3-10あなたの隣の宣戦布告
逃がさない。そう告げるアルバートの微笑みを受けて、脳裏を掠めた予感はひとつだった。
――勝てない。
諦めないと誓ったはずなのに、打ち勝つと決めたはずなのに。シャルロッテの抗いは彼のたった一手に封じられる。
アルバート・ケストナーは恐ろしい男で、簡単に優位を得ることなどできはしない。そんなことは分かりきっていたはずだった。しかし真っ黒な無力感と敗北感は、ちっぽけな覚悟などあっけなく塗りつぶしていく。胸が苦しく呼吸は重く、見えない鎖が首を締めあげる。
そうだ、この感覚はよく知っていた。結婚してからの数年間、シャルロッテはずっとこれとおなじ泥沼に沈んでいたのだから。出口の見えない鬱屈で、あの日の思い出を糧に生き長らえながら、ただひとり。
けれど――けれど。シャルロッテはもうひとりではない。
「ロッテ、恐れないで。君なら大丈夫だ」
傍らの戦友、最愛の憧れがシャルロッテの手を握る。
その体温だけで、シャルロッテは底なし沼からだって這い上がることができた。
「……ええ、そうね。ごめんなさい、怖気づいちゃった」
「無理もないさ。この状況ではな」
手袋越しの手を握り返すと、ヴィルヘルミナは囁きで笑いかけてくれた。しかし周囲を見回す目つきに油断はない。任務に集中しながらもシャルロッテを慮ってくれている、その事実がたまらなく嬉しかった。
そしてヴィルヘルミナの視線が一点を指す。アルバート――いや、きっと彼女の視界にそんなものは存在しない。
「ただ、忘れないでくれ。隣には私たちがいる。君ひとりで壇上に登るのではないことを」
無数の墓石を背景に従えた壇の上。ヴィルヘルミナが見ているのは、シャルロッテの立つべき戦場だけだ。
「君の勇気は私の正義だ。それを成し遂げるためならば、私は何だってしてみせる」
それは激励だった。シャルロッテを心から信じ、優しく背を押してくれる。
これに答えなければ嘘だろう。怯え、迷い、恐怖……すべての弱気が燃えていく。まるで化学反応、あるいは魔法だ。シャルロッテは抗う術など知らないし、そのつもりだって微塵もなかった。
「ロッテ、行こう。君の理想を見せてくれ」
そう――彼女だけには、勝てなくたっていい。
そして他の誰にも屈するものか。ヴィルヘルミナの言葉さえあれば、シャルロッテはいくら打ち倒されても立ち上がれる。
「ありがとう、ミーナ。心配かけてごめんね。もう大丈夫」
ヴィルヘルミナと繋いだ指をほどく。しかし心は固く結ばれたままだと分かっている。ならばもう何も怖くなかった。
前を向く。それを見届けたようにアルバートが壇を降りてゆく。相変わらずその顔にはにこやかな微笑みがあった。
(――上等よ)
はにかみ笑いの裏で闘志が燃える。シャルロッテにこの機会を与えたこと、きっと後悔させてやる。
「それじゃあ、行きましょう」
踏みだせばあとは簡単だった。すれ違うアルバートを一瞥しただけで振り切り、シャルロッテはゆっくりと壇上に立つ。
すかさずヴィルヘルミナとマルガが両脇に立ち、他の隊員も檀の下についてくれた。傍らのぬくもりを感じながら、シャルロッテは一瞬の思考に沈む。
――観客が求めているものは? アルバートの妻、国民の良妻にして賢母。
――観客が聞きたいものは? 自分たちが共感でき、自分たちに寄り添う言葉。
――アルバートより優位に立てる点があるなら? 彼が無視した人々を拾いあげること。
自問自答から組み上がっていくのは戦略。これがシャルロッテの本領発揮だ。
誇り高い戦友に並び立つため、女優シャル・ハイネンはいま蘇る。
(さあ、勝負といきましょう)
時の止まったような青空のもと、膝を折って一礼する。真空のような沈黙が張り詰める。
そこに最初のセリフを投げる快感を、シャルロッテは久方ぶりに味わった。
