第一話 とあるモブの結末
——それは、何でもないちょっとした冒険になるはずだった。
佐藤翔子が、冒険者となったのは去年の春のことだった。
どの大学においても行われているであろう各サークルによる新入生獲得合戦。初の上京、初の一人暮らしに無自覚のまま浮ついていた彼女は、なんとなくカッコよさそうという気持ちから誘われるままに冒険者サークルへと入部した。
そこは本気でプロを目指すほど真剣なサークルではなかったが、かといって不純異性交遊だけを目的としているサークルほどは緩くもなく、厳し過ぎず緩すぎずのどこにでもあるエンジョイ系の冒険者サークルだった。
そこまで本気で冒険者をやるつもりもなく、人並みの貞操観念を持つ翔子にとって、そのサークルは丁度いい塩梅に思えた。
新入部員には先輩方がDランクカードを月額一万円でレンタルしてくれて、冒険者になるための初期費用が登録料だけで済むというのも、冒険者になる心理的ハードルを下げてくれた。
当初は多くの人同様、冒険者に対し「カッコイイけど危険そうだし、大変そう」というイメージを抱いていた翔子だったが、いざ実際に始めてみると思いのほか快適なスタートを切ることが出来た。
新入生が迷宮に潜る時は必ず一人は先輩が同伴してくれ、出現するモンスターたちはレンタルしたカードよりも弱いモノばかり。広大な階層を踏破していくのはかなりの体力がいるものだったが、元々高校では陸上部だった彼女にはさほど苦にはならなかった。日本ではなかなか見られない自然を感じられるということもあり、ちょっとした海外旅行気分ですらあった。
単位に支障がない程度に迷宮に潜りつつ、同時にちょっとしたスリルとバイト代程度のお金が手に入るという最高の環境。
生まれて初めての彼氏もできた。
青木誠也と言う名の、さほどイケメンというわけではないが清潔感のある青年。穏やかで面倒見がよく、レンタルしたカードの本来の持ち主ということもあり、良く相談するうちに次第に惹かれていった。サークル内でも希少な星2のライセンス持ちというのも高ポイント。
まさに順風満帆、理想の大学生活。
そうして入学して一年も経った頃、ついにDランクカードを買えるだけの貯金がたまった。
新しいカードを買うこともできたが、翔子はそれまでレンタルしていたケットシーのカードを正式に青木から買い取ることを決めた。
一年も同じカードを使っていれば、普通はそのカードに愛着がわくものだ。
のちに、青木から聞いた裏事情によれば、それがレンタル制度の狙いなのだという。
先輩側は使わないカードを貸し出すことで毎月不労収入が得られるだけでなく、カードに愛着がわいた後輩がそれを買い取りたいと言ってきた場合、ギルドに売るよりもよほど高く売ることが出来る。後輩側は破格の初期投資で冒険者になることができ、さらには定価で買うよりかは幾分か安く、またある程度育っているカードを手に入れることが出来る。まさにWIN-WINの関係。
新入部員の間は常に先輩が付き添うのも単に指導というだけではなく、レンタル中のカードをロストされたり横流しされないようにするための監視でもあった。貸し出すカードも、愛着がわきやすいようケットシーのような愛らしいものを選ぶのだという。
そんな話を聞き、翔子はよくできたシステムだと感心した後、見事にそれに踊らされた自分に苦笑した。
レンタル期間を終えた部員は、正式に部員として認められ、以降一人で迷宮に潜ることを許可される。
それを知った翔子は、「まだ早いんじゃないか?」と心配する彼氏を説き伏せ、さっそく一人で迷宮に潜ることにした。
先輩の同伴は安心感がある一方、報酬も分割されるというデメリットもあった。
今の部屋の狭さと壁の薄さに不満のあった翔子は、色々と欲しいものがあったこともあり、更なる収入アップを欲していたのだ。
初めての単独攻略とは言え、相手はこの一年間なんども踏破したFランク迷宮だ。何の危険もない——はずだった。
「ハッ、ヒッ、ハァッ……!」
森林型の迷宮に入って数時間後。
翔子はすべてのカードと装備を失い、一人迷宮の中を逃げ惑っていた。
走り始めてどれくらいが経っただろうか。酷使された肺が限界を訴え、喉の奥からは鉄の味がほんのりとし始めている。足はパンパンに張りつめ、今にも攣りそうだ。一分だけ休んでしまおうか、そんな誘惑が脳裏をよぎる中、翔子は笑う膝にムチ打ち必死に走り続けた。
一瞬でも立ち止まれば、死ぬ。その想いだけが、限界を超えた彼女の体を突き動かしていた。
木々の通路は、地面に飛び出した木の根で凸凹として非常に走り辛く、曲がりくねった道と生い茂った葉っぱにより見通しが悪い。
