閑話百景:臆病者とこわいもの②
タマラ・ヴィシンスキの世界は「こわいもの」に満ちている。
見るもの。聞くもの。触れるもの。香るもの。味わうもの――そのすべてが絡みあい、やがてはタマラを脅かす妄想へと変じてゆく。
中でもいちばん恐ろしいのは人だ。気性も思惑も千差万別。相手次第で状況はいくらでも悪い方に転がりうる。そんなものに、タマラは極力関わりたくなかった。
怖かった。タマラを見定めようとするひとが。
怖かった。タマラを蔑み見下すひとが。
怖かった。タマラに優しいひとが、何よりも。
『あのね、わたしと――』
あの言葉が楔となって、今もタマラを縫いつけている。
***
「じゃ、私おじーちゃんたちの手伝いしてくるから」
グレーテルの実家へ泊まった翌朝。彼女は身なりを整えると、そうタマラへ背を向けた。
生成りのワンピースはゆったりと涼しげで、丈の長いエプロンが足元までを保護している。
休日には都会的な服装をしていたグレーテルにしては意外な着こなしだ。一方で動作にぎこちなさもなく、慣れた装いなのだと分かる。
タマラの側も似たような着替えを持ってきていた。農作業を手伝うなら動きやすい服装がいいと思ったからだ。汚れてもいい古着のワンピースに袖を通して、しかしそこから動けない。
――タマラはいったい、どうすればいいのだろう。
収穫を手伝いに来いと言ったグレーテルと、手伝いはいらないと言った彼女の祖母と。タマラはどちらに従うべきなのだろうか。
グレーテルは何も言わない。古ぼけた壁掛け鏡を見つめ、黒いボブカットへ繰りかえし櫛を通している。
横槍を入れたら、叱られるかも。そんな不安と、相反する指示の間で板挟みにされた恐怖と。
迷って迷って迷って、溜まった唾を何度も飲み込んで、結局勝ったのは後者だった。
「ふ、副分、隊長」
「なに?」
間髪入れずに振り返り、あっさりと櫛を棚に置くグレーテル。ああも熱心に髪を梳いていたのが嘘みたいだ。
まるでタマラの言葉を待ち構えていたかのよう。そう考えてしまって、ヒヤリと背筋に怯えが走る。
もっと早く話しかけるべきだったのだろうか、だとするとグレーテルは何を言ってほしいのだろうか、そこから外れたらどうなるのだう――
恐れは連鎖し膨張し止まらない。ほぼ反射でいつもの言葉を口にしている。
「す、すみません! ごめんなさい……」
「は? 何に謝ってんのよ」
「ごめんなさ、あ、えぅ……」
「いいから。言いたいことがあるなら言いなさいよ」
はあ、と息をつき、こちらを見つめるグレーテル。この視線が苦手なのだ。タマラが謝罪以外で口を開くまで退こうとしない頑固な目。
ここで黙りこくっていてもグレーテルは動かない。それは経験則で知っているのに、痺れるような拒絶が喉を、舌を、唇を蝕んでいく。
嫌だ。
逃げたい。
怖い。
肯否を示すだけでもタマラはなけなしの勇気を絞り出しているのだ。それが言いたいことを言えだなんて、恐怖で胸が押し潰れそうになる。
何度か浅い呼吸を繰りかえし、躊躇いに声をもつれさせ、やっとのことで言葉へと紡ぎあげた。
「わ……わたし、は。なにを……すれば」
ほとんど蚊の鳴く音だった。一歩も動いてなどいないのに、山を登攀しきったような疲労がある。そして一難越えた達成感より、次に待つ可能性への恐れの方が強かった。
この問いが間違いだったら。グレーテルを怒らせてしまったら。その仮定を、グレーテルは小さく肩を撫で下ろすことで否定する。
呆れたような表情には笑みのかけらもなかったが、不興を買ってはいないこともまた明らかだった。
「……40点ってところかしら。まあ一応は前進よね、今はそれでいいわ」
「え……」
前進。意味の分からないそれを、グレーテルも説明するつもりはないらしい。タマラより少し低い背でまっすぐに言い放つ。
「手違いがあったのは謝るわ。おばーちゃんの言った通り、手伝いはいらない。あんたの好きにしなさいよ」
「……?」
「私の農作業見るなり、散歩するなり、本読むなり、ここで惰眠貪るなり。なんなら駐屯地に帰ったっていいし、どっか別の街に旅行に行ってバカンス満喫してもいいわ。あんたがそうしたいなら」
最初は、無茶を言ってからかわれているのかと思った。
しかしグレーテルの表情は真面目そのもの。視線もまっすぐタマラを見据えたままで、後ろめたい時特有のいやに高圧的になる癖も出ていない。嘘や冗談ではないのだ。
いったい何を求められているのだろう。無言で悩み焦るタマラへ距離を詰め、グレーテルはとどめの言葉を突きつける。
「ここは軍じゃないし、私もあんたも軍人じゃない。あんたが自分で決めるのよ。いいわね」
***
グレーテルはどういうつもりなのだろう。
あのまま彼女が部屋を出ていってから、タマラはそのことばかり考えている。
好きにしろという、彼女の言葉の真意が分からない。
