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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Chain

作者: あざみの

 学校帰りに、(しずか)は友人のえりなとカフェに寄った。二人はそろそろ二十時になろうというのにカフェオレ一杯で粘っている。


「でもさ、結局のところ、赤い糸とかありえなくない?」


 これは高校生活三年のうちに七人と付き合ったえりなの意見である。彼女は薄いピンクのマニキュアを塗った爪をいじっている。


「ありえるかどうかはともかく、糸ってのは頼りないよねー。付け爪でぷちん、じゃん?」


 笑って答えて、靜はカップを呷った。中身はすでに冷えている。


「そーだよね。どうせなら鎖ぐらいだったらいいのに。目立つし、間違いとか起こらなさそーだよねー。頑丈だし。糸じゃ細いから見えないよー」


 そういうえりなは今、付き合っている彼と関係が冷え始めている。靜は苦笑して、壁に掛かっている時計を見上げた。


「そろそろ帰ろうか」


 店を出て、えりなと分かれて歩き出す。制服のスカートから露出した太腿が、冬の夜風にさらされて寒い。コートのポケットから手袋を取り出すとき、ふと手首に目がいった。


「鎖ねえ……」


 残念なことに、高校生活で縁がなかった靜には、それだけ太くても見えそうになかった。

 それに。


 コートのポケットでちゃらちゃらと音をたてる家の鍵の存在。

 帰れば、ひんやりした空気だけが待っている無人の我が家。


「……血が繋がっていたって、ナイロンの糸並みの関係だってあるもんね……」


 今晩も母は帰ってこないだろう。父は数年前から別居状態なので、いることはまずない。

 手袋に覆われていない手首が、冬の夜風につんとした冷たさを感じていた。


× × × × ×


 頭が痛い。胃がムカムカする。右頬を下にしてうつぶせに倒れこんでいることを理解するまで、少し時間を要す。そして、靜は、左目を何とか開けた。


「え? ……なにここ。どこ?」


 床に転がっていた。右頬を預けた冷たい床材は木。埃が積もっている。

 起き上がろうとして、後頭部の痛みが刺すように鋭くなり、靜は顔をしかめた。


「……起きたか。ああ、急に動かない方がいい。怪我をしているんだ」


 降ってきた、聞き覚えのない声にぎょっとした。右手側に人の気配があった。首の角度のせいで見えない。

 何があったんだっけ。何があった? 自問自答して思い出す。

 駅のそばの道の角を曲がった瞬間、頭に衝撃が走って――。そこから記憶がない。


 鬱勃たる恐怖から、彼女は痛みも吐き気も無視して、強引に上半身を起こした。

 金属音がした。それは右手から聞こえた。両手を床についた格好で、靜は隣にいる誰かがいることも忘れ、硬直した。


 手錠だ。手錠がかけられている。短い鎖は右の方向へ伸びている。恐る恐る、視線を右へ動かした。頭痛がひどい。吐きそうだ。


「動くなといったはずだ。頭から出血している。血が止まるまで我慢しろ」


 男がいた。目元まで覆う黒い蓬髪。人相は分からないが、声は若い。薄汚れたシャツとパンツを身につけ、よれたジャケットを着込んでいる。上にはダークグレーの薄めのコートを羽織っている。背は高く痩せている。


 鎖は男の左手に繋がっていた。男は靜の横に座り背を壁に預けている。その横には窓があり、外の様子が見えた。

 外は木々が立ち並んでいた。季節が季節なので葉は殆ど残っていないが、森のようだ。

 一体何時なのかわからない。日は出ているようだが木の枝葉に遮られて、しかも霧がひどかった。


「あんた誰? 私、一体……」


 喉の渇きに咳が出た。たしか鞄の中に飲みかけの水のペットボトルがあったはずと、目だけで鞄を探すが見当たらない。


 六畳程の何も無い粗末な小屋に放り込まれているだということが分かっただけ。

 咳がとめどなくこぼれる。怪我をしているといわれた頭がずきずきと痛み、涙が浮いた。

 突然、背を摩られ、靜は身を硬くした。


 何しろ、この小屋には自分とこの男しかいないのだ。手錠に森に見知らぬ男、紛失した荷物と、恐怖の原因には事欠かない。

 しかし優しく背を摩ってくれる手に害意はなく、静はやがてゆるゆると背の力を抜いた。

 咳が収まると、息が楽になった。見計らったように男が問う。


「君、名前は?」

「……川瀬(かわせ)(しずか)