走り辛さもさることながら、今の彼女にとって最悪なのが見通しの悪さで、角を曲がるたびにモンスターと出くわしはしないかと、翔子は恐怖に怯えなければならなかった。
もしも、たった一体のゴブリンであろうと、出くわせば終わり。一メートル進むごとに強制的に引かされるロシアンルーレット……。翔子の精神が、ガリガリと削られていく。
頼りになるカードを失い、翔子は初めて迷宮というものの怖さをその身で味わっていた。
「あっ……!」
一瞬宙に浮かぶ感覚。木の根に躓いて転んでしまったのだ、と気づいたのは全身に痛みが走ってからだった。
盛大に転んだせいで、肘や膝はもちろん、頬にまで擦り傷が出来ている。
……ああ、慣れたFランク迷宮だからって、半袖なんかで来るんじゃなかった。ボディーアーマーを着て、スタンガンや催涙スプレーなんかを持っていれば、今だってこんなに怯える必要はなかっただろう。
最初の頃は毎回持ってきていたそれらの装備品を持ち歩かなくなったのは、いつからだっただろうか。
私は知らず知らずのうちに慢心し、油断しきっていたのだ。
そう後悔するも、すべては後の祭り。今は自分の愚かさと不運を呪いながら足掻くしかなかった。
————ガサリ。
「……ッ!」
こぼれ出た涙を拭い立ち上がろうとした翔子は、すぐそばの茂みから聞こえた音にビクリと身を竦ませた。
荒い吐息を必死に抑え、じっと物音の方向を凝視する。
バクバクと激しい鼓動を打つ心臓の音がなんとも煩わしかった。
翔子の見つめる先から、一羽の小鳥が飛び立つ。
「はあああああああぁぁぁ……」
深い安堵の吐息が漏れた。
翔子は少しだけ呼吸を整えると、震える脚で立ち上がり再び走り出した。
今は休んでいる暇はない。
いつ“奴”の気が変わり、自分を追いかけてくるかわからないのだから。
——今思い返しても、その攻略は順調で、翔子に落ち度はなかった。
装備、と言う面では確かに気が抜けていたのは事実だが、それはそれらの装備がそもそも必要なかったからでもある。
成長限界まで育成されたケットシーの戦闘力は、Fランク迷宮では敵なし。
相手が四体だろうと五体だろうと瞬く間に駆逐する。
一年間、一度たりとも使う機会のなかったボディーアーマーや催涙スプレーなど、持ってこなくても当然であった。
それでも、初めての単独攻略ということで、普段よりもむしろ慎重に進んでいたくらいだ。
階層も四階層程度で、日帰りで十分に帰ってこれるレベル。
そうして順調に進んで行った彼女の歯車が狂ったのは、最下層に到着してからのことだった。
最下層で彼女を待ち受けていたモンスター。それは、グレムリンだった。
グレムリンは、星一から星六までランクを問わずすべての冒険者に忌み嫌われているEランクモンスターである。
その理由は、グレムリンの持つ特殊能力にあった。
機械破壊。グレムリンは、ありとあらゆる機械を狂わせ破壊するという能力を持っているのである。
この機械を破壊するという能力が、現代の冒険者たちにとって致命的に相性が悪かった。
すべての冒険者にとってスマホやカメラは生命線の必需品だ。
マッピングをスマホアプリに頼っている現代社会の冒険者たちにとって、冒険中にスマホを破壊されるというのは遭難の可能性を意味する。
またカメラも、迷宮内におけるトラブルの際、身の潔白を証明するために必要な重要アイテムだ。
そう言うことを抜きにしても、現代人にとってスマホを破壊されるというのは経済的以上に精神的にダメージが来るものだ。
さらにもう一つ、グレムリンが破壊する重要アイテムがある。
それが、冒険者ライセンスだ。
ギルドが開発したこの人工魔道具には、マイクロチップなどの機械が組み込まれている。冒険者ライセンスで買い物ができるのもその為なのだが、一方でグレムリンの機械破壊の範囲に含まれてしまうというデメリットも存在した。
冒険者ライセンスが壊れた場合、当然救難信号も送れなくなる。
浅い階層ならばともかく、深い階層の迷宮で地図も失い救難信号も送れなくなるのは、かなり致命的だ。
この機械破壊による迷宮内での遭難事故は毎年結構な数が出ていて問題視されているのだが、極めてアナログな方法を除き、未だ有効な解決策は見つかってはいなかった。
そしてグレムリンの厄介な最たるところは、フィールドのタイプに関わらずどこにでも出現し、さらには必ず気配遮断のスキルを持っているということであった。
つまり——大抵の冒険者はグレムリンの攻撃を受けてからその存在に気づくというわけだ。
最下層へと降りた翔子を出迎えたのは、そんなグレムリンからの先制攻撃であった。
