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竜の仔  作者: bamboo
プロローグ
1/9

竜と赤子



 白い月が、空に真円を描くある夜――

 その屋敷に響いたのは、鈴の音のような赤子の産声だった。

 異様なのはお産を終えたばかりの母親の表情である。

 出産に困憊(こんぱい)しきってはいたのだが、その顔には、命を紡いだ事に対する喜びや、無事に産み落とせた事による安堵の色はなく、まるで何かに怯えたように固く目を瞑っては、血の気の失せた唇を震わせるのである。

 そして、その場に居合わせた産婆やメイドまでもが、一様に肩を落とし、顔を伏せているのだ。


「かわいらしい……女の子にございます……」

 かろうじて発した産婆の言葉は、却って現状の厳しさを際立たせる結果になり、受け手もなく宙へ消えた。

 そこへ聞こえてきたのは、扉をノックする音である。

「奥様、失礼いたします」

 使用人の声だった。

 赤子を抱えた母親は、その声に幾分か安堵した。夫の声ではない。

 母親は、自分の夫が憤怒の形相で部屋に押し入って来る事態さえ覚悟していたのである。

 しかし使用人の沈んだ声に、窮地である事に変わりないという事は部屋にいた誰もが理解した。


「たった今、旦那様にご出産のご報告をして参りました」

 部屋に入って来た使用人は絞り出すように話し出した。

「旦那様は、ご出産の報告に『どっちだ?』とお尋ねになりました」

 使用人は、核心を喋る事を少しでも先延ばしにしたい、というように丁寧に説明した。

「私が、女の子にございます、と申しますと、旦那様は『そうか』とだけおっしゃいました」

 そこまで言うと使用人はしばらく黙り込んだ。しかしその事を誰も咎めたり続きを促そうとはしなかった。

 ようやく喋り出した使用人の声は震えていた。まるで高地にでもいるかのように息は切れ、白髪の混じった初老の顔は、叱られた子供のようにバツの悪そうな表情になっていた。

「私が報告を終え、その場から立ち去ろうとしましたら、私の背中に旦那様が一言だけおっしゃいました」

 ここで再び間をおくと、目を瞑り、意を決したように最後の一言を絞り出した。

「捨てて来い……と」

 その言葉に反応する者はおらず室内はただただ静まり返り、唯一響いていたのは、やはり鈴の音のような赤子の泣き声だけだった。



 鬱蒼と木が茂る山の中、使用人は赤子を抱え歩いていた。

 右手には松明を持ち、腰には大金が入った袋がぶら下がっている。

 使用人は自分の腕の中で寝息を立てる赤ん坊を見ながら、この子の母親、シャサの泣いて感謝する顔を思い出していた。

「奥様、私がお嬢様をお育ていたします」

 そう使用人の口をついて出たのは、涙すら流さず、魂が抜けたように放心するシャサを不憫(ふびん)に思ったからだ。

 使用人の提案を聞いて、シャサはようやく涙を流し、声を上げて泣いた。

 そして自分の持つ全ての金や宝石を集め、使用人に持たせたのだ。

 町でも裕福な部類に入る家の夫人の財産は、使用人がこれまで目にした事がない程の金額だった。

 これだけあれば、この子が成人するまで楽に生活させる事が出来るだろう――

 使用人が心変わりするのも無理のない話だった。


「申し訳ございません、お嬢様。だが、あなたも親に捨てられた不幸を背負って生きるより、ここで天に召される方がいくらか幸せでしょう」

 そう言うと、近くにあった大木の根元に赤子を置き、立ち去ろうとした。

 しかしすぐに立ち止まると、腰の袋をまさぐり、中から赤い宝石のついたネックレスを取り出した。

「これはあなたのお母上が大切にされてたネックレスです。お嬢様にはこれを差し上げますので、どうか私を恨まないで下さいませね」

 そう言うと、今度は一切振り返る事なく深い森の中へ姿を消した。

 こうして、生まれて間もない赤ん坊は、自分が置かれた状況を理解する間もなく、深い山中に捨てられたのである。



 山奥に放置された赤ん坊に最初に気付いたのは、スチールタイガーの雄だった。

 まるで鋼のような硬い皮膚に、その巨大な体躯(たいく)からは想像もつかないほどの俊敏さが特徴の、この山の主ともいえる魔物である。

 実はこのスチールタイガー、以前人間に襲われた事があるのだ。

 スチールタイガーの毛皮は、その頑丈さや軽さ、そして希少さが相まって、王族や富豪など一部の人間にしか手にする事が出来ない高級品である上、さらに牙や爪も調度品として人気が高く、このスチールタイガーを捕獲した者は、巨額の報酬を手にする事が出来る。ゆえに一獲千金を夢見た密猟者がスチールタイガーを狙う事案が後を絶たないのだ。

