閑話百景:臆病者とこわいもの④
嫌い。
それはタマラにとって、恐怖と安堵を同時にもたらす言葉だった。
怒られるのも見下されるのも蔑まれるのも、嫌われるのも怖い。
けれど優しくされるよりはマシなのだ。優しくされると期待してしまう。そして他人に何かを期待してしまうことは、タマラにとってなにより恐ろしいことだった。
いつのことだったか。確か≪雇用革命≫がはじまる少し前だ。10歳にも満たない幼子だったタマラは、その当時から異端だった。
軍国人とポモルスカ人のあいだに外見的な差異はほとんどない。しかし軍国民の労働人街でもポモルスカ移民街でも、移り住んでしばらくすればいつの間にか周囲に素性が知られている。
ポモルスカ移民と軍国人の夫婦、そこに生まれた混ざりものの娘。友人など、一度も持てたことはない。
けれど、ただひとり、手を差し伸べてくれた少女がいた。
南東の地方都市に住んでいたとき知り合った。タマラより少し歳上の、軍人家系のお嬢さん。地域の少年少女団の班長で、優しく柔和な笑顔を絶やさず、除け者にされるタマラにも分け隔てなく接してくれた。
それだけのことに救われた。たまらなく嬉しかった。だから勘違いしていたのだろう。優しい彼女なら、タマラのことも受け入れてくれるに違いないと。
『あのね、わたしと――』
そのあとは、何を願ったかよく覚えていない。
他愛ないことだったと思う。「一緒に遊ぼう」だったかもしれないし、「友達になって」とまで言ったかもしれない。
何にせよ一世一代の大告白をしている気分だった。迷いに迷った末での自己主張、湧き上がる恐怖を抑えてなけなしの勇気を振り絞る。
一方で、まだ負の可能性を思い描くことのなかったタマラは、彼女が笑って頷いてくれるものと疑わずにいた。
浅はかにも程がある。今にして思えば、彼女は子どもながらに務めを果たしていただけだ。父親同様、配下にいる人間を平等に扱っていただけ。
そしてそこから外れてしまえば、答えなど決まっていた。
『……ごめんね?』
貼り付けたような笑みを浮かべて、その視線を絶えず泳がせ、しかし拒絶は明瞭だった。
当然だ。良家の娘が「ポモルスカ人」の出自をもつ子どもと仲良くできるはずがない。謝罪というかたちで応じた彼女は、やはり優しかったのだろう。
けれどタマラはこの瞬間、紛れもない真理を悟ったのだ。
――選ぶな、決めるな。
期待などするな。タマラの意思など踏みにじられるだけ。嫌われても呆れられても馬鹿にされても、怖いけれど受け入れればいい。ただ流され、恐怖を最小限に抑えていればそれで。
優しさは、タマラに期待と揺らぎを植えつける、残酷なものでしかないのだ。
***
そのまま、どれほどうずくまっていただろう。
無言でぽろぽろ泣き続け、ようやく涙が枯れてきた頃、タマラは萎えた脚で立ち上がった。
このままグレーテルの部屋にいてはいけない。あらゆる自発性を厭うタマラにも、それはかろうじて理解できた。
大嫌いとまで言われたのだ。
ならばグレーテルが戻る頃には、自分は消えていなければ。
泣きすぎて頭が重い。眼の周りも腫れぼったい。身体に力が入らなかったが、なんとか数少ない荷物をカバンに詰めた。担いでよろよろと部屋を出る。
母屋の扉を開けると、ずいぶん高くなった太陽が燦々と光をふりまいていた。摩耗した心には疎ましいくらいだ。
グレーテルはもう軍の支部へ出発しただろう。荷馬車を引く馬も出払っているだろうし、そもそもタマラが他者に何かを頼めるはずもない。駅までの道のり、馬で1時間ほどかかった距離を徒歩で進む必要があったが、タマラにはもうどうでもよかった。
「怖い」でも「嫌だ」でもなかった。どうでもいい。そんな気持ちになったのは、いったいいつぶりだろう。
――全部どうでもいい。そう思ってるみたいな顔、イライラするのよ――
いや、気付いていなかっただけだ。タマラはずっと、すべてがどうでもよかった。
