ロージュが教える事
ロージュが剣を始めてから五十年になる。
腕にはそれなりの覚えがあった。並の剣士相手になら素手で渡り合えた。達人と言われる者とも何度も手合わせをしている。腕はそれなりだが、経験の豊富さに於いては抜きん出たものがあるとの自負があった。
自分には相手の技量を測る才能がある。相手と正対するだけで、どのような剣を使い、どれ程の技量を有しているかが分かるのだ。恐らくそれは相手の構えや位置取り、こちらの動きに対する反応を無意識に感じ取っているのだろう。そしてこの予想は過去の闘いに於いて殆ど外した事がない。
ロージュはオルカに木刀を持たせ向かい合った。
オルカはロージュやマゴットとコミュニケーションをとるようにはなったものの、まだ幼児ほどの理解力で、人間社会での生活も皆無である。
自分が今、一体何をしているのか理解出来ない事も多いのだ。
実際ロージュから木刀を持たされた今も、ただぼーっとその場に突っ立ち、右手に持った棒をだらーんとぶら下げているだけだ。
「オルカ。その木刀でワシに殴りかかって来い」
ロージュはそう言って自分も木刀を正面に構えた。だがオルカは反応しない。
「……分からんか」
ロージュはそう言ってオルカの横まで行くと、オルカに両手で木刀を握らせ、頭上から地面へ振り下ろさせてみせた。この動きを、何度か繰り返させてやる。
「ほれオルカ。やってみろ」
ロージュがそう言うと、オルカは意味を理解したようで、言われるままさっきの動きを繰り返した。
「そうだ。それが剣術だ」
ロージュはそう言ったものの落胆していた。これは剣術ではない。剣術とは格闘技。相手を攻撃し、そして身を守るもの。だがオルカは自分が何をしているか理解していない。ただ、目的もなく言われた通りの動きを繰り返しているだけだ。
これはオルカに剣術を教えるのは骨かもしれんな――
ロージュは肩を落とし再びオルカに向かい合った。
オルカはカラクリ人形のように木刀を振り続けている。
ロージュはオルカから三メートル程離れた位置で木刀を正面に構え、試しに殺気を送ってみた。
それは本当に試しにやってみた行動だ。相手に殺気を送れば達人なら感じ取るが、常人はまず反応する事はない。
オルカは竜に育てられた野生の子だ。もしかするとなんらかの反応を見せるかもしれない――
そんな軽い思いだった。
殺気を送ったロージュは、オルカの反応を見て、全身の血液が逆流する思いだった。
明らかにオルカの顔つきが変わったのだ。
左右の犬歯が完全に露出するほどに歯を剥き出し、鼻にシワが寄る。目が大きく見開かれ、さらに黒目が大きくなったように見えた。瞳孔が開いたのだ。より多くの光を取り込み、対象の動きを寸分も見逃さないようにしている。
そして腰を落として左手を地面に付いた。右手には木刀を持っているが、オルカは明らかに四本足で地面に立っていた。相手を撹乱するような付け焼き刃の体勢ではない。これが自然なのだ。獲物を狙う獣のような姿勢――オルカが戦闘する時はこれが最強の構えなのだ。
竜だ。ロージュは戦慄した。
その姿は紛れもなく小さな竜だった。
ロージュの殺気を読み取ったオルカは、呆けた人間の子供から一瞬で命のやり取りをする生物の頂点へと変異したのだ。迷いのない純粋な殺意。野生下で死と隣り合わせの毎日に身を置く者だけが纏える、無駄が全て削ぎ落とされた無垢な殺気。
相手の動きが想像つかない。技量がどれ程のものかも分からない。ロージュはこんな経験は初めてだった。
ロージュは自分でも知らない内に笑っていた。剣術をやってきた者のさがなのだろうか。まるで予想もつかない闘いを前に期待してしまっているのだ。
ロージュは更に殺気を強めた。
ロージュの目の前からオルカが消えた。
ロージュは木刀の根元を握っていた手を、木刀の真ん中に持ち替え、根元の部分を自分の右脇から突き出した。
手応えがあった。
木刀は、ロージュの真横まで一瞬で移動していたオルカのみぞおちに突き刺さっていた。
オルカはそのまま失神し、ロージュの足元に崩れ落ちた。
ロージュの全身は冷や汗でぐっしょり濡れていた。
ロージュは自分の行いを恥じた。
オルカの実力を恐れ、真っ向勝負を避けたのだ。
こんなものはトリックだ。ワシはオルカを恐れ、罠にはめたのだ。
ロージュは殺気のコントロールをし、オルカから先に動くよう仕向けた。そして木刀の構えを僅かに左にずらし、自分の右側首筋に隙を作ったのだ。
ロージュはオルカの動きが見えたら真っ向勝負するつもりだった。
だが余りの速さにオルカの姿を見失ったのだ。しかもオルカはロージュの右側に回り込む前に、一瞬左に重心を移動させた。フェイントだ。この天才的な撹乱によりオルカはロージュの視界からあっさり消えてみせたのだ。