「――大戦がはじまったとき、私はたった4つの子どもでした」
語り出しはアルバートのそれを踏襲した。単純に印象が深まることに加え、「シャルロッテはアルバートに追従している」という前提を植えつけられる。心持ちはどうあれそちらの方が好都合だ。
ゆるやかに、そしてはっきりと、全員の意識を逃さぬように。この場にいる全員を両腕で包むイメージをもって、シャルロッテは声を発する。
「停戦したときも9歳で、何が起こっているのかは正直よく分かっていませんでした。戦争をして、兵隊さんを見送って、配給をもらって、兵士になったお父さんはほとんど会えない存在で、そんな日々が当たり前でしたから。
けれど、ここに集った皆さんの多くにはそうではなかったと思います」
こちらを見上げる無数の瞳、そのひとつひとつを肌で意識する。
多くは自分より上の世代、もっと言えば大戦を己の身で体験した世代だ。そしてそれは、決して兵士や軍人だけではない。
「誰かは父親を亡くして、誰かは夫を亡くして、誰かは兄弟を、息子を、恋人を亡くす。
祖国のための礎となられたとはいえ、愛する者を失った哀しみは私の想像を絶するでしょう。今日までその苦しみに耐えられたすべての方に、私は敬意を表したいと思います」
子守唄のような節回しを意識して微笑みかけると、いくつかの視線が潤みを帯びた。
そして静かな拍手が起こる。その多くは女性たちだった。アルバートが無意識に、あるいはあえて言及しなかった人々を掬い上げる。それこそがシャルロッテに残された唯一の勝算だ。
ここまではアルバートの演説とそう変わらない――というかほぼ同じ構成にした。しかし彼の足跡を辿るのはここまでにしよう。
アルバートの演説を、シャルロッテが踏み台にする。
「私も、その嘆きの一端に触れたことがあります」
思い出す。男女の違いに縛られ続ける日々、「大丈夫」と言ってくれたあの女性、シャルロッテにとっての最初の英雄。
だからあのできごとは、シャルロッテにとっても疑いなく悲劇だ。
「20年前の10月……から、いくらか経ったころだと思います。近所の家のお姉さんが兵隊になって、戦地で亡くなったと聞きました」
聴衆のうちに、無言の驚きと興奮が広がった。
人は運命的な物語に惹かれる。「国民の良妻にして賢母」と呼ばれる女性の人生に、婦人鉄剣大隊の犠牲はどのように関わったのだろうか……そんな興味が多かれ少なかれあるはずだ。
それでいい。今はまだ。胸に手をあて、静かに続ける。
「婦人鉄剣大隊のことを知ったのはもうしばらく後でしたが、それでも大変なことが起こったことは分かりました。街中がその話題で持ちきりでしたから。
なんて可哀想なんだってみんな泣いて、私の母も私が同じことにならないようにって心配して……ええ、よく覚えています」
実際、あの時は大変だった。ただでさえシャルロッテが兄たちと遊ぶことにいい顔をしなかった母だが、この件を境に締めつけはより厳しくなったのだ。
ほとんど偏執的なまでに「女の子らしさ」を強いるそれが、子を思うがゆえの行いだと今なら分かる。しかし当時のシャルロッテは「彼女」のくれた熾火を絶やすまいと、何を言われても心中では決して折れようとはしなかった。
結果、こうやって本心を隠すことばかり達者になってしまった気がする。それも今日で最後にしよう。
「けれどあのお姉さんの気持ちを分かってあげられた人は、どれだけいたのでしょうね」
それは共感できる体験談から導かれた、異質な問題提起だった。
観客たちの間に意図を図りかねたような戸惑いが滲んでゆく。その中でも、シャルロッテは隣にある体温を頼りに笑みを浮かべ続ける。
恐れるな。彼らの動揺は意識の空白地帯、シャルロッテにとってのジャックポット。ここに今から球を打ちこむ。