 このスチールタイガーもそんな密猟者に狙われた口である。

 ある日、武装した十名ほどの男に囲まれた。

 男たちはスチールタイガーを発見するなり、色めき立って一斉に飛び掛かって来たが、これを難なく撃退した。

 スチールタイガーが腕を一振りすれば、人間は胴体から真っ二つに裂け、渾身の力を込めた人間の斬撃は、スチールタイガーの皮ふから一滴の血すら流させる事は適わなかった。

 スチールタイガーは、目にも止まらぬ速さで、男たちの体を引き裂き、頭をかみ砕き、たちどころに壊滅させた。

 そして、その肉や内臓を食った。

 あまり美味い生き物ではなかった。

 スチールタイガーはこの生き物に対し、自分に襲い掛かってくる割りには味がたいして良くない、面倒な生き物であるという記憶だけが残った。


 木の根元に転がるこの小さな生き物の匂いを嗅いだ時、スチールタイガーはそんな記憶が蘇った。

 この毛のないサルのような生き物は、驚く程小さくはあるが、以前自分を襲ってきた、たいして美味くない生き物とどこか似た匂いがする。

 しかしコレは、あいつらとは違い、ずい分美味そうな匂いがするな。

 恐らくあの生き物の産まれたばかりの姿なのだろう。まだ雑味のない、甘い匂いがする。

 スチールタイガーは、口の中にじゅわりと唾が湧いたのを感じた。

 どのように食ってやろうか、腕の先からちびちびと味わってやろうか、幸いコレはろくに動けないみたいだ。息の根を止めずとも逃げる心配はなさそうだ。やはり生きたままの新鮮な肉を出来るだけ長く味わいたい。

 いや待てよ、それとも一口で一気に食べるのも悪くない。口の中に広がる新鮮な血の味を想像するだけでも涎が噴き出る。

 スチールタイガーはしばらく思案したのち、やはり一口で食してやろうと決心した。

 赤子の匂いを鼻から吸い込み、顎を目一杯広げた。口の端から涎が垂れ、赤子の顔にばしゃりと落ちた。

 スチールタイガーの記憶はここで途絶えた。

 地面が急激に迫り、視界が暗転。

 自分の身に何が起こったか分からないまま、スチールタイガーの首が地面に転がった。


 自分はこの山で一番強いと慢心していたからなのか、それとも赤子のあまりに美味そうな匂いに警戒心を削がれていたのか、スチールタイガーは、背後に忍び寄る捕食者の存在に気付かなかったのだ。

 ゴロリと地面に転がったスチールタイガーの頭は、その意識のない両目で、自分を殺した敵の姿を今更ながら捉えていた。

 僅かに欠けた月を背景にそびえる、一匹の巨大な竜の姿を。



 竜は、裂肉歯でスチールタイガーの皮や骨を細断すると、これをごくりと飲み込んだ。

 そして、食べこぼした頭部や千切れた四肢を前歯で掬い取ると、同じように飲み込んだ。

 竜はこの段階になってようやく赤ん坊の存在に気が付いた。

 今まで気付かなかったのも無理はない。竜からすれば人間の赤ん坊など、小さな虫ほどのサイズ。しかもこの赤ん坊、自分の真横で生態系の頂点とも言えるべき二匹の魔物が捕食活動を行っているというのに、まるで反応しないのだ。

 生まれたばかりで目がほとんど見えていないから、というわけではない。死にかけていたのだ。

 布にくるまれてるとはいえ、秋の入口に差し掛かったこの季節、しかも山奥深くとなれば夜は肌寒いくらいの気温だ。

 それに、産後こそ母親から乳を飲まされたが、それから使用人に捨てられるまでのほぼ丸一日間、一度も乳を与えられていない。この小さな体で体温を維持する事など到底出来ないのだ。

