空の果てへ
pixivでも投稿している作品です。お気に入りなのでこちらにも。
そのうち長編にしたい。
自由に飛ぶ事を禁じられて、どれだけの月日が経ったのだろうか。
10年か、いや、20年近く経つかもしれない。
元々長寿であるドラゴンであっても、流石に看過できぬほどの年月であるには間違いなかった。
何せ、体が老いてきているのだ。
捕まった時には既に若いなんて呼ばれる年ではなかったせいもあるのだろう。
たかだか10年20年そこいらで、体の肉は少しずつ衰え、尻尾にもしなやかさが無くなってきてしまった。
未だ現役で空を飛び、戦場を駆け回るくらいは出来るが、はたして。それもいつまで続くのか。
青々とした空の中を飛ぶのは容易いが、叩きつけるような風雨の中で飛ぶには、些か筋力が追い付かなくなっているのも事実である。
あぁくそと悪態を一つ。
空を仰ごうと身じろぎをすれば、じゃらりと足元に付けられた鎖の音。
その音が耳障りで、思わず舌打ちを漏らした。
人がドラゴンを乗り物とし、戦の道具の一つとして使役するようになって久しい。
昔はその為だけに野生のドラゴンの乱獲がなされたのだけれど、今の若いドラゴンのほとんどは野性を知らない。
人間がドラゴンの人工的な繁殖、および飼育に成功してからは野生のドラゴンは衰退の一途を辿っている。
今ではその昔に乱獲された“乗り物”として使われている一握りだけが、貴重な“野生種”として保護されていると言うわけだ。
とはいえ。
保護されていようがいまいが、自由を奪われている事には違いない。
狭苦しい小屋の中では満足に翼を伸ばす事すら敵わない。
両足を動かす事も、体を揺する事だって出来やしない。
他にも、冷たい石畳の床や足に繋がれた鎖、引き留める杭。
そんな生活のどこに野生が残されているのだろうか。
それに、貴重だなんだと騒いでおきながら、一度争いが始まれば最前線へと送り込む人間の神経が分からなかった。
いや、別に守られたいわけでもないし、人間の考えなど分かりたくもないのだけれど。
ふと、鼻先を擽る温かな肉の匂いに、ぐるると喉が鳴った。
物思いに耽っていたせいですっかり忘れていたのだけれど、どうやら夕食の時間であるらしい。
「今日もお疲れ様でしたぁ」
なんて、呑気に笑いながら入ってくる少女に耳をぱたりと揺らした。
まだ若い、人間の少女である。
つい最近、ドラゴンの世話係としてどこそこの村からやって来たらしい。
ぱっちりとした黒い目と編み上げた赤毛が魅力的な、可愛らしい少女だとドラゴンは思っている。
「今日は一番良い肉を持ってきたんですよ。感謝してくださいね」
「いつも感謝はしているさ」
くすくすと年相応の笑顔を見せる少女に、ドラゴンは器用に肩を竦めた。
ドラゴンにとって、人間は誰も彼も理解できない生き物であるのだけれど、この少女は特別だった。
特別、訳が分からない生き物だった。
「そうですか?それだったら、少しくらい笑ってくださいよぅ」
たっぷりと肉の入ったバケツを下ろした少女が、ケラケラと笑いながらドラゴンの大きな口に近寄り、そのまま頬を寄せた。
すりすりと、肌触りを楽しむかのように頬ずりを繰り返し、繰り返し。
今や“乗り物”として馬牛のような認識をされているドラゴンであるが、その傍らで忌むべき厄災としての象徴でもある。
天を裂き、地を焼く死神。
それが、戦場を飛び回り数多の人間を屠って来たドラゴンに対する認識の最もたるものだ。
だから、ドラゴンに乗る竜騎士以外の人間はドラゴンに決して触れない。近寄ろうともしない。
なのに。それなのに。
「うん。相変わらず気持ちいい肌触りしてますねぇ」
この少女ときたら会う度会う度飽きもせずに、こうしてドラゴンに触れては頬を寄せ、思う存分頬ずりしてからようやく、本来の用事であるはずの餌やりを行うのだ。
