死
竜の縄張りはさほど広くなく、自分を中心に半径十キロ、広さにしておよそ三百平方キロメートルほどである。この範囲には他の肉食性の大型魔物が立ち入る事はあまりなく、特に竜の寝床から二キロ以内に入る事は絶対にない。間違えて中心部に迷い込んだ魔物も、竜のマーキングのにおいを嗅いだら尻尾を巻いて逃げ出す。それほどに竜の存在は自然界に於いて絶対的なのである。
竜の娘の少女は、この縄張りの範囲から少し外れた場所に居た。少女は十三歳。好奇心が非常に強く、かつ自分の力を過信してしまう年齢である。
母の縄張りから少し外れたがこれくらいなら大丈夫だろう。それに自分はデビルパンサーに勝てる程強いのだ。何が起こっても対処出来る――
と、このようにお気楽な思考であった。
自然界とはシビアなもので、生物が大人になれる確率は圧倒的に低い。ほんの少しの慢心や油断ですぐに命を奪われるのだ。この危機を奇跡的に乗り越えた者だけが、油断や慢心の恐ろしさを身体に刻み、過剰なまでの警戒心を学ぶのだ。その状態になってようやく生物は厳しい生存競争に参加する権利を得るのである。
少女は一匹の『太鼓ウサギ』を凝視していた。このウサギは非常に脚力が強く、全力で走る際に、そのあまりの蹴り足の強さにドッドッドッと太鼓を叩いているような音が鳴るのだ。
もちろん竜に育てられた少女にはこの名前も名前の由来も知る由もなかったが、とにかく少女はこの太鼓ウサギが好物であった。
なんとしても捕まえて食べたい。しかしこのウサギの脚力を考えると、いかに素早く動ける少女といえども走って追いかける事は不可能である。
少女は太鼓ウサギの風下の茂みに身を隠し、標的が油断するタイミングを伺っていた。
太鼓ウサギは足元の草を噛みちぎっては、すぐに身を起こし辺りに目を配りながら咀嚼を繰り返している。明らかに何度か死線を乗り越えてきたであろう所作。下手なタイミングで襲いかかろうものならあっさり逃げられるだろう。
少女は身動ぎ一つ出来ない状態で獲物を観察する事しか出来なかった。
観察を始めて五分程が経った頃だろうか、突然ガササと木の枝が揺れる音がした。太鼓ウサギが身を固くする。激しく首を振って止まった視線の先では、一羽の鳥が枝から飛び立ったところだった。先程の音は、その時の枝の揺れる音だったのである。
太鼓ウサギが安心し、再び足元の草に首を伸ばした時には既に頭上一メートルの位置まで少女が飛び込んできてるところだった。
太鼓ウサギは足元に広がる少女の影に気付き、超スピードで地面を蹴ったが、その時には少女の両手がしっかり胴体を掴んでおり、太鼓ウサギの足は地面に着地出来ずに虚しく空気を掻くばかりだった。
少女は口の中に涎が湧くのを感じた。
早くこの獲物の頭を木に叩きつけて殺そう。そして柔らかく弾力のある太ももにかぶりつくのだ。
脳内で快楽を貪る少女だったが、突然全身に戦慄が走った。
背後の空気が圧縮されたような圧迫感。
少女は振り返る事もせず、手に持った太鼓ウサギを背後に放り投げ、自分は前方に飛び込んだ。少女の野生が起こさせた無意識の反射である。
少女の居た空間を太い腕が薙ぎ払う。
少女は五歩、六歩前進し木の後ろに回り込み、チラと背後を確認した。
右前足を振り抜いた巨大なスチールタイガーと目が合った。
一般的に山の王者と呼ばれるスチールタイガー。竜を除いて、この地域で最強の魔物だろう。
その巨体から繰り出される圧倒的なパワー。しかもその巨体を感じさせない驚異的なスピード。どんな獲物も切り裂く鋭い牙と爪。そして名前の由来ともなった全身を覆う鋼のような皮膚。どれをとっても殺戮をする為に生まれてきたような魔物である。
そんな災害のような魔物が少女を狙っていたのだ。
少女は太鼓ウサギの誘惑に取り憑かれ、自身の警戒を怠っていた。
要は獲物を狙っていた少女は、まんまと自分が獲物にされていた事に気が付かなかったのである。
