3-2偽る睦言の円満夫妻
「アルバートとどう戦うか」。その命題に、シャルロッテは未だ具体的な答えを見出せていなかった。
意志を貫く覚悟はこの間の事件を通して固めた。しかしやみくもに逆らっても柔らかに圧し潰されるだけだろう。
このまま水面下で準備を進めるべきなのは確かだが、どこに向かえばいいのか、肝心なピースが足りていない。そもそもアルバートに打ち勝つということ自体、シャルロッテにとっては未知の領域なのだ。
――不意を突いてアルバートから逃れればいい? 否、それではなんの解決にもならない。捕まらない保障もない。
――アルバートがシャルロッテを手放すよう仕向ければいい? 否、アルバート任せにして成功するはずがない。
――女優に復帰して、独り立ちの下地を固める? 否、下手をすれば女優としてのシャルロッテすら消されかねない。
否、否否否。すべての想像を、アルバートに従属していた二年間が否定する。怯懦や保身といってしまえばそれまでだったが、夫に対する無力感はどうしても拭いがたかった。
それでも諦めることはしない。ヴィルヘルミナとの約束を果たすと決めたのだ。だからシャルロッテはせめて、糸口を掴むチャンスだけは逃さないよう誓っていた。
そして、とある夜。
「大戦記念館の視察? それって、来週の?」
「ああ。僕は主催側だし演説も任されている。変わらず出席する予定だけども……シャル、君はやめておいた方がいい」
頬に大火傷の痕を残す男――アルバートは神妙に頷くと、コートをこちらに預けてきた。使用人は控えているものの、こうした世話は妻にしてほしいのだという。シャルロッテにしてみれば堪ったものではないが。
実業家として、あるいは軍の名誉将校として飛び回っているアルバートにしては早い帰りだったが、どうやらこの話をするためらしい。玄関に立ったまま、コートを腕に畳んで問いかける。
「私の身を案じてくれているの?」
「案じないわけがあるかい? だが、ほかの理由もある。万一その場で君が襲われたら、集まってくれた民間人や報道陣にも危害が及ぶかもしれない」
即答するアルバート。脅迫状が届き、夫婦に警護がついてから数週間が経っていた。最初の誘拐未遂以外は――表向きにはだが――大した騒ぎは起こっていない。だが安堵するには早すぎるし、軽率な動きは敵に機を与えると学んだばかりだ。その意味では、彼の判断は妥当といえた。
「彼らの安全ももちろんだけれど、これで君が糾弾されたらそれこそ僕には耐えられない。君なら欠席しても文句は言われないだろうし、ここで休んでいてくれ」
「そうね……」
曖昧な首肯を返しながら思考を回転させる。
アルバートの言葉は極めて理にかなっていた。シャルロッテが身を晒す機会は少ないに越したことはない。なにより妻はあくまで夫の添え物だ、いなかったところで大した問題ではないだろう。
だがシャルロッテはさらに沈思して――躊躇いを払うよう、小さく首を振った。
「ありがとう、アル。心配してくれて嬉しいわ。でもね、私は出たいの」
「……なぜだい?」
アルバートの笑みがわずかに薄れる。たったそれだけの変化で、シャルロッテは心身が強張っていくのを感じた。
威圧と呼ぶにはあまりに柔らかく、苛立ちと呼ぶにはあまりに優しい問い。しかしシャルロッテはそこに明確な冷徹を嗅ぎ取っていた。裁定者の値踏みの眼差しだ。
その認識を証明するよう、アルバートの指がゆっくりとシャルロッテの前髪を払う。夫婦の距離に緊張の糸が張り詰める。
だが、シャルロッテももう以前とは違う。たおやかな妻の表情を崩さないまま、火傷の残る頬に手を添えた。
「アルの言葉が正しいことは分かっているの。これが最善だってことも。けれど、あの戦いで苦しんだのは男の人だけではないでしょう?」
演じる。他者の痛みに胸締めつけられる聖母を、他者のために何か為さずにはいられない献身的な女を。それが「シャルロッテ・ケストナー」という存在だから。
今まで通りの虚像だ。けれどその役割はまったく違う。これまではアルバートから自我を守り通すため、そして今はアルバートへの叛意を隠し通すため。それがヴィルヘルミナとの未来に繋がるのなら。
「父親や夫や息子が傷ついたり亡くなったりした、多くの女性のために。私も女《、》として、その壇上に立たなければいけないと思うから」
何よりも嫌いな「国民の良妻にして賢母」を、シャルロッテは完璧に演じきる。
「それに、妻を狙われるほど嫌われている夫のことを放っておけるはずがないでしょう。私だけが危ないわけじゃないわ。それなら、せめてアルのそばにいさせて」
「……参ったな、これは」
真摯と茶目っ気をこめて微笑むと、アルバートはふっと相好を崩した。
シャルロッテの長い髪を一房手に取り、自然な仕草で口元に寄せる。半ば礼をするような姿勢だ。その視線には、いつも通りの柔和さが戻っていた。
「かわいい妻にそこまで言わせたんだ、僕も男として覚悟を決めよう。約束するよシャル。何があっても、必ず僕が君を守ると」
「ありがとう。頼りにしてるわ、旦那様」
そう淑やかな笑みを浮かべながらも、シャルロッテの胸は痛いほどの快哉を叫んでいた。
勝った。ほんの小さな一歩だけれど、アルバートを相手に我を通した。それだけでシャルロッテにとっては大きな成果だ。もう黙っているだけの人形にはならないと、アルバートの腕に抱かれながら誓う。
だが勝利の安堵は隙と同義だ。シャルロッテの髪を撫で、アルバートはその間隙を逃さない。
「ところでシャル――特別措置小隊に君の同級生がいると聞いたよ。その人とは話せたかな」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
逸る鼓動を悟られないよう、ゆっくりと身を引いてアルバートを見上げる。そこにあるのは慈しみの笑み。だがこのタイミングでのこの発言、どのような意図があるのかは明らかだった。
牽制、あるいは小手調べ。戦慄すると同時にやはりとも思う。脅迫状が届いたあの日、アルバートはヴィルヘルミナの存在を知っていて特別措置小隊の名前を出したのだ。
だがどこまでの仲かは知らないだろう。最適解は平然と、いや平然として見えるように反応することだ。
「ええ。軍に行ったって聞いていたからまさかと思っていたんだけど、本当に会えるなんて。偶然ってすごいのね」
「そうだね。偶然というものは面白い。だがそういうものが、案外大きな鍵を握っていたりするものだよ」
シャルロッテの答えに納得したのかそうでもないのか、アルバートはあっさりと引いた。相変わらず腹の中が読めなくて薄気味悪い。だが深追いされずに命拾いしたのはシャルロッテの方だから、にっこりと全肯定するほかないのだ。
ようやく玄関から歩みを進め、アルバートの背がおどけたようにくすくす微笑む。
「さて、食事にしようかシャル。そうと決まれば体調管理にも気をつけなければね。しばらく断酒かな、これは」