つまり、この少女がドラゴンとの触れ合いに満足するまで、食事はお預けなのだけれど、まぁそれはいい。
どうせ腹など減っていないし、少女の柔らかく暖かい肌は、自由を奪われ争いに明け暮れたドラゴンのささくれ立った心を癒してくれるのだから。
「どこも怪我をしていませんか?羽を痛めてしまったり、矢が掠めたり、竜騎士さんにいじめられたり。そんな事はなかったですか?」
「あぁ。何も。何もないとも」
「それなら、良かったです」
ほぅと安堵したように息を吐いた少女の頬に、そっと鼻先を擦りつける。
大抵の人間であれば悲鳴を上げて腰を抜かしてしまうに違いないその仕草も、少女はただただ嬉しそうに受け入れるだけだった。
「じゃぁ、ご飯にしましょう。今日はなんと。牛の肉なんです」
貴重なんですよぉ。美味しいんですよぉ。わたしが食べたいくらいに。
おどけて見せる少女に小さくお礼を言って、ドラゴンは寄越されたバケツに口を突っ込んだ。
ドラゴンは上品な生き物なので、こういう犬猫のように手足を使わず物を食べるというのはあまり褒めらる事ではないのだけれど、翼を動かす事も出来なければ繋がれた足を使うわけにもいかないので仕方なく。
そう、仕方なく、こうして品のない食べ方に耐えている。
その間に。
「じゃぁ私の方も始めますかぁ」
間延びした少女の声が聞こえた。
同時に、重たい石畳を退ける音とざりざりと砂を掻く音。
ちらりと視線をやれば、少女が慣れた手つきで深く打ち付けられた杭の周りの石を剥ぎ、その下の土を削っては外に掘り出している。
その手を土で汚しながら。その指を、傷付けながら。
「……まだ諦めないか」
「諦めませんよ。諦められるわけ、ないじゃないですかぁ」
ケラケラ笑う少女の声がどことなく真剣で、ドラゴンはこれ以上何も言えずに差し入れられた肉を咀嚼する。
ドラゴンが一番わからない事が、コレだった。
なぜドラゴンに触れるのかも不思議だったが、コレがとびきり訳が分からなかった。
出会った時から。いいや、出会って少し経った頃から、少女はこうして、ドラゴンに自由を与えようとひたすら土を掘る。
ドラゴンの自由を奪う杭を引き抜くために。
なぜと問うた事はあった。
初めの頃、だったと思う。
貴方は飛ぶべきだと思うと言った少女に、なぜと。なぜそんな事をするのかと。そう聞いた事があった。
その時の少女の答えは実に簡潔だった。
少女はいつものように笑って。些か幼い顔立ちに似合う無邪気な笑みを浮かべて、ただ一言。
「私はね、自由に飛ぶあなたに恋をしたいの」
そう言っただけだった。
あの言葉の意味は、未だにドラゴンには分からない。
分からないまま、ただ少女の好きにさせていた。
させていた、のだけれど。
「もう一度、聞いてもいいか」
「なぁに?」
「どうして、俺を自由にしたがる?」
「あれ、前にも言いませんでしたっけ?」
手を止めた少女がきょとんと首を傾げた。
首を傾げたまま、当たり前のように。何の躊躇いもなく。
「私は、自由に飛ぶあなたが見たい。そして、そんなあなたに恋がしたい」
竜騎士を乗せて、限られた空を飛ぶあなたじゃなく。
どこまでもどこまでも。あなたの意思で、あなたの心のままに飛ぶ姿に、恋がしたいの。
なんて、そんな事を言うものだから。
ドラゴンは大きな溜息を落した。
なにせドラゴンはドラゴンだったし、少女は人間であるのだ。
恋だなんて言われてもこれっぽっちも分からない。
そんなドラゴンの心を汲み取ったのか知らないが、少女はにこりと笑うと両手を叩き土を落しながら再びドラゴンに近寄った。
ドラゴンの大きな大きな口に近寄って、頬を寄せて、そうして。
「……お前はっ」
「へへーっ、キスしちゃったー」
ドラゴンの口の端っこに自分の唇を擦りつけた少女は、頬を赤く染めながらそう言った。
「私はね、戦場で空を飛ぶあなたに恋をしました。でも、そんなのは本当のあなたじゃないと思うから」