「俺は、嘉門(かもん)博明(ひろあき)だ」


 ぼさぼさの髪を片手で器用に整えた嘉門が、顔を上げた。その顔貌が思いのほか整っていて、靜は驚いた。二十代後半だろう。目元が涼しげで、日に照らされた双眸は、琥珀色にも見えた。こうしてみると、スーツ姿だということもあって、若手のサラリーマンのようにも見える。


「私、どうしてこんなところにいるの? ここはどこ?」


 問うと、嘉門は少し難しい顔をした。


「それについては、君は運が悪かった。いや、謝らないといけないな、俺が。君は俺の事件に巻き込まれたんだ」


 事件に巻き込まれる。それがどういうことか、一瞬理解できず、靜は怪訝な顔をした。


「犯人は強力な後ろ盾を持っていた。暴力的な解決を得意とする組織のね」

「それって、やのつく……?」

「似たようなところだ」

「ちょっと待って。私が馬鹿だからかもしれないけど、まったく理解できない! だって、私、友達とお茶して帰る途中で、それで……」

「そうだ。きっと途中で奴らに襲われたんだな。頭の怪我はそのせいだろう。俺も気づいたら、君と手錠でつながれていた」

「何よそれ、最悪!」


 悲鳴に近い声で悪態をついて、靜は床を睨んだ。いまだに自分が置かれた立場が理解できない――いや、納得いかない。


「巻き込まれた事件ってなんなの?」

「殺人」


 事も無げに告げられた言葉に、ぞっとして、靜は腕を抱く。


「俺は別の事件を追っていて、偶然その現場に立ち合わせた。連中にとってそれはどうしても避けなけりゃならん事態だったわけだ」

「事件とか……。あんた何者?」

「刑事だ」


 靜はぽかんと、隣の端正な顔立ちの青年を見上げた。刑事。初めて見る人種である。

 嘉門は、徐に靜の頭に手を伸ばして、頭頂部より少し右耳寄りの部分に触れた。鋭い痛みが走り、靜は顔をしかめた。きっとそこが傷口なのだ。

 嘉門の指に、血はついてない。血は止まったようだ。


「だから俺たちのことは始末しなければいけなかったんだろう」


 嘉門はさらに説明を続けた。連絡をとろうにも、携帯電話を奪われていること。また、財布や身分証も同様だと言うこと。


「結論としては、俺達から警察に連絡をとって保護してもらうか、あるいは俺達が行方不明だとあっちに気付いてもらって捜索してもらうかしなけりゃならないってことだ」

「冗談じゃないわよ、私、死にたくない! 明後日から卒業旅行だったのに! 友達と買い物もしてすごく楽しみにしていたのに! 三流大だけど、大学だって受かったし! これからいっぱいやりたいことが――」


 思わず靜は声を荒げた。恐怖と苛立ちとが彼女の心をずたずたにしていた。口を動かすたび、頭痛がするがそれどころではない。

 すかさず嘉門が口の前に人差し指をたてる。


「卒業旅行だったのは、逆にラッキーだ。君が来ないことを、大勢の人間がいぶかしむ。両親にも連絡が行くだろう。そうなれば君の身に異変が起こったことを察して、警察が動いてくれる。助かる可能性はかなり高くなる」