タマラはたぶん、自分を守りたいだけなのだ。
あらゆる危険を感知するのも、謝り続けることで他者の働きかけを画一化しようとするのも、意見を口にせずあらゆる触れ合いを拒むのも、優しさをなにより恐れるのも。
怖いから。
意思を持たず、何にも期待しなければ、裏切りを恐れずに済むから。
怖くなくなりさえすれば、全部どうでもいいから――
恐怖の裏には、怠惰と無関心と自己防衛が巣食っていた。
「…………っ」
自覚すると、枯れたはずの涙がまた浮いてきた。腕で拭うのに後から後からあふれてくる。足はまた立ち止まって動けない。早く、ここを去らなければいけないのに。
――わたしは、どうすればいいんだろう。
ここでそんなことを考えるのも数度目で、しかし決定的に意味が違った。
音をたてずに泣く。いつもは外を警戒するばかりの五感も、今ばかりは内なる感情に鈍らされていた。
だから気づけなかったのだ。ほど近く、タマラの涙を見てとれるほどの距離に、ひとつの人影が息づいていることを。
「……あれは、意固地な子や」
嗄れた声が、横合いから向けられた。
びくりと肩を跳ね上げ声の方を見やる。母屋の影、手製らしき木のベンチに、痩せた老人が座っていた。
グレーテルの祖父だ。曲がりかけの腰で空を仰ぎ、白髭の奥で口を動かす。
「何を言うても意思を曲げへん。愛想ばっかり良うなりおったが、あの不器用が小手先で誤魔化せるわけあらへんがな。隊には迷惑かけとるやろなあ」
「え、ぁ、ご、ごめんなさ……」
「独り言や。最近ボケかけよっての」
反射的に謝ろうとして、先手を打たれた。
涙を拭いながら口をまごつかせる。タマラはどうすべきなのだろう。分からない。
あるいは、彼は聞いてほしいだけなのだろうか。タマラの方を見ないままに言葉は続く。
「ここには、ワシらの娘……あれの母親がおった。年頃になって街に出て、結婚して、あれを産んで、そう思うたら戦争や。あれの父親は兵隊に出て、どこぞですぐ死んでしもうた」
『あれ』というのはグレーテルのことだろう。すべてが初耳だった。グレーテルは話さなかったし、タマラは聞こうともしなかったから。
しかし、なぜグレーテルの祖父がタマラにこんな話をするのか。そんな疑問も、次の語りで砕け散った。
「母親もまた意固地でなあ。夫が戦場で死んだんや、自分も女だけの部隊に入る言うて。結局誰の言葉も聞かんで行ってしもたわ」
「……っ!」
息を呑んだ。思わず声すら出そうになるほど。
大戦期に存在した、女だけの部隊。そんなものひとつしか思い当たらない。
婦人鉄剣大隊――教科書で誰もが習う悲劇の女性部隊だ。十月会戦の発端となった大地震で多くが死んだ。
つまり、グレーテルの母親も、きっと。
「そのまま、母親はここに帰って来ん。あれはワシとばあさんで育てたようなもんや。
顔は父親に似たのに、似んでええところがどんどん母親に似てきよってからに。意固地のくせして、肝心なことをはっきり伝えん……」
皺の寄るまぶたで瞑目し、帽子を深く被りなおす。表情はそれで見えなくなった。明るい夏の大気に沈黙だけが影を落とす。
この土地でグレーテルが軍人になったことを受け入れられた理由が、なんとなく分かった。皆理解していたのだ。父親と母親の歩んだ道を選び、立派に駆け抜けようとするグレーテルの覚悟を。
反対もあったに違いない。しかしグレーテルは自らの意思を貫き通した。そうするだけの想いがあった。
少ししつこくて厳しい上官、そう片付けていた認識が作り替えられてゆく。タマラの見ようとしなかったグレーテルの強さが、そこにはある。
「……ただの独り言や。老いぼれが宙に向かって好き勝手言いよる、そう思ってくれてええ。ただのお」
ふう、と白髭が揺れた。そして落ち窪んだ目を開くと、その視線が今度こそこちらを見据える。
思わず身を強張らせた。けれど逃げてはいけない気がした。迷う間にも髭に埋もれた口が開く。孫を想う慈愛で言う。