だから、私は本当のあなたを好きになりたい。本当のあなたに、恋がしたい。
「だからね、お願い。迷惑だなんて言わないで。嫌だなんて言わないで。私があなたに恋がしたくて、勝手にやってる事だから。あなたはただ、自由になってくれればいいから。それだけで構わないから」
だから、ねぇ。お願い、お願い。
少しだけ必死な声で呟いた少女に、ドラゴンはぐるると喉を鳴らした。
上手く言葉がまとまらない。
けれど、少女の気持ちはわかった。
十分かどうかは知らないけれど、少女の心はわかった。
ならば。それならば。
「俺は自由に空を飛ぼう。お前の言う通りに。お前の望むままに」
「そう」
よかったと、少女がほっとした笑顔を見せる前に、ドラゴンは少女の服の首根っこをそっと食んだ。
噛み千切ってしまわないように慎重に慎重に。これ以上ないというくらい心を砕いて、そうっと自分の背中に放り投げる。
「ぎゃぁ」
「色気がねーな」
「うるさいです」
無事に着地してくれたらしい少女にこっそりと安堵しながら、ドラゴンは立ち上がった。
じゃらりと煩い鎖を頑丈な顎で噛み砕いて、繋ぎ留める杭を無造作に引き抜いて。
狭苦しい小屋を押し広げるように、大きく翼を広げる。
大きく、大きく、大きく、大きく。
天井が軋んだ。壁が歪んだ。翼に引っかかった梁が壊れて、床に叩きつけられる。
ドラゴンは自分を繋ぎとめていた脆い檻が崩れ去っていくのを、どこか弾む心で見守った。
「い、一体何をっ」
「言っただろう。お前の望む通り、自由に飛んでやる。けれどそこにお前がいなければ、何の意味もないだろう」
「それってどういう……」
「あぁ、黙っていろ。舌を噛むぞ」
少女の言葉を遮って、ドラゴンは羽ばたいた。
自由になるのは何十年ぶりであるけれど、飛ぶ事自体は何度だってやっている。
しくじるような事は何もない。
大きな翼を上下に二、三度。
軋んだ天井を押しのけて、ドラゴンはその身を浮かせる。
あと少し。もう二度、三度。
背中の上で、少女が歓声なのか悲鳴なのか、いまいち判断の付かない声を上げたのだけれど、聞かないフリをしておく。
どんな文句も悪態も、それは全て後で聞いてやろう。
とにかく今は一刻も早く飛び立って、久方ぶりの自由を満喫したい。
「私も、連れて行ってくれるんですか」
ばさりと大きく響く翼の音の合間に少女が叫んだ。
驚いたような、それでもどこか嬉しがるようなそんな声に、ドラゴンは低く喉を鳴らした。喉を鳴らして、まるで吠えるかのように笑った。
口の端っこが自然と持ち上がり、今までないくらいとてもいい気分だった。
「ドラゴンは、女を攫うものだろう?」
「ドラゴンが攫うのは、お姫様ですよ」
「あぁ。それなら大した違いはないさ」
全然違いますよ。
俺にとっては違いはない。
なんて、そんな軽口を叩き合う。
ついに天井は全て崩れてしまった。
降ってきた瓦礫が体中にあたって痛かったのだけれど、こんなものは大砲や矢に比べれば何と言うものでもない。
我が事のように痛がる少女を宥めながら、ドラゴンは高く高く。空へ高く、舞い上がる。
誰の命令もない。
ただ広い空を泳ぐように飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
遙か遠くへと置いて行った地上では、逃げたドラゴンに騒ぐ人々の喧騒があったのだけれど、ドラゴンの耳には少しも届かなかった。
そんなモノよりも大事な事聞くのに、ドラゴンの耳は一生懸命だった。
あぁ、あぁ。あなたは本当に!
背中の上で、少女がはしゃぐ。
「やっぱり。わたしは間違ってなかった。あなたはやっぱり、最高にカッコいいです!」
感極まった少女の叫び。背中に触れた温かくも柔らかな唇。
それらがくすぐったくも嬉しくて、自由になった事よりも少女の言動一つ一つに、ドラゴンの胸は躍るのだ。