しかし少女は神がかり的な反応でスチールタイガーの一撃を躱した。もちろんこの後で反撃するなどという選択肢はない。逃げるだけだ。
少女はスチールタイガーを確認した瞬間には、既に地面から飛び上がり木の幹にしがみついていた。
その行動と反応速度は圧巻と言っていい。少女も一流のハンターである。獲物がどう逃げたら捕まえ難いか身を持って知っているのだ。
獲物が木を登り、捕食者が後を追って木に登る。自分に近付いたところで木から飛び降り、捕食者を木に置き去りにするのだ。後は空間を上下左右高さと三次元的に使い、フェイントを交えつつ少しずつ距離を離していく。圧倒的な身体能力の差があるスチールタイガーから逃げるにはこの方法しかなかった。
だが少女は木を登り、飛び降りようと下を見て愕然とした。
スチールタイガーが追ってきてないのである。地面から少女を見上げ、降りてくるのを待ち構えているのだ。
このスチールタイガーはあまりにも冷静だった。狩りとは最も本能に近い行動である。普通目の前で逃げ惑う獲物がいたら、何をおいても追いかけ回したくなるのが生物のさがだ。この本能を抑え込むには相当の知性が必要になってくるだろう。
スチールタイガーは身体能力だけでなく、知能まで一流のハンターだったというわけだ。
一目散に逃げ惑う少女を闇雲に追いかけるのではなく、木を登ったところで少女に逃げ道はない。それならばゆっくり下で待機しておこう――
そう判断したのだ。
少女は木の上からスチールタイガーを見下ろしたまま隣の木へ飛び移った。
スチールタイガーはゆっくり歩き隣の木の下へ移動する。どうやら逃げるのは無理なようだ。少女は木の上。いずれ体力が尽きて落ちてしまうのは分かりきった事だ。
覚悟しなければならなかった。
少女はそこから更に上に登り、指三本分くらいの太さの枝を折った。その枝を二十センチくらいの長さに整え、先端を歯で噛みちぎって尖らせる。
出来上がったのは簡易的な杭だ。これが少女の牙である。
どうやら戦うしかない――
少女は覚悟を決めた。
スチールタイガーは頭を振って額についた木くずを落とした。頭上で少女が木を噛みちぎっては木くずを落としてくる。必死の抵抗だろう。だがこのままここで待っていればいずれ落ちてくる。スチールタイガーは熟れた果実が落下するのを待つように、少女が降ってくるのを待った。
見た事がない生き物だが毛が少なく、実に食べやすそうだ。動きは素早いが俺様からは逃れられないだろう。それは木の上で膠着している事からもわかる。最初の一撃を躱された時は驚いたが、反撃がないところを見ると、さほど強い攻撃能力も持っていないのだろう。
スチールタイガーは獲物の分析をしながら気長に待った。
ふいに頭上から葉っぱの付いた枝が落ちてきた。枝はスチールタイガーの頭に当たり地面に落ちた。見上げると少女が枝を折ってこちらに投げている。
枝を投げつけて俺様を追い払おうというのか? バカバカしい。こんな程度で退散するものか。
スチールタイガーは木を見上げながら右へ左へ移動し、次々に落とされる枝を避けた。
少女は手近に投げ落とせる枝が無くなると隣の木へ飛び移り再び枝を折っては投げてきた。
ドサドサと地面で音を立てる枝。最初は小さなものだったが次第に投げる枝のサイズが大きくなっていた。
えーい煩わしい。
スチールタイガーが枝を避けながらイライラしていると、とうとう少女は自分の体が覆い隠せる程のサイズの枝を落としてきた。葉っぱがバサバサと音を立てる。スチールタイガーはこれをヒラリと避けた。
枝が地面に落ち、ドサリと音を立てる。
異常にその音が大きい。
不審に思ってそちらを見ると、目の前の距離まで少女の姿が迫っていた。少女は大きな枝の陰に自分の体を隠し、枝と共に落ちてきたのだ。
少女は右手に持った杭で正確にスチールタイガーの左目を打ち抜いてきた。
これをまばたき程のスピードで行ったのである。
完璧な奇襲だった。通常の魔物なら少女の攻撃に反応すら出来ずに絶命していたであろう。