 あくまでも平静な態度で、嘉門は言った。その言葉に、宥められて、靜はなんとか自分を落ち着けようとする。


「だがここでじっとしているのも危険だ。できればここから離れたい。ただ君は怪我をしているし、ここがどこなのかまったく分からないから慎重にいかないとならないな」

「……ここがどこか全くわからないの?」

「ああ、ちっともだ」

「下手に外に出たら遭難しない?」

「ここで餓死するか、違うお迎えが来るのを待つのがいいのか」

「……どっちもやだ」


 不機嫌に答えた静に、嘉門は肩をすくめた。


「俺も同じだ。……協力してもらえるな」


 頷く以外に、選択肢はなかった。


× × × × ×


 小屋の唯一の出入り口の木製のドアは、施錠されているのか外から打ち付けられているのか、ドアノブを回しても開かなかった。

 生憎、窓は鉄格子付きで、格子の隙間は人が通れるほどの広さが無い。そうなるとドアをぶち破るしかない。


「これが邪魔だな」


 じゃらりと音をたてて、嘉門が手錠を引っ張った。靜の腕もつられて引き上げられる。

 こう手首を繋がれていては、思うように動けない。


「息を合わせて体当たりするしかないんじゃない」

「大丈夫か、その怪我で」

「……どんな怪我か見えないから逆に大丈夫な気がする。見ちゃったら卒倒するかも」

「まあ、たしかに」


 顎に手をあて目を細めた嘉門の言葉で、靜はざっと青ざめた。


「ねえそんなにひどい怪我してるの私!」

「いいや。ちょっと出血しているが、全治一週間くらいなんじゃないか? 若いし」

「若けりゃいいってもんじゃないよ!」


 靜の様子に、嘉門はくつくつ笑った。


「その様子なら大丈夫だろう。さあ、手伝ってくれ」


 釈然としないまま、靜は嘉門と並んでドアに向かう。


「せーの!」


 声を合わせて、思いっきりドアに肩からぶつかった。木製のドアはみしみしと軋むが、まだ破れない。


「もう一度! せーの!」


 ばりばりっと激しい音がして、今度こそドアが破れた。

 だが、思い切り体重をかけてドアに体当たりした靜は、ドアごと外へ飛び出してしまう。


「ひゃあ!」


 情けない悲鳴を上げて地面に突っ伏しそうになった静だったが、腕を強い力で引っ張られてなんとか体勢を立て直せた。


「大丈夫か」


 間近で嘉門の声が聞こえて、驚いて顔を上げる。嘉門が靜の二の腕をがっしり掴んでいた。嘉門と目があって、靜は頬が熱くなるのを感じた。


「だ、大丈夫!」


 彼の手を振り払って、靜はそっぽを向く。

 あまり人に触れられるのは慣れていなかった。親とも、手を繋いで歩いた記憶すらない。

 だからか二の腕に生々しく掴まれた感触が残っている。大きな手だった。大人の男の人は皆、こんなに大きな手なのだろうか。


「おい、今、音がしなかったか?」

「ああ、聞こえた。確認するぞ」


 ふいに、遠くから声が聞こえてきた。

 がさがさと落ち葉を踏み分ける足音が近づいてくる。

 嘉門が舌打ちして、手錠で繋がる靜の手首を掴んだ。


「見張りがいたようだな」

「ど、どうするの?」

「もちろん、逃げる! 走れ!」


 言うが早いか、彼は走り出した。静も引っ張られて走り出す。

 地面には落ち葉が厚く積もっており、足音が消せない。一歩踏み出すごとにがさがさと音を立ててしまう。


「おい、いないぞ!」

「捜せ! 近くにいるはずだ!」


 背後から追い立てるように怒鳴り声がした。

 靜の背筋に冷たい汗が浮いた。

 捕まってしまったら、きっと命は無い。

 しかも、現在地も分からず、手も拘束されている自分たちは圧倒的に不利だ。

 恐怖に息が荒くなり、脚がもつれる。


「あ!」


 踏みつけた枯葉で滑って、靜は前のめりになった。

 転んでしまう。

 とっさに手をつこうとした。けれど、右手を強引に引っ張られて、できなかった。

 手錠に擦れて手首が痛む。


 襟首をがっと掴まれて、その場に引き倒された。上から重たいものがのしかかってくる。

 それが嘉門の体だと気付いて、靜は別の意味で悲鳴をあげそうになった。

 大きな手が彼女の口を塞ぐ。


「静かにしろ。落ち着け、大丈夫だ」


 耳元で聞こえた声は、運動の後で息こそ荒かったが落ち着いていた。