「私たちは女です。だからこそ婦人鉄剣大隊の人々の思いを理解できるし、そうしなければいけないと信じています。でなければ、彼女たちの信念は異国の奈落の底に沈んだまま。それではあまりに哀しいでしょう」
思い。信念。哀しい――ひたすらに感情に訴えかける言葉選びは、当然ながら戦略的なものだ。
観客の賛意を得るのに有効な手段はいくつかある。アルバートは理性や理論という建前を駆使しながら、巧みに聴衆の感情を煽って熱狂を生みだした。ならばシャルロッテは逆をいこう。
たったひとつの理論を通すため、彼らの心に呼びかける。
「祖国の未来を思う心。そのために自らを捧げる覚悟。方法は不相応だったかもしれないけれど尊い気持ちです。
彼女たちの犠牲を悲しむのと同じように、その想いも受け継ぐべきではないでしょうか。たとえば、今ここで私を守ってくれている彼女たちのように」
不相応という苦い言葉も、今ばかりは砂糖菓子のように唱えよう。婦人鉄剣大隊が何を願っていたか、彼女たちの思いと男の兵士たちのそれにいかほどの違いがあるのか……そんな自問を観客たちの胸に産み落とせるなら安いものだ。
一瞬だけアルバートの方に眼を向ける。礼拝堂のそば、彼は穏やかにこちらを見守っていた。しかし瞳は鉱物めいて無機質で、冷たい光が刺し貫くように瞬く。
恐怖はある。けれど怯えはもう見せない。傍らにはヴィルヘルミナがいるのだから。にっこりと淑やかな妻の笑みをしてみせて、また聴衆に向き直る。
「夫は私たちを守ると言いました。頼もしい言葉ですが、私たちも守られてばかりではいられません。私たちは、女は――」
男は彼女たちを守るために戦うもの。アルバートはそう言った。だが詰めが甘い。女たちがなにをすべきか、彼は一言も口にしていない。
だからシャルロッテが指し示す。彼女たちの心を少しでも解き放つ。アルバートの演説に乗った上での、小さな一歩でしかないけれど。
これは――宣戦布告だ。
「戦える。たとえ戦場ではなくても、大切なものを守るために」
いつの間にか、人々の動揺は消えていた。ただシャルロッテの声に耳を傾け、しんとその響きを受け止めている。
そこに忘我の色はない。当然だ、シャルロッテはアルバートとは違う。支配などしない。あとは彼ら彼女ら自身が自ら考えればいいことだ。
けれどせめて、これだけは伝えたい。
「ですから皆さん、どうか忘れないで。あなた方女性は嘆き悲しむばかりではないことを。その手は無力ではないことを。あなたにも私にも、できるなにかがあることを」
ここにいる人間のどれだけにシャルロッテの真意が伝わるだろうか。分からない。けれど呼びかけずにはいられない。
女としての枷に縛られる誰かがいるなら、それ以外の道を見つけられるように。もうシャルロッテのような女が悲しむことなどないように。
そのための道しるべくらいなら、今のシャルロッテだって作りだせるから。
「それこそが次の悲しみを止めてくれると、私は信じています」
そう締めくくると、静寂が場を覆った。あるいは目元に涙を滲ませて、あるいは困惑そのものを顔に浮かべ、それぞれが違った表情をしている。
しかしどこからか拍手が起こると、一人また一人と手を鳴らす。最終的にはその場のほとんどが拍手を送り、小さな歓声も時折漏れ聞こえてきた。大勢では賛同の方へと傾いているようだ。
(うまくいった……かしら)
内心ほっと息をつく。シャルロッテの真意やこの場の各々がどう考えるかはともかく、世間一般としては今の演説も「女は女として家庭の戦いを」という方向に受け止められるだろう。
態勢が整っていない今、悔しいがまだ表立ってアルバートへの翻意を見せるわけにはいかない。分かる人に分かってもらうのが精一杯だった。
そして、まだ気を休めてもいられない。宣戦布告すべきはもうひとつあるのだ。
