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僕の純文学作品集

僕は気が狂いそう

作者: Q輔

 1988年。昭和、最後の夏。僕は中学二年生。


「ぶち殺してやる!」


 いつものように、いつものごとく、今夜も怒号で開幕をする。


 父が、酔いに任せて、さっきまでカレーを食べていたスプーンを、ちゃぶ台の上に突く。超能力者の仕業のようにグニャリと曲がったスプーンが、ちゃぶ台を転がり、父と母と僕がいる狭い居間の古畳の上に落ちる。


 真夏の夜空。にわかに轟音。破れたところを釣り糸で縫った網戸の向こうに、戦闘機が飛んでいる。航空自衛隊が夜間訓練と称し、赤いライトを点滅させてラブホテルのネオン看板に擦るのではないかとヒヤヒヤするほどの低空飛行で旋回をしているのだ。


 立ち上がった父が、ちゃぶ台を思い切り蹴り飛ばし、続けて差し向かいに座っていた母の胸のあたりを、同じように蹴り飛ばす。


「痛い!」


 短い悲鳴を上げて、勢いよく後方へ飛ばされた母が、カラーボックスのテレビ台で後頭部を打つ。カラーボックスの表面が、月のクレーターのように凹む。衝撃で乱れるテレビ画面。砂嵐交じりの画面から、歓声が上がる。ナイター中継『中日対巨人戦』。ちょうど中日四番の外国人選手がホームランを打ったところ。


 父は、仰向けに倒れた母の腹部に跨り、髪の毛を鷲掴みにすると、頭を何度も何度も執拗に畳に打ち付ける。


「痛い! 死ぬ! すごく痛い! ほら痛い!」


 母は、長らく暴力と共存するこの暮らしの中で、いつしか一風変わった悲鳴を上げるようになっていた。


「痛い! さっきより痛い! あれ、今の痛くない! やっぱり痛い!」


 母の悲鳴は、暴力を振るわれるたびに、自分が感じる痛みの程度をそのつど相手に率直に伝えるというものだった。


「父ちゃん、やめろ! 母ちゃん、逃げて!」


 僕は、後ろから父を羽交い絞めにして、母から引き剥がす。それから、母の盾となって父の前に立ちはだかる。その隙に母が玄関から外へ逃げて行く。


 父に拳で頬を殴られる。しかしこちらもただでは殴られない。反射的に父の腹部に思い切り蹴りを入れる。十四歳ともなれば、背丈も体格も追い付いてきている。勝負は互角だ。父が、反撃と酔いのどちらかでふらついている。


 おや、鼻の頭が熱い。恐らく鼻血が出ているのだろう。その途端に、網戸にしがみつく客が増えた。血のニオイを嗅ぎつけた幾千の藪蚊たちが、僕たちの勝負を観戦している。


「このガキ~、ほふってやる」


 ちなみに、父には耳を塞ぎたくなるような残忍な一言を放ってから暴力を振るうという、癖というか、下等な習性が昔からあった。


「ぶち殺してやる」


「ほふってやる」


「バラバラにしてやる」


などが、主なレパートリーだった。


「引きずり回してやる」


「這いずり回してやる」


「のたうち回してやる」


 などの「回す系」も、よく披露をした。


 以前に、たった一度だけ、


「打ちひしがらしてやる」


 と叫んでいた。いったい、僕を、どのような状態にしたかったのであろう?


 半狂乱の父は、狭い台所へと向かうと、ガスコンロの上の熱々のカレー鍋から、オタマを引き抜いて僕に駆け寄り、そのまま勢いをつけてオタマで僕の顔面を殴打した。


 眼前に、縮れた白髪のような線が、ニョロっと一本浮かぶ。消える。続けて、薄紫色の無数の輪が、オリンピックのマークのように、重なり合って浮かぶ。消える。

  

 この世の終わりのような地鳴り。自衛隊の戦闘機が、ちょうど長屋の真上を飛んでいるのだ。薄っぺらな窓ガラスが、ひきつけを起こしたように振動している。あまりの騒音に、むしろ静寂すら感じる。徐々に意識が遠のいて行く―― 



――――



 今夜の騒動の発端は、普段滅多に料理をしない母が、気まぐれにカレーをつくったことだった。母は、煮込んだ肉や野菜が入ったスープに、ルーを溶かしてからも、鍋に火をかけたまま、しばらく放置していた。


「おい、母ちゃん。もう十分に煮込んだだろう。さっさとカレーを喰わせろよ」


「あんた馬鹿ね。カレーはね、よく煮込んだ方が、まろ味が出て美味しいのよ」


 母は、ささくれ立った畳に寝転がり、カバーを剥ぎ取りオレンジ色の肌を露わにした文庫本を読み耽っている。


「いやいやいや、さすがにもう、出来ているだろう」「おい、俺様は、腹がペコペコだ」「おい、返事をしろ」「おい、何とか言え」「おい、どうしてさっきから黙っている」「「おい、まろ味とは何だ」「おい、なんだか焦げ臭いぞ」