 どうやら、嘉門は、大きな樹と倒木が重なったかげの部分に飛び込んだらしい。

 草や木の枝が、隠れ家を隠すためのカーテンのように伸びている。

 背後からやってきた荒々しい足音が、近くを通っていく。時々怒鳴り声が聞こえる。

 早鐘のように鳴っている心臓。もう少しで爆発しそうだ。靜はぎゅっと目を瞑る。

 嘉門の体から、かすかに煙草の香りがする。

 それが、少しだけ靜を落ち着けてくれた。


 どれだけ時間がたっただろうか。

 いつ、追っ手が自分の襟首を掴みあげるだろうと頑なに目を瞑っていた靜だが、ようやく目を開く気になった。


 鳥の羽ばたく音が聞こえる。

 もう、危険はないように思えた。

 靜の心を読んだようなタイミングで、嘉門が体を起こした。

 知らずのうちに温められていたらしい。彼と体を離すと、急に寒気が襲ってきた。

 今更、靜は自分の格好を確認する。

 制服のブレザーにスカート。紺色のハイソックス。革靴は右だけ。左はさっき走っているうちに落としてしまったのだろう。それも曖昧なほど、必死に逃げた。身につけているものはどれも土と枯葉で汚れている。

 膝小僧を擦りむいた以外に、大した怪我はしなかったようだ。頭の怪我だけが気がかりだが、今は頭痛もしないから大丈夫だろう。


「行ったようだ」

「助かった……」

「いや、そうでもないぞ」


 辺りを見回していた嘉門は、厳しい視線を空へ向けている。枯れ枝が絡み合う向こうから、赤い光が差し込んできている。


「日が暮れる。……最悪だが、野宿だ」

「の、野宿? 私、野宿なんかしたことない! キャンプだってしたことないよ!」

「俺だって、キャンプはあっても本当の意味での野宿はしたことないぞ。だけど、暗くなってから闇雲に動き回るのは危険だ。幸いここなら休める。今晩はここにいて、早朝から動こう」


 彼はもうそう決めてしまったようだ。どっかり地面に腰を下ろすと、胡坐をかく。

 靜はこんな場所で一夜を明かすのはごめんだった。場所も場所だが、いつまた追っ手が来るかと思うと、とても休んではいられない。


「だって、こんなところでまともに眠れないよ! 寒いし、虫とか……!」

「我慢するしかないだろう」


 言い切られ、手錠を引っ張られれば、もうなすすべはなかった。ここで大騒ぎして追っ手に気付かれるわけにはいかない。かといって嘉門を担いでここを動くなんてこともできはしない。

 たっぷり数分、こちらに視線すらむけない嘉門を睨みつけた後、靜は鼻息荒くそっぽをむいたのだった。


 日が沈み、急激に気温が下がってきた。

 暖をとるものもなく、追っ手に見つかってしまうため火を焚くわけにもいかないので、靜は小刻みに体を震わせて寒気に耐えていた。


「ほら、これ。裏返しになるけど」


 見かねて、嘉門が自分のコートを貸してくれる。手錠のせいで、右腕から脱いだコートは、嘉門の左腕を始点に裏返しになって靜の肩にかかる。煙草の香りのする上着だった。


「い、いらない」


 なんだか気恥ずかしくて、突き返そうとしたが嘉門はそれを許さなかった。

 かわりに広い肩を寄せてくる。


「死なれちゃ困るからな。かわりと言ってはなんだが、暖をとらせてもらうぞ」


 強引だった。だが、肩口に感じた人の体温に安心したのも事実で、靜は口をつぐむ。


「君を見ていると……」


 嘉門が、星空をじっと見上げて呟いた。


「妹を思い出す。まあ、妹ならもうとっくに泣き出しているけれどな。君は気丈だ」


 にっと笑った顔が間近にある。靜はそれを半眼になって睨み返す。


「意地っ張りなの私。どーせ可愛くないもん」

「可愛くはないが、頼りにはなるな」

「……だって、誰も頼れないもん」


 整った眉を顰めて、嘉門が話の先を促してきた。身の上話なんて、つまらないものだけれど、この長い夜の時間つぶしにはいいかもしれない。靜は膝の上で指を組みかえ組みかえしながら、続けた。


「よくある話。両親が、……仲悪くって。いつ離婚するかわからないの。でも、まあ、その状態でもう八年だから、もしかすると私が成人するまでそのままのつもりかも。私は、お母さんと暮らしているけれど、お母さんもお父さんも大差ないよ、どっちも会えないもの。もしかすると、二人とも、私が進学する大学の名前も知らないかも。今だって、私がいないこと、気づいてないかもしれないしね」