だがスチールタイガーは無傷だった。文字通りまばたきをしたのだ。
スチールタイガーの目の上、人で言うと眉の辺りは、やはり鋼のような固い皮膚で覆われている。
これをまばたきのような動きをする事で(正確には眉の上げ下げのような動きだが)上下させられるのだ。
スチールタイガーは少女の杭が目に突き刺さる寸前に、この硬い皮膚で目をガードした。
杭の先端がくしゃりと潰れた。スチールタイガーはその流れで左腕を振り抜いた。爪が獲物の皮膚を引き裂く感触があった。
顔をそちらに向けると、脇腹が避けた少女が後方に吹き飛んでいるところだった。
少女は吹き飛ばされながら右手の杭を口に咥え、両手をパーにし、前面に突き出した。
この動きをしていなかったら少女の首は噛みちぎられていただろう。スチールタイガーは吹き飛ぶ少女に追撃を加えていたのだ。アゴを大きく開け、首筋に噛み付こうとした。少女が突き出した両手は、このアゴを受け止めていた。
よく反応出来たと感心したいところだが、圧倒的な体格差である。そのまま押し倒され組み敷かれた。絶体絶命。少女は猫に弄ばれるネズミのように地面に張り付けられた。
少女の顔にビシャビシャと滴るスチールタイガーの涎。少女の顔を切り裂こうと振り下ろされる爪を必死に避けながら命を繋いだ。少しでもダメージを受ければそこから流れるように殺されるだろう。少女は全神経を集中し、スチールタイガーの攻撃を躱し続けた。
だが状況は絶望的である。ここから逃れる術はない。少女の死はほぼ確約された。
以前、同じような状況に追い込まれた事がある。まだ少女が五歳くらいの時だ。
竜の縄張りの中に若いスチールタイガーが侵入したのだ。若いスチールタイガーは竜の恐ろしさを知らなかった。縄張りに侵入した際に、スチールタイガーの本能は警戒を告げていたのだが、若いスチールタイガーは己の力を過信しており、自分が世界で最強の生物だと思い込んでいた。スチールタイガーは竜のマーキングを無視し、縄張りの中を練り歩いた。そこで少女を見つけたのだ。
小さな虫を追いかけて遊ぶ少女を見てスチールタイガーは無警戒に近付いた。少女の動きを見て、簡単に捕まえられると判断したのだ。
少女はのそのそと近付いてくるスチールタイガーを見て、ただぼーっと見つめ続けた。
この状況は、ほぼ少女の死を意味する。
だがそうならなかったのは、そこが竜の縄張りだったからだ。
スチールタイガーが少女まで五メートル程の距離まで近付いた時、空から音もなく竜が降ってきた。
竜は右足でスチールタイガーを踏み潰した。スチールタイガーは、己が世界で最強の生物だと思い込んだまま竜の足の下で絶命した。
竜は少女と初めて出会った時の事を思い出した。スチールタイガーに食べられる寸前だった赤ん坊の少女。まさに今と同じような状況だった。
その時はスチールタイガーの体を一口で平らげた。あの時は固い皮膚が口の中でゴリゴリと嫌な食感だった事を覚えている。
今回は同じような思いをしないように、スチールタイガーの皮膚を前歯で捻じ切って吐き捨てた。何度も前歯でスチールタイガーの皮膚を挟んでは首を回転させ、皮膚を捻じ切る。これを繰り返し全身の固い皮膚をキレイに剥いてから柔らかい肉を貪った。
五歳の少女はその一部始終を興味津々に見ていた。
少女は自分を食べようとするスチールタイガーのアゴを両手で抑えながら、数年前のそんな光景を思い出した。
あの時は母が助けてくれた。母の縄張りだったからだ。だがここは縄張りの外、助けに来てくれる事はない。何故母の縄張りから出てしまったのか、少女は自分の軽率な行動を後悔した。
スチールタイガーを食べる母の姿が目に浮かぶ。母は首を捻り、固い皮膚を捻じ切っていた。
捻じ切って……。
むしるわけでもなく、こそげとるわけでもなく、捻じ切る……。
少女の頭に一つの可能性が浮かぶ。
スチールタイガーの皮膚は、捻じる力に弱いのではないか? だから母はわざわざ首を捻ってスチールタイガーの皮膚を捻じ切っていたのではないか?