ロージュに残された道は、もはや予め作っておいた隙を、オルカが正確に狙ってくる事に賭けるしかなかった。
これがロージュがオルカを仕留める事が出来た理由である。
「すまなかったな、オルカ。お前のあまりの殺気の凄まじさに、やらんでいい闘いに追い込んでしまった。明日からはちゃんと人間の剣術を教えるとしよう」
ロージュは身を丸めて眠るオルカに語りかけた。
それから二年の月日が流れる――
木刀を中段に構えたロージュは左右の足の踵を浮かせ、小刻みに重心の位置を変えた。重心移動でフェイントを入れながら打ち込む隙を窺うのだ。
対するオルカは木刀を持った右手を高く上げ、左手は体の後ろ。つまり片手上段という異様な構えだ。更にロージュに対し半身で立ち、僅かに腰を落としている。ロージュが小刻みに動くのに対し、オルカはその姿勢のまま微動だにしなかった。
ロージュは分かっていた。明らかに格下に見られている。自分が全身の神経を総動員し最速の動きをしてみせようと構えているのに、オルカはそんなロージュの動きを見てから対応すれば十分、と舐めているのだ。
確かにこの二年の剣の稽古でオルカの成長は目覚しいものがあった。身体能力が常人のそれとは明らかに異なるのだ。ロージュには、自身が五十年以上磨き続けてきた『技』があった。しかもその技は何百年もの時間をかけて先人達が築き上げてきたものだ。つまりロージュの技には人類の叡智が詰まっている。
そのロージュの『技』をオルカは並外れた身体能力でことごとく凌駕してしまうのだ。
オルカの剣の技術は大した事はない。構えも一見隙だらけに見える。だが、いざ立ち会ってみるとその印象はあっさり覆されるのだ。
ロージュは小刻みに揺れながら、どうにかオルカに一撃を加える事は出来ないものかと考えていた。
命を絶つ一撃を与える。とまではいかないものの、油断していたら思わぬ一撃を食らう。という事をオルカに教えたいのだ。
ロージュは『踏み込み』を捨てる事にした。
相手に重い打突を与えるには踏み込みは必要不可欠である。足の裏で地面を思い切り蹴り、その反動で加算された体重を剣に乗せるのだ。だが反面、動きに多少のタイムラグが生まれる。地面を蹴りこんで、反動を剣に移動させる間には物理的に時間が生じるのだ。それを削ろうというのである。
相手を倒すのではなく、当てるだけの打突。
姑息な手ではあるが、もはやこれくらいの事をしなければオルカの心に剣術の脅威を刻む事は出来ないだろう。
ロージュは右に左に体重を移動させる。通常は右か左、どちらかに体重が移った瞬間に、更に踏み込み、打ち込む。ロージュは体重が丁度真ん中、ゼロになった瞬間にオルカの右脇腹目掛けて木刀を突き出した。
有り得ないタイミングである。倒す気がないのだ。当然反応は出来ない。常人ならば。
だがオルカは常人ではなかった。こちらの仕掛けを知っていたのではないか、という程の嘘みたいな反応でロージュの突きを躱すと、相手を見失い突き出されたままになったロージュの木刀を、上段に構えたオルカの木刀が打ち据えた。
ロージュの腕を、抗えない激しい衝撃が襲い、ロージュは思わず木刀を落としてしまった。
完敗である。オルカは、この二年間でロージュの奇襲さえも通用しなくなる程に強くなったのだ。
「オルカよ。なぜワシの頭を狙わず木刀を叩き落とした? まさかワシに怪我を負わせぬよう手加減したわけではあるまいな?」
ロージュは地面に落とした木刀を拾いながらオルカを詰めた。手加減したのなら怒ってやるつもりだった。
「ロージュの突きには体重が乗ってなかったからな」
オルカは無垢な笑顔で言った。
「あの時頭を狙っていたら、相打ち覚悟で捨て身の反撃をされてたかもしれない。だから確実な剣打ちを狙ったんだ」
「なぜ体重が乗ってないとわかった」
「私はロージュの攻撃のタイミングを、足元を見て判断してるからな。でも今日は違った。足に一番力が入ってない時に攻撃してきた。だからきっと腕にも力が入ってないと思ったんだ。それで木刀を叩き落とした」
ロージュはオルカの完璧な答えに返す言葉がなかった。
この二年でオルカはロージュが思うより遥かに多くの事を学び、洞察するようになっていたのだ。
ロージュは、ふとオルカの足元を見た。
地面がオルカの足の形に凹んでいた。どうりで両腕が痺れる程の重い一撃を放てるわけだ。
ロージュは目を瞑り、一つ深く息を吐いた。
「オルカよ。ワシがお前に教えてやれる事は全て教えた。ついて来い」
「ん、なんだ? どこに行くんだ。美味いもんでも食わせてくれるのか?」
「東の山の竜……。お前の母親を殺した犯人を教えてやる」