 絶え間なく父が喚き散らす。ちっ。舌打ち。母は不機嫌極まりない様子で、畳に転がった自分の使用済みの生理用品を踏みつけて台所に向かい、お盆に乗せた三つのカレー皿を、まるで花札でも配るみたいに、乱暴に食卓に配った。


 うえっ。なに、このひどいニオイ。カレーから、惜しみなく焦げたニオイがしている。


「あら、そう? 新手のスパイスの香りじゃない?」


 僕と父は、恐る恐る、食する。……まっずううう。僕は、甘味、塩味、酸味、苦味、うま味、に続く「焦げ味」という、第六の味覚を発見いたしました。これはもう、カレーではござあせん。カレー風味の焦げでありんす。


「そら見たことか! 丸焦げだ! 丸焦げカレーだ! 何がまろ味だ、バカタレが!」


「うるさいわね! なんなのさっきから! 黙って喰いやがれ!」


「てめえが喰いやがれ!」


「誰が喰うかこんなもん!」


「ぶち殺してやる!」



――――



――静寂がやかましくて、目を覚ました。


 ココはドコ。ワタシはダレ。


 えーっと、僕は何をしていたのだっけ。ゆっくりと身を起こし、飛んでしまった記憶を取り戻すため、落ち着いて、辺りを見渡す。


おや、一人の女が、薄っぺらな布団に寝そべって文庫本を読んでいる。あの女は誰だろう。……思い出した。あの女は、僕の母ちゃんだ。


 母ちゃんが、頃合いを見て家に戻り、何事も無かったように、文庫本の続きを読んでいる。


「お帰り、母ちゃん。今夜は、どこまで逃げたの?」


「首なし狛犬の神社よ。それより、あなた、鼻血が出ているわ」


 母ちゃんが、枕元のティッシュボックスを僕のほうへ放り投げる。ティッシュを引き抜いて顔を拭う。拭けども拭けども、ティッシュの表面には血ではなく、黄色いカレーがこびりつくので、僕は自分の顔面が肛門になった気がした。


 呑み潰れた父が、食卓の座椅子で、やくざ映画で抗争に巻き込まれた構成員がピストルで撃たれたみたいに、無様に眠っている。酒のつまみの柿の種が、飛び散った血液のように、辺りに散乱している。男の足の裏にも一粒張り付いていて、その姿が、なんとも情けない。


「ほら、この本、面白いから、お読みなさい」


 母ちゃんが、ティッシュボックスの時と同じモーションで、こちらへ文庫本を放り投げる。


「この物語の主人公の、黒田官兵衛という武将は、謀反を企てたかつての仲間を説得に出向いたら、そいつに捕らえられて、牢屋に幽閉をされてしまったの。それから、官兵衛は、沼地の竹やぶの奥にある、日の射さない湿気だらけの狭い牢屋で、なんと一年も過ごしたのよ。髪は伸び、皮膚病になり、その場で糞尿を垂れ流し、それでも彼は懸命に生き延びたの。


 黒田官兵衛の何が凄いって、生き地獄のような環境に置かれても、気が狂わなかったこと。正気を保ち続けたこと。官兵衛に比べれば、あなたが置かれたこの環境なんて、たかが知れているわ。官兵衛から言わせれば楽園よ。ユートピアよ。オタマで顔面殴られたぐらい何よ。呑気に気絶なんかしている場合じゃないわよ」


「いや、元はと言えば、母ちゃんが、カレーを丸焦げにして――」


「肝に銘じなさい。この暮らし、狂ったら負けよ」 


 とても面白い本だから、必ず読破すること。私は、もう読み終わったから、ゆっくりと読むといいわ。そう言って母は、文庫本を僕に薦めた。て言うか、そもそも、この文庫本は、僕がなけなしの小遣いで購入をして、読後に母ちゃんに貸した本なのですけど。


 母ちゃんは、本を読む時にカバーがあると邪魔だと言って、必ずカバーを剥ぎ取って捨ててしまう。僕から借りた本でもお構いなし。


 1988年。昭和、最後の夏。僕は中学二年生。


 僕は気が狂いそう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 映像が浮かんでくる [気になる点] これだけ父が暴力的なら離婚するんじゃないかな [一言] 最後、黒田官兵衛の話は興味深いと思ったよ
[良い点] >この世の終わりのような地鳴り。自衛隊の戦闘機が、ちょうど長屋の真上を飛んでいるのだ。薄っぺらな窓ガラスが、ひきつけを起こしたように振動している。あまりの騒音に、むしろ静寂すら感じる。徐々…
[良い点] いやあ、面白かったです! 歪んだ日常の雰囲気が、言葉のチョイス一つ一つに含まれていて、見事でした(*´Д`*)
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