2-19伍長グレーテルの奮闘②
屋敷の方から聞こえた足音――衛兵隊。その予感に思考が真っ白に染まる。間に合わなかった。悔しさと虚脱が全身を満たして、危うく崩れ落ちそうになる。
しかし次に耳に入った声は妙に聞きなれた響きの、そして衛兵隊には存在しない、涼やかな女のものだった。
「あーあ、差し入れで天から酒でも降ってきたんかと思ったら、やっすい油じゃないすか。紛らわしいなあ、こういうことやめてくんないかな。真面目にガッカリなんすけど」
振り返る。屋敷の門から扉までの間、石畳の敷きつめられた道にポニーテールが踊る。手には無傷の酒瓶が握られており、その口に寄せられた面長の顔は、いかにも裏切られたというような渋面だった。
火炎瓶が地面に落ちる前にキャッチしたのか――その事実へ呆然とするグレーテルもよそに、イルムガルトが能天気な声をあげて背後へ手を振る。
「あ~、マルガさん! ちょりっす!」
「イルち、ちょりーす。副分隊長もどーも。ずいぶん楽しそうっすね」
「こんの……」
今の惨状のどこが楽しそうに見えるんだ、という呪言じみた反論は口から出ていく前に消えた。門とそれを押さえる衛兵隊、障害物の向こうにあるはずのマルガの眼が、いやに意識へ焼きつく。
あの眼光、第四分隊ならば誰でも知っている。濡れたような、それでいて焼けるような、普段は見ることのない艶めいた瞳。赤い舌が唇を舐め、にいと三日月じみて歪んだ。
「いいなあ。あたしもさ、混ぜてくださいよ」
そう猛禽の笑みを浮かべると、マルガは手元の酒瓶を頭上に掲げる。そして口を逆さにすると、中の液体をその下に――つまり自分自身の頭に――景気よく浴びせかけた。
濃い異臭が鼻をつく。グレーテルは言葉を失い、イルムガルトは手を叩いてはしゃいでいる。最前線の暴徒たちもざわめき、正気を疑う視線を向けていた。
当のマルガはまるで水浴びでもしたかのように平然としながらも、その目つきは牙をむいて笑ったままだ。濡れて張りついた前髪をかきあげつつ、ベルトに吊り下げたホルスターを取り外して懐に収める。
そして外したベルトで手首を縛ってぶんぶん振り回し、浅く腰を落とすと、門に向かって駆けだした。
門までは十メートルもなく、しかし速度に抑えはみられない。このままでは門にぶつかる。そうグレーテルが目を逸らしかけたあたりで、マルガの悪戯っぽい囁きが耳に入った。
「ちょいと、勘弁」
グレーテルの目の前、中腰で門を押さえていた衛兵隊員が思い切り背を踏みつけられて沈む。そして跳ね上がった体躯がふいに腕を投じたかと思うと、ベルトが柵の最上段の意匠に巻きついた。
バックルの重さと勢いを利用した戦法。手首にきつく食いこむ革にも、マルガは顔色ひとつ変えはしない。ベルトとわずかな足がかりであっさりと柵をよじ登り――3メートルはあろうかという高みを舞い降りた。
暴徒たちが反射的に身を引く。その真空地帯にマルガが降り立つ。立ち上がった彼女は燃料を滴らせながら周囲を一瞥し、寛容にして下劣な暴君のよう、中指を立てて嘲笑した。
「オイオイどーしたよ。さっきまであんなイキのいい声で鳴いてたじゃんか。また聞かせてみろよ、なア?」
ベルトを地面に落として胸のタイも緩める彼女に、いつもの陽気さや軽率さは感じられない。部下としての口調も消え失せ、場末のゴロツキもかくやという言葉遣いに変じている。
スイッチが入った……そう判断したグレーテルは一歩引きかけて、しかしマルガが前へ踏み出すほうが先だった。あっけにとられた暴徒たちが左右に分かれ、自然と彼女のための道を作る。
しかし、いつまでも気圧されているばかりの群衆ならば、グレーテルたちもここまで苦労はしていないのだ。
