2-28間者たちの内緒話②
ヴィルヘルミナたちと別れた彼女は、足取りを軽くさせて人混みのなかを渡る。
努めて背後は気にしない。第四分隊の存在が意識の端を引っぱるが、だからこそ前を向きつづけるだけだ。時おりショーウィンドウに目を移ろわせ、飲食店から漂う匂いを深く吸いこみ、ごく普通の街歩きを満喫しながら路地に入る。
薄く陰の落ちるそこは誰もを受け入れるようにぽっかりと口を開け、しかし不思議と人っ子ひとり見当たらない。両脇の建物の裏口しかないものだから皆気にかけないのだ。
壁際にもたれかかって持ち歩き用の鏡を開く。あまり垢抜けない、それゆえに心のガードが緩む顔立ち。いつ見ても上出来だ。
(この姿、結構気に入ってるのになあ……)
はああ、と深いため息が漏れてしまう。覚悟はしていたが、これからはどんどん立ち回りが難しくなりそうだ。
そう物思いにふけっていたからか、密やかに近づく影にテレーゼと名乗った女――ライサは気がつかなかった。
「どうしたの」
唐突に耳に入ってきたのは、彼女たちの母国のことばだった。
「うわっ!? あいっ、いづづづ……」
驚きのあまり後ずさろうとして、背もたれにしていた壁に頭をぶつける。後頭部を押さえて悶絶しているライサを、目前の女は表情らしい表情を浮かべることなく見つめていた。
目立たない佇まいの女だ。目深にかぶった帽子からは意思の薄い灰色の瞳がのぞき、色彩に乏しい衣服は影のように印象に残らない。
だが顔立ち自体は整っているからずるいといつも思う。こんなの――元から塩顔の自分と違って――目につかないようにする方が大変なのに。そんな不満を覚えつつ、ライサはようやく呻きではない言葉を発することができた。
「びっくりしたあ。急にいるんだもん。声くらいかけてよ」
「かけたよ」
と抑揚のなく言われるのだが、それはつまりさっき目の前でやられたあれじゃないのか。ライサとしてはその前段階がほしかったのだが。
(相変わらずなんだからなあ、この子は)
この国に来て早々だというのに、まるでいつもの通りのペースだ。もっとも、彼女が調子を崩すところなど想像もつかないのだが……
「ま、それはそれとして。どうだった? 大丈夫っぽい?」
「大丈夫。誰も尾けてきてないし、こっちを気にする素振りもなかった。ばれてないと思うよ」
第四分隊との接触を陰から見守っていた彼女のその言葉で、ようやくライサは胸を撫でおろすことができた。
「よかったー……じゃあやっぱ、こないだのは偶然かあ。
正直、あの段階からマークされてたとすれば怖すぎるからね。ほんと嫌な汗かいちゃった。とりあえず、これから外歩く時は用心しないと」
日曜日のヴィルヘルミナとの出会いのことを思い出す。あのときはショックでそれどころじゃなかったが、まさか軍の人間だとは思わなかった。そもそもこんな国に女の軍人がいること自体知らなかったし。身をひそめてケストナー邸の暴動を観察していたときに知って相当焦ったのだ。
そう思うと、ヴィルヘルミナが女で本当によかった。傷が浅いうちに済んだというものだ。「敵」とのラブロマンスも、まあ、悪いものじゃないと思うけれど。
「こうなると、こっちの人たちの希望を呑んであげたのも存外無駄じゃなかったか。私たちとしては損害なしで向こうの戦力を観察できたわけだし……
あ、これ向こうの人に言っちゃだめだかんね。あくまでも今回は困らされたんですよ~貸しひとつですからね~って体でいかないと」
「言わないよ」
その真面目一徹な答えについ笑いが漏れてしまう。ぼんやりとライサに視線を移した彼女へ首をふって、肩を軽く叩いた。
「いやあ、あんたがいると本当心強いなあ。頼りになる用心棒さん」
これなら次に酔漢に襲われた時も――いや、どんな相手だって彼女に勝てはしない。
同じ任務を下された同僚であり、ライサの信じる仲間であり。そしてライサの知る誰よりも、凄絶なまでに強く気高い彼女には……
「さ、行こっか。今日も今日とで大忙しだもんね」
喋りを軍国語に戻し、ふたたび大通りに足を向ける。今夜も仕事相手との打ち合わせはあるのだ。
この段になってしまうと話すべきことは山ほどある。ただの状況確認では済みそうにないが、ライサにとってみれば心配ごとなどただひとつだ。
「今日は厄日じゃないといいなあ……」
そうぽつりとこぼしたライサに、傍らの彼女は意図を図りかねたのかそうでもないのか、色の薄い瞳をいくつか瞬かせただけだった。