「あれが仲間を連れてきたんは初めてやで、どうぞ、よろしゅうしてやってください」
***
グレーテルは、昼をいくらか過ぎた頃に帰ってきた。
変わらず自分の部屋に居座るタマラを見て、グレーテルは怒りも驚きもしなかった。ただ小さく息をついただけ。そしてベッドに座るタマラを見下ろし、ぶっきらぼうに言い放つ。
「……逃げなかったのね。なら、来なさい」
それだけだった。いつものようにタマラの答えを聞こうとはせず、その腕を掴み上げずんずん引っぱっていく。
部屋を出て、母屋を出て、グレーテルの家の敷地を出て、例の牧場の母屋までやってきた。ちいさな居間に結構な数の人間が集まっており、何やら議論を交わしている。
野犬狩りの話だ。タマラを居間の隅に待機させ、グレーテルは話へ加わっていく。どうやら軍からの許可は無事降りたらしく、猟友会も動けるようだ。場慣れしているらしい初老の男が上座で言う。
「まず、被害の規模から見ると野犬も数がおるな」
続けて被害状況を列挙する。主な犠牲者はこの牧場の羊たちだが、近所で飼育されている豚やグレーテルの家のジャガイモ畑など、細かな被害もいくらかあった。狭い範囲の内で最大限に暴れている印象だ。
「野犬が遊びで家畜襲うことある言うても、この被害は結構なもんやで。十頭近くおるかもしれん」
「そない考えると、一気に駆除するんは難しいやろうなあ」
「言うて森に毒餌撒いてちまちま殺しても、何ヶ月かかるか分からんぞ」
「それ以前の問題やな。野犬いうんは頭ええぞ。毒餌なんぞに引っかかるんは一頭二頭がええとこで、むしろ森の食べもん警戒してこっちへ出てくるのが増えるかもしれん」
ああでもない、こうでもないと、いくつの議論が交わされただろう。当座のアイデアを出し尽くし、みなが首を捻るようになったころ、上座の男が結論を出した。
「……こうしよか。多分連中は味をしめとる。近いうちこのへんに来るやろ。そこを叩く」
「相手は野犬やぞ。ワシらの臭いでバレるん違うか」
「野犬どもが来るまでは隠れとればええ。バレて逃げるんやったらそれはそれ、家畜が襲われんで済む」
つまり、とりあえず行動してみるということだろう。第一の目的は家畜や作物を守ることだ。野犬の駆逐はその毀損を防ぐためにすぎない。
駆除ができれば上々、失敗しても追い払うことはできる。最初の手としては確かに悪くないのかもしれなかった。
その方向性でまとまって、具体的なやり方についても固まって、ようやっと解散となったとき。黙って話を聞いていたグレーテルが動きだした。
「――おじさん。今日の作戦、うちらも参加させて」
不自然なほど明るい声はよく通り、愛想笑いの横顔は否応なく目を惹きつけた。
グレーテルはただ上座の男に語りかけただけだ。口調もフランクで気負いない。けれどタマラは他の雑音を差し置いて、彼女の一挙一動を選びとってしまう。
感じたからだ。五感を超えたところで、グレーテルなりの真剣を。
「あかんかな? 軍との交渉頑張ったし、ちょっと見学させてほしいんや。今後のために」
「……グレーテルちゃんは猟友会入っとらんやろ。いくら軍で慣れとっても銃渡せんで」
「大丈夫大丈夫、分かっとる。その場におらせてくれるだけでええんや。なんなら狩りの現場にも出ぇへんよ、約束する」
「なら、まあ、ええけども……それで何するんや」
そう言質を取ると、愛想笑いはそのままに、グレーテルの眼差しが鋭いひかりを帯びた。
あまり見なかった眼だ。任務に赴くとき、作戦を思いついたとき、敵と一戦を交えるとき……余裕ぶってみせたがる彼女が嫌う、真っ向勝負を決めたときの顔。
それがタマラへ向けられる。肩を跳ねあげたこちらに構わず、ずかずか歩み寄って手を取り告げる。
「賭け、かな」
振り返って上座の男へ向けたはずのそれは、タマラへの宣戦布告のようにも聞こえた。