遠回しに帰れと言われているのか、あるいはいてもいいが邪魔だから何もするなということか? 解釈はいくらでも出てくるが、どれも決め手には欠けていた。もっとはっきり命じてくれれば楽なのに……
そうこう悩んでグレーテルの部屋で数時間を過ごし、弱々しく結論する。ひとまずグレーテルの言っていたことをひとつずつ試していけば、いつかは当たりに行き着くだろう。
その過程で叱られる可能性も十分あったが、彼女の気性を考えるに、このまま漫然と何もせずにいた方が怒りそうだ。優しくされるよりマシとはいえ、機嫌を損ねる機会もできる限り少なくしたい。
つまりは消去法。タマラが屋外に出てきたのはそういう理由だった。
石造りの建物群の裏手に出ると、そこには見渡すばかりの緑の絨毯が広がっている。さんさんと照りつける夏の陽射し。眩しく揺れる葉の多くはかすかに黄色味を帯び、全盛期を越したことを示している。
これらはすべてジャガイモ畑らしい。老夫婦で管理している、たった5ヘクタールほどしかない零細農家だというが、それでも馴染みのない身には圧巻の景色だ。
風が吹く。涼しさが心地良く、緑と土の濃密な匂いを新鮮に思う。わずかに混ざる獣臭さは近くにあるという牧場からか森からか。そう周囲を分析していると、グレーテルの声が快活に駆けぬけた。
「おばーちゃーん! この畝の分、とりあえずこれで最後なー!!」
何百メートルか先、緑の絨毯が途切れたあたりからグレーテルが歩み寄ってくる。ジャガイモを満載した箱を両手に抱えて。
思わず建物の影に隠れる。確かグレーテルは「私の農作業見るなり」と言っていたし、だからタマラも出てきたのだが、見つかるのは本能的に怖かった。
幸いなことにグレーテルには気づかれなかったらしい。そのまま貯蔵庫の傍らで立ち止まり、よっこいせと箱を降ろす。そうして背伸びをしていると、貯蔵庫からグレーテルの祖母が出てきた。
「ありがとなあ、お疲れ様。ほんなら選り分けよか。グレーテルちゃんは休んどき。おばあちゃん、この分終わったらお茶とおやつ持ってくるさかいに」
「えー。昨日いっぱい休んだんやから、まだまだいけるわ。こっちは鍛えとんよ、若さに任せてええで」
そうおどけて胸を張るグレーテルの姿は、駐屯地での振る舞いを思えばやはり意外だ。彼女も家族の前では気が緩むのだろうか。
いくらか話しこむとグレーテルは貯蔵庫に入っていく。そこでほっと胸を撫で下ろしたとき、タマラは「それ」に気づいた。
「……?」
石造りの貯蔵庫。高い位置に窓がある。中は二階建てになっているのかそれともちょうどいい柱か何かあるのか、開き放しの窓から小さな鼻がちょこんと出てきた。
グレーテルたちの飼い猫だ。くんくん外の匂いを嗅いだかと思うと、するりと身を乗り出し、窓に沿って張り出した部分を足場に降り立つ。
そのまま器用に渡り歩くところを見るに、屋根にでも登りたいのだろうか。太った身体を重たげに揺らすさまは少々不安定だ。眺めているだけでもハラハラする。
それが明確な危機感になったのは、風を切る羽音を感知したからだ。
やがて一羽の鳥が視界に入った。悠々と滑空し、こちらへ近づき、貯蔵庫のほど近くにある木で羽を休める。猫の目線が一点で固まったのはこの時だ。
長い尻尾が興奮気味に揺れる。丸い猫背が身を屈める。そして足場から木へと飛び出した身体を、タマラは直視できずに目を覆った。
「――っ!」
落ちる。確信だった。
ばさばさと葉を叩く鳥の羽ばたき、猫の驚いたような鳴き声。次には肉が地面に叩きつけられる音が待っているだろう。それに怯えるまま立ち竦んでいたのに、予想した結果は訪れなかった。
代わりに聞こえたのは聞き慣れた声だ。いつもタマラを叱り、待ち、難題を持ち出す上官の。
「あっぶな……アビーあんた、やっぱ太り過ぎとちゃうん。鼠そないにおるんかいな……」
陰から貯蔵庫の方を再び覗きこむ。いつの間にかグレーテルが貯蔵庫から出てきており、あの太った猫を受け止めていた。
猫はしばしぽかんとしたのち、不満げに身をよじってグレーテルの腕から抜け出す。「恩知らずめ……」と苦笑気味に呻くと、グレーテルはまた畑へと駆け出した。
ほ、と知らず安堵の息をつく。何事もなくてよかった。心底そう思ったのは、嘘ではない。
――けれど、グレーテルが出てこないままだったら。
自力で着地できる体勢は整っていなかった。おそらく猫は怪我、もしくは死んでいたはず。
グレーテルたちは愛猫の不幸に沈んだだろうし、そこへどう接すればいいかも分からなかった。タマラが危機を察知していたことを知られたなら、グレーテルにもひどく叱責されただろう。誰にとっても悪いことしかない。
それを理解しておきながら、タマラは「危ない」の一言を叫べなかったのだ。
「…………」
意思を示す。誰かに働きかけるため行動する。
それはどんな不利益を被ってでも、タマラが避けたいと願うものだから。