グレムリンの存在に気づいた翔子はすぐさまグレムリンを抹殺したが、当然スマホのデータは返ってこない。
壊れたスマホの代金や新しいスマホ等の購入費用を考えると、今回の迷宮探索は完全に赤字である。
「ああ、もう! 最悪!」
悪態をつきながらスマホを地面に叩き付けたその時。
「——ギッ!」
「…………え?」
唐突に、ケットシーが吹き飛んだ。
まるでサッカーボールか何かの様にポンポンと地面を弾みながら転がっていき、やがて凄まじい音を立てて大木をへし折ると、そこでようやく止まった。
灰色の毛並みを赤く染め、手足をグニャグニャに曲げたケットシーは、気絶しているのかピクリとも動かない。
「あ、え? なに、が?」
それを呆然と見ていた翔子は、不意に顔に掛けられた生ぬるい風に我に返り——ソレと目が合った。
それは、アフリカ象よりも大きな白い狼であった。血の様に赤い瞳が、翔子を冷酷に見下している。
巨狼が、翔子へと語り掛ける。
『——あの猫をカードへと戻せ』
「え?」
『早くしろ。それとも噛み殺されたいかッ!』
「ヒッ! は、はい!」
命じられるがままに翔子はケットシーをカードへと戻した。それにより、自分のバリアが無くなるだとか、そんなことを考える余裕はなかった。
『他に持っているカードがあるならばすべて地面へと置き、所有権を廃棄しろ』
「は、はい……」
翔子は、ここの攻略中に手に入れたFランクカードと、万が一のために持っていた数枚のEランクカードを含めたすべてのカードを地面へと置いた。
一瞬、一枚くらいは懐に忍ばせておこうかと脳裏に過った翔子だったが、紅い瞳に見据えられるとその考えも塵芥のごとく吹き飛んだ。
それを見た巨狼は満足気に頷き。
『では、去れ』
そう言った。
「え?」
てっきりこのまま食い殺されるとばかり思っていた翔子は、唐突かつ予想外な言葉にポカンと口を開けてしまった。
『聞こえなかったか? それともここで食い殺されたいか?』
「い、いいえ!」
これ以上余計なことを言って本当に殺されてはたまらないと、翔子は慌ててゲートの有るであろう方向へと走ろうとし。
『そちらではない。お前はあちらから帰るのだ』
翔子の往く手を阻んだ巨狼が鼻先で指し示したのは、彼女が下りてきた階段であった。
それはつまり生身でここまでの道のりを帰れということであり。
「そ、そんな……。無理です! せ、せめて一枚だけでもカードを返してください!」
懇願する彼女を巨狼は鼻で笑う。
『知ったことか。たまには我らの力を借りずに自分の力で迷宮へと挑んでみろ』
「ど、どうしてこんなことするんですか? あ、あなたは一体だれなの?」
追い詰められた彼女から出てきたのは素朴な疑問。
このモンスターは明らかにFランク迷宮に出てくるレベルのモンスターではない。かといって、イレギュラーエンカウントでもない。この白い毛並みと巨大な身体には見覚えがあった。Cランクモンスター、ガルムだ。
だが、なぜガルムがこんな迷宮に出現するのだ。そしてカードを要求する理由は? 強盗? まさか他の冒険者が操っているのか? では自分をわざわざ来た道を返そうとするのはなぜか? 道中のモンスターに始末させるため? なぜこの場で始末させない?
湧き上がる無数の疑問。しかし答えは出ない。行き場を無くした疑問が、無意識に口から零れたのだ。
『言ったところでこの崇高な志は理解はできまい。まるで己の力かのようにカードの力を振るう貴様ら人間にはなッ! わかったらさあ行け! さもなくば——噛み砕くぞッ!』
「ヒッ!」
肌がビリビリと震えるほどの怒号に、本能的に翔子は走り出した。
武器であり盾であったカードはもはや一枚もなく。身に纏うのは頼りないTシャツとジーパンのみ。生命線であったスマホと冒険者ライセンスは壊れ、道筋もわからない。
まさに頼れるのは己の身体のみという状況で、翔子は迷宮へと消えていった。
——彼氏である青木誠也によって、佐藤翔子の捜索願が出されたのはそれから二日後のことだった。
【Tips】機械破壊
迷宮の出没するモンスターや罠の中には、何らかの事柄に対するアンチ的役割を持った存在がいる。グレムリンもその一種であり、その役割は『機械の否定』である。グレムリンの機械破壊に含まれる範疇は広く、スマホやカメラはもちろん銃などの一定以上の複雑さを持った道具類も含まれる。迷宮産、人工に限らず魔道具の類は機械破壊の対象とならないが、冒険者ライセンスのようにICチップなどを組み込んでいる場合機械破壊の対象となってしまう。
まだカードの使い道が不明だったころ、軍による迷宮攻略を阻んだ障害の一つとして悪名高い。