朱塗りや、「明」と字のつく寺社仏閣が結構多いことも、旅マップからの知識。
そんな感じで、適当に巡る。
海沿いにはハンバーガーショップやフライの店も多いが、反対側は一気に時代を感じさせる街並み。
といった印象である。
知り合いは、古民家に移り住んで改装の最中だという。
ハツミはそこにも寄ろうと、会いに行く途中。
ブラブラと途中下車しながら、夕方までにつけばいい。
文字通り、ブラブラ途中下車ばかりして、いよいよ水に足を浸した。
由比ヶ浜。
サーフィンが出来るような波の高さは、今の時間はないようで。
どうせならアイカとヒロヤ夫婦が移り住んだ古民家のある、江ノ島近くで一泊、でもよかったが。
ハツミにはなんとなく、陰気な場所に思えていた。
江ノ島が、というのではなく、大概にして寺社仏閣が多いという点が、ハツミにとっては正直苦手なところ。
だが巡る。
一応、美術史の資料集めのためと、銘打っておかなければいけない。
トラ模様の猫の看板が目立つ、呑み屋「ニャン」。
ここでも改装工事を行っているようで、散らばった木くずやらヤスリやら、ノミなんかの道具を横目に見ながら。
近くにある宿へ到着。
ハツミは宿を由比ヶ浜にとった。
荷物は預けたので、あとは身軽にブラブラと、また。
アイカとヒロヤ夫婦の暮らす古民家の近くには、断崖絶壁があるらしい。
荒々しい海が、渦巻いたりしているのだろうか。
何となく、ハツミの断崖絶壁のイメージは、それだった。
今、足を水に浸しているエリアにそんなものは……、と眼を転じると、サーフィンはしない代わりなのか、海へ飛び込む人を遠くに見る。
桟橋の上からだ。
ああ、夏だ、とハツミは思った。
甘味処「パーディリー」。
という店の近くである。
「まあ一応、いろいろ巡ってきましたけれどねえ」
とハツミ。
「大きいお寺が多いですよね」
「それに海も近いし」
と言ったのは、アイカである。
ついでに言うなら、本当に古民家は断崖絶壁の近くだ。
「レポートは進みそう?」
「まあまあですかね」
「美術史だっけ」
「そうです。一年次なんで、フリーで資料を集めて、研究出来る講義もあるから」
とハツミは肩をすくめて言う。
本当言うと、寺社仏閣どころか、美術にもハツミは興味が薄い。
では何故、そこにしたか。
偏差値の問題という、それこそ微妙な問題である。
「ダイブとかもするんですか?」
「ダイブ?」
とアイカ。
ハツミ。
「ヒロヤさんです」
「サーフィンには毎日のように行っている。ああ、分かった。近くの名所でしょう」
「名所なんですか?」
「練習にはもってこいだって。例えばスポーツ選手の」
なるほど、甘味処パーディリーの店内には、有名人のサインが多くある。
甘味処なのに海鮮丼があるので、ハツミはミニ海鮮丼と甘味をセットで注文した。
奥さんが調理をしている。
店主はと言えば、客数人とテーブル席で談笑している様子。
早めの夕飯だ。
店の窓は開いていて、遠くの眺めが見える。
美しい眺め。
ハツミが見ていると、そこで人影を捉える。
食べるのをやめて、ハツミはその人を見た。
上半身は裸。
海水パンツのみだ。
「いってきまーす!」
とその人は、窓から店内へ向かってか、大きな声で。
談笑していた面々が、一気にそちらを見る。
「おーう!」
店主は手を挙げて、それに答える。
もしかして、ダイブの練習とか?
結局、新江ノ島水族館にも行くことにした。
二日目。
その日は、ハツミはヒロヤにも会う。
昨日は、古民家には居なかった。
「サーフィンは毎日しているんですか?」
「まあね、やっぱり近くだといいよ。海は」
とヒロヤ。
今も夕方。
二人の古民家。そして、近くの甘味処パーディリー。
「水族館では、レポートの資料は見つかった?」
「いや、それはないですけれど」
とハツミ。
「甘味処パーディリーの御主人。ヒロヤさんと知り合いとかじゃないんです?」
「なんで?」
とヒロヤ。
「メニュー、似ていたんで……」
とハツミ。
賄いで、よく作っていた煮つけ。
油揚げの入った簡素なやつだ。
似たものが、甘味処パーディリーでも出された。
ヒロヤの作ったのと似ていたと、ハツミは言いたかった。
アイカに訊いても、やっぱりパーディリーには入ったことがないという。ヒロヤ含め。
ただ彼は毎日のようにサーフィンに行っていると、アイカは言っていたが。
宿に戻りながら、ハツミは考えている。
ハツミは既に辞めていたが、ヒロヤの勤務先とバイトで同じだった。
ヒロヤも、正社員だったがそれを辞めたからこそ、拠点を移したとか。
そういう感じなのだと思えないか? 詳しく訊いたことはない。引っ越しに関して。
しかも、古民家に移り住んだ。
ハツミも、今の自分の専攻は、そこまで好きではない。
ヒロヤはそもそも、そこまで?
海が好きだっただろうか?
三日目。
宿で、集めた資料を整理する。
一泊だったはずが、どんどん日にちが伸びている。
かなり簡素な宿だから、融通がきいているのかもしれない。
近くの、「ニャン」の改装は続いている。
お札を洗うための弁財天?
三日目になってようやく、ハツミは江島神社へ足が向いた。
ヒロヤは、本当に海が好きなんだろうか?
お札を洗うということも、ハツミはやってみたけれど。
濡れたお札が不憫に思えた。
陰気な感じが拭えない。
薄暗さ。
三日連続で、アイカさんとヒロヤさんの家へ寄るのはなあ……。
と、ハツミは気が引けた。
代わりに、甘味処パーディリーへ冷やかしにと思ったら、でかでかとサーフボードが置いてあるのを見つける。
やはり、毎日ヒロヤがサーフィン、というアイカの話は、嘘ではないのかもしれない。
ハツミはパーディリーの店内を覗いた。
誰もいない。
談笑もない。
店内のテレビが点いている。
それから、あいている窓。
見ると、ヒロヤが居る。
窓向こうだ。
「人が死んだ」
という不穏なテレビ画面の文字を読み終わる前に、ハツミは店の裏へ回った。
崖がある。
ヒロヤは歩いていく。
ハツミは追いついて、彼の腕に縋りついた。
「ま、待って……」
とハツミ。
「やっぱり、ヒロヤさん! 海が好きっていうの、嘘じゃないですか」