もしかすると自分の力でも、スチールタイガーの皮膚を捻れば切り取る事が出来るかもしれない。そう考えた少女はその可能性を試したくなった。
しかし両手はスチールタイガーのアゴを抑える為に塞がっている。しかもその力は尋常ではない。少女の腕力も相当強いのだが、スチールタイガーの力に徐々に押されていた。今両手をアゴから離そうものなら瞬時に首筋を噛みちぎられるだろう。かと言ってもう腕力は限界。このままだと遅かれ早かれ殺される事は明白だ。ならば一か八か両手を離し、スチールタイガーの眉の皮膚を捻じ切ってみようか? そう思考した瞬間だった。
遠くの空で雷が鳴った。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
妙に音が長いのが気になったが、確かに雷の音が聞こえた。
これがスチールタイガーにほんの刹那の硬直をもたらした。雨を嫌がったのか、それとも過去に近くに雷が落ちた経験があるのか、いずれにしてもスチールタイガーは僅かに体をこわばらせた。
こんな僅かな隙に反応出来る生物がいるだろうか。なぜ少女が反応出来たか、それは少女の天才的な格闘センスがそうさせたのか、それともまさに命を奪われる極限状態にあった少女の生存本能が起こした奇跡なのかは分からないが、確かに少女は並外れた動きを見せた。
両手を伸ばしスチールタイガーの左眉の皮膚を掴むと、懸垂のように両腕を引き付け上半身を浮かせる。その勢いのまま両足をスチールタイガーの首に巻き付け、時計回りにスチールタイガーの頭の上に回り込んだ。つまり完全に下敷き状態だった少女が一瞬にして、馬の背に乗るが如くスチールタイガーの首の後ろへと体を入れ替えたのだ。
しかもその動きの中では常に両手でスチールタイガーの眉上の皮膚を掴んでいるので、少女が首の後ろに回り込んだ時には、眉上の皮膚は百八十度回転した形になった。
少女の予想した通りだった。
スチールタイガーの鎧のような固い皮膚は、もともと毛だったものが進化の過程で変化したものである。つまりこの皮膚に捻じるような力を加えると、皮膚の端から毛が一本ずつ抜けていくような形になり、真っ直ぐ引っ張る時よりも圧倒的に小さい力で皮膚を剥がす事が出来るのだ。
少女は、回転によりグラグラになった皮膚を思い切り引きちぎると、口に咥えた杭を右手に持ち、露出したスチールタイガーの左目に突き刺した。
スチールタイガーは激しく体を振った。雷の音に一瞬気をとられたら、直後に左目に焼けるような痛みを覚えたのだ。
何が起こったのかは分からないが兎に角やばい――
身の危険を感じたスチールタイガーは少女の捕食を中止し、飛ぶように森の奥へと消えた。
一方の少女は大木の根元で倒れていた。
スチールタイガーの身震いで吹き飛ばされ、近くの木に衝突したのだ。
満身創痍だった。
スチールタイガーの一撃で脇腹は大きく裂け、全身で力み続けた事により筋肉や関節に蓄積されたダメージも大きい。それに知らない間に擦り傷や打撲もたくさん出来ているようだ。
少女はそのまま暫くの間倒れ続けた。
少女は母のいる場所までの道のりを這うようにして移動した。険しい山道である。朦朧とする意識の中、満足に動かない体を引きずっての移動は未だかつて経験した事がない程の不安に襲われた。
母の寝床に近付く度に叫んで母を呼ぼうとしたが満足に声が出せない。力が入らないのだ。全身のエネルギーを消費し、新たに獲物を捕獲する力さえ残っていない。早く母の元に辿り着き、温かい羽根の下で安らぎたい。その一心でイモムシのように地べたを這った。
半日程をかけ、何とか寝床まで五百メートルの場所まで戻ってきた。途中で捕食者に出くわしたらあっさり殺されただろう。だがようやくここまで辿り着いたのだ。
少女は残った全ての力を振り絞り叫んだ。やはりあまり大きな声は出なかったが、きっと母なら聞きつけて迎えに来てくれるはずだ。
だが来なかった――。
少女の胸に妙な不安が広がった。
母の寝床に近付く度に不安は大きくなる。不気味な静けさなのだ。いつもなら小動物や小鳥達の声で賑わっているはずだが少女の耳に届くのは寂しげに擦れる木の葉の音だけだった。
それに妙に生臭い。
明らかに普段と空気が違う。音もにおいも気配も、全ての情報が異常事態を告げていた。
少女の鼓動が大きく速くなる。
呼吸が乱れ、冷や汗が噴き出す。
少女は体の中に僅かに残った力を全て使い切りようやく母の寝床まで帰ってきた。
我が目を疑った。
少女はあまりにも朦朧とし過ぎて悪い夢でも見ているのかと思った。
茂みを抜けた少女の目に飛び込んで来たのは、視界いっぱいに広がる血の海だったのだ。
そして血の海の真ん中には、いくつかの部位に分断された母の死体が転がっていた。
少女は気を失った。