「そのためにも私たちは、今ある悲しみに目を向けなければなりません」
言いながら戦略を組み直す。アルバートの発言、今の聴衆の間に漂う空気、シャルロッテの取るべきスタンス。すべてを勘案した上で、張り詰めた糸の上を渡りはじめる。
「夫は言いました。軍国人とポモルスカ人は、互いにあるべきところにあるべきだと。ならば私たち女はなにをするべきでしょう」
第二の目的、ポモルスカ人への擁護。アルバートの演説を踏まえると全面的な庇い立ては難しいが、方向性をほんのすこしずらしことならできるはずだ。
ここまでくればアルバートも行動を起こすかもしれない。あえて彼の方は見ず、自身の演説にだけ集中する。
「この軍国に住まうポモルスカの人々へ、私たちは――」
しかし唐突に浴びせかけられた罵声は、アルバートのものではなかった。
「うるさい売女! もううんざりだ!」
上手側、相対する人波のやや手前寄り。周囲の視線がそちらに集中したからよく分かった。長身の男が、掠れた声で叫んでいる。
「ケストナーもお前も、綺麗事ばかり言いやがって……何が英霊だ、何が祖国の礎だ! ポモルスカを焼いた鬼畜どもが!!」
痩せて枯れかけたような容姿に反し、こちらを睨みつける眼だけは生々しい。肌を刺すような敵意。それには近ごろ覚えがあった。
「ポモルスカ人……?」
「身分確認は徹底したはずじゃないのか?」
「おい、誰かあいつを黙らせろ!」
観客はもちろん警備もざわつきはじめ、衛兵隊の何人かが聴衆の群へ分け入る。男は抵抗していたが捕らえられ、それでもなおアルバートの方へと叫びつづける。
「くそっ、おい見てろよケストナー! ポモルスカ人は絶対にお前らなんぞに屈しない!」
男は暴れ続ける。その勢いに周囲の聴衆が身を引き、さらに数人の衛兵隊がその空白地帯に飛びこんで加勢する。
誰しもが浮き足だっているなか、シャルロッテもただその光景を見守るほかない。だが、傍らの彼女たちは違っていた。
「分隊長、タマラの様子が変です」
壇の下にいるグレーテルが囁きかけてくる。隣にいる隊員は怯えたように肩を抱いて震えていた。がちがちと歯の鳴る音まで聞こえる気がする。
状況から目を離さないまま、ヴィルヘルミナは端的に問いかけた。
「タマラ、どうした。あの男か?」
「……分からない、と言ってますね。ただ、たかが暴漢ひとりにこの怯えようは妙です。先日の襲撃未遂の際の反応と似ているように思いますが」
ぼそぼそと呟かれる言葉をグレーテルが翻訳し、タマラというらしい隊員の背を軽く叩く。垣間見えた横顔は心配なのか面倒なのかよく分からない色をしていた。
ヴィルヘルミナが一歩距離を詰め、そっとシャルロッテの肩を抱く。「全員、何があってもいいよう即応体制を取れ」と指示が下される。ほどなくして男も地面に引き倒され、手荒く拘束されていく。
そしてシャルロッテには見えた。彼の口元に浮かんだ、歪な笑みが。
「これは裁きだ! 逃げられやしないぞ、偽善者ども!!」
眇められた目はまっすぐにこちらへ向けられている。その鋭さに思わず身震いしたとたん、ごぽりと湧き出すようなひとことが届いた。
「うしろ……」
初めて聞く声。見れば周囲の隊員はみなタマラの方を見ていて、ならば彼女のものなのだろう。
いやいやと首を振りながら、うなされた寝言のような言葉が続く。異常に抑揚の乱れたそれは否応なく不安を呼び起こす。
しかし彼女の話を理解した瞬間の戦慄は、そんなものをたやすく上書きした。
「うしろに、います……後ろ、お墓のうしろ、いま、たくさん!」
「――伏せろ!」
ヴィルヘルミナの声。ついでぐっと引き寄せられ、足場を手放す感覚。包みこむヴィルヘルミナの体温とともに、どこかでかつん、と音が鳴って。
白い煙が、視界を覆った。