 赤ん坊は空腹と低体温で、その命の(ともしび)を燃え尽きさせようとしていた。

 そんな消えかけた命の存在を竜の嗅覚が捉えたのだ。

 しかし、自分の爪の先ほどの生き物を見つけた所で、何かが起こるはずもない。

 スチールタイガーを食べて腹を満たしてなかったら、舐めとられてさえいたかもしれない。

 だが驚いた事に、竜はこの見た事さえない生き物の赤ん坊を、そっと前歯で掬い取ると大きな羽を広げ、その内側に納めたのだ。

 その動きは、スチールタイガーの頭部を掬い取った時のような雑な動きではなく、まるで自らの卵を扱う時のような慈愛に満ちた動作であった。

 この竜は雌であった。子育ての経験の有無はわからないが、この雌竜は自分がすべき行動を知っているかのようだった。

 竜の全身は硬い鱗に覆われており、内部の熱を遮断する為、体の表面は外気温と同じく冷えている。

 しかし、唯一身体の中でも羽の内側だけが鱗は生えておらず、その皮ふの下に張り巡らされた血管からぬくぬくとした体温が伝わる場所なのだ。

 竜は、寒さで死にかけてる赤ん坊を、本能的に自分の体温を与えられる場所に移動させた。

 そして、そのままその場所で体を横たえると目を細め、軽く喉を鳴らした。

 この赤ん坊は生まれて初めての安らげる場所を、雄大な竜の慈しみによって与えられたのだ。


 ここで問題になってくるのは赤ん坊の食糧、つまり乳であるが、竜という生き物は卵で子供を産み、ふ化した稚竜を、かみ砕いた魔物や動物の肉を与え育てる。当然人間の赤ん坊が受け付けるような食べ物ではない。

 だが竜は時として、我が子が傷ついたり、病に侵され弱った時。そして思うように獲物を狩る事が出来ず食糧を与えらえない時などに、特別な食糧、いわゆる『ドラゴンミルク』という液体を与える。

 これは自らの消化器官の内壁を溶解させた、いわば肉のスープとでも呼べる液体なのだが、これが高タンパク、高脂質で実に栄養価が高い。

 しかしこれは、簡単に分泌されるものではなく、我が子の危機を察知した母親の本能によってもたらされるものなのだ。

 生命とは、何と不思議で柔軟性のあるものだろう。他種族である人間の赤ん坊を拾った雌竜は、そんなドラゴンミルクが喉の奥に湧いたのを感じた。

 もちろん雌竜がそんな事を意識して行ったのではない。ただ、生物としての、雌としての本能がそうさせたのだ。雌竜は喉の奥に何かが湧くのを感じ取ると、無性にこれをさっき拾った小さな生き物に与えたくなった。

 雌竜は舌を使い、ドラゴンミルクを喉奥から舌先まで移動させると、上顎に擦り付けた。ミルクは上顎を伝い大きな牙まで流れると、鍾乳石を伝う水滴のように牙から滴った。

 雌竜は、自らの羽をそっと持ち上げ隙間を作ると、大きく首を捻じり、隙間に頭を差し入れた。中は暗く、そして自分の牙の位置も肉眼では確認出来ない。それどころか、赤ん坊の位置さえあいまいにしか分からない。いや、それ以前に人間の赤ん坊がこれを飲むのかどうかさえ分からないのだ。

 ただ雌竜は、そんな不確かな状況下にもかかわらず、自らの本能に従い、根気強く、慎重に顎を移動させては、己の牙に神経を集中させた。

 その姿は、生態系の頂点に君臨する竜とは似つかわしくないほど健気で切ない光景だった。

 どれくらいの時間が経過しただろう、雌竜は何度となく喉からドラゴンミルクを運んでは牙を伝わせた。顎を開けたままミリ単位で動かし続ける。いよいよ顎や首の筋肉が限界を迎えた頃、牙の先に微かな振動を感じた。

 竜からすれば、それはそれは気のせいと言っていい程の小さな振動だった。しかし雌竜はその振動を感じた時、心が多幸感と安堵で満たされる感覚を覚えた。

 それは、赤ん坊が今にも消えそうな生命を繋ぎとめた瞬間だった。

 そしてそれは異種族の生命が、親子の契りを結んだ瞬間でもあった。



 それから十三年の歳月が流れた。

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