「な、ナメてんじゃねえぞ、女ァ!」
マルガへ道を譲らなかった男が鉄パイプを振りかぶる。鉄パイプはまっすぐマルガの脳天に狙いを定め、一瞬ののち、肉を打つ音が響いた。
「ナメんのはテメーだよ、あたしのケツをよ」
笑うマルガ。額の前の片手は鉄パイプの先を受け止め、もう片手は男が握る至近に添えられていた。
油で光る手のひらがパイプを撫でる。マルガに握られた鉄パイプの先がぐっと引かれ、男のバランスが崩れる。そしてマルガが腰を落として鉄パイプを突き出すと――油まみれのパイプはいともたやすく男の手を滑り、その腹に深くめりこんだ。
「うっ、げえ……っ!」
腹を押さえて倒れこみ、悶絶する男。鉄パイプを手放したマルガはつまらなげに頭を掻き、アドバイスでもしてやるかのように語りかける。
「ンだよ、もっと腹筋鍛えろよな。そんなんじゃ将来絶対腹が垂れるぞ。ピストン運動じゃなくて自慰ばっかしてっからそんなんになるんじゃねえの、最近ちゃんと女抱いてるか?」
聞くに堪えない猥談のオンパレード。こういう状況でなければ未成年のイルムガルトの耳は塞いでいた。どういう生活をすればこんな語彙になるのか、裕福とはいえない家で育ったグレーテルでさえ見当がつかない。
暴徒たちもいくらか警戒を強めつつ、しかし退く気はないらしい。あちこちで己を鼓舞するような声があがっていく。
「ひ、怯むなお前ら! 女一人だぞ!? 全員でかかればすぐやれる!」
「そうだ、それにここで止めても捕まるだけだぞ! やるなら最後までだ、このままじゃ何も変わらねえ!」
「ポモルスカ人の誇りを軍国の雌犬に見せつけろ!」
オォ、と鬨の声があがる。とはいえ、先より勢いが衰えているのは明らかだった。やたらと強い女が、理解不能な振る舞いと言動で突如この場に現れる……士気と団結に穴をあけるインパクトとしては十分らしい。
一方のマルガもそれを一身に受けるつもりのようだ。指で自分のほうに引き寄せるしぐさをしながら、不敵に唇を吊り上げている。
「軍国の雌犬? いいねえ、そんじゃテメーらはポモルスカの雄犬な。シリウス以下のイチモツでせいぜい腰振って見せてみろや、短小ワンコロどもよォ!」
その挑発を合図にしたかのように、マルガへ多くの暴徒が殺到する。それに萎縮するどころかむしろ狂喜して跳ねまわるマルガは、多対一の圧倒的不利を見事に数人対一の状況に落としこんで立ち回っている。多人数との戦闘に慣れた動きだ。
残った幾人かは門前のグレーテルとイルムガルトで迎撃する。その最中、乱戦でもなお乱れた様子のない声が届いた。
「あ、忘れるとこだった。副分隊長、ぶんたいちょから指令ー! 対多人数防衛戦、作戦D展開! とりあえずやれるとこまでやれって仰せだったぞ、っと!」
「は!? あんた、もしかしてそれ伝えるためにこっち来たの!? 何やってんのよ野蛮人!」
「あっはっはっは、まあ結果オーライじゃん?」
「これでオーライですまかったら本当殺すわよ!」
マルガの存在に助けられたのは確かなのだが、暴れるより先に言えという感想以外何も浮かばない。そんな当然の怒りもよそに、マルガは暴徒の顎を突き上げながら笑う。
「まあ、あたしも一応手伝うんでー、っと! こっち側は任せてくださいよって、オラァ死ね!!」
別の暴徒の顔面を思い切り殴りつける。本当に殺しかねない勢いだが、マルガもそのあたりの加減はしているだろう。多分。きっと。
そう信じておくことにして、グレーテルはグレーテルの成すべきことに目を向けた。
「了解、好き勝手やってる分馬車馬みたいに働きなさい! イルムガルト、あんたは私の指示に従って動いて。マルガのアホにつられたらぶん殴るわよ!」