 笑い声は空しく風に溶けていった。

 つまらない話だとわかっている。だが何故か涙がでそうになって、靜は夜空を見上げた。

 夜空が、急に真っ暗になった。

 目元を手で覆われたからだ。

 頭の上から、嘉門の低く優しい声がする。


「ご両親も人だから、関係がこじれることだってあるだろう。君がそれに傷つくのは哀しいことだけど、だからといって誰が悪いわけじゃない。ご両親にはご両親の人生があるし、君には君の人生がある」

「嘉門さん、達観してるねぇ」


 どう返したらいいかわからず靜は茶化した。


「君も、遠慮しないで誰かに甘えたり頼ったりすればいいんだ。そればっかりじゃいけないけれど、皆、少しくらいはそうしている。それに、見てないようで見ていることもあるよ、親ってのは」


 目元を覆っていた手が額に移動して、靜の前髪を払った。滲んだ夜空と、嘉門の笑顔が見えて、靜は目を瞬かせる。

 えりなに話したときは、困った顔をされてしまった。当然だ。彼女だって自分と同じ歳で、そんな他人の家庭の問題なんて話されても、対応に困るだけだろう。

 けれど、嘉門は違った。


 もしかすると、自分はこうして誰かに許容して欲しかったのかもしれない。靜は目を閉じ、そう思った。涙が眦から零れた。

 しんみりしたのは苦手なので、涙をぬぐうと無理矢理笑って、手錠の嵌った右腕を引っ張った。嘉門の左手が一緒に持ち上がる。


「じゃあ私のこと守ってよ! 嘉門さん、私の運命の人かもしれないし」

「運命の人?」

「ちょっと、……鼻で笑わないでよ。友達と話していたの。赤い糸なんて細くて紛らわしいから、もっとぶっといのがいいって。鎖くらいあってもいいんじゃないって」

「手錠ってのは、束縛が厳しいだろ。それに、俺は淫行で免職されたくないぞ」


 くつくつ笑う嘉門につられて静も笑う。


「だったらあと二年待ってよ。ま、嘉門さんが彼女いなければの話だけど。……まさか、もう結婚しているとか」


 冗談めかして聞いたが、嘉門が「まさか」と肩をすくめると、靜は無性にほっとした。


「守るよ」

「え?」

「君はちゃんと守る。君は家に帰るんだ」


 不意打ちだった。

 靜はぽかんと口を開けて、真剣な嘉門の表情を見つめていた。瞬き三回。思い出したように、耳がかあっと熱くなる。


「ふ、二人で帰ろうね」


 目を逸らし、そう答えるので精一杯だった。


× × × × ×


 一夜明けて。

 この体調の悪さをなんと説明すればいいのか。靜はまるで他人の体のように、まともに動かない自分の脚を引きずっていた。


「大丈夫か? おんぶしてあげようか」

「それはいや。絶対重いもん」


 全力で拒否したはいいものの、嘉門に手を引かれてののろのろ歩きですら苦痛だった。

 足が痛い。腕が痛い。頭が痛い。吐き気がして、腹が鈍痛を訴えている。目までかすんできたのはどういうことだろう。

 それでも歩けるのは、歩こうと思えるのは、嘉門が手を引いてくれるからだった。


「道路にでも出れば、助かる。今日中に、とにかく誰かに接触しないと……」

「うん……」


 靜も自分で分かっていた。

 きっと、今晩、この寒空の下で過したら、自分は助からない。明日立ち上がる気力も体力もないだろう。この体調の悪さもそうだが、長時間飲まず食わずでいるのもこたえる。

 すでに日は高く昇っている。寒さは少しだけ和らいだが、気休めに過ぎない。

 嘉門に借りたコートの前をかきあわせて、荒い息をつきながら彼の横顔を見上げると、助かることを確信したような、動揺なんて微塵もみられない表情をしている。それに励まされて、靜は一歩一歩進んでいった。


× × × × ×


 その音が聞こえたのは、一休みしたすぐ後だった。気付いたのは、靜だ。


「車の音がする……!」


 傾斜した草むらを歩いていた二人は、木々の間から顔をのぞかせた。

 細いが、舗装された道路が走っていた。斜面を下っていった先だ。


「嘉門さん、私達、助かるよ!」

「ああ」


 嘉門の大きな手が、靜の頭をなでる。


「よし、もうひとがんばりだ」

「うん」


 靜は、よろめきながら嘉門に助けられて立ち上がった。

 そのときだった。

 がさっと、落ち葉を踏む音が聞こえた。

 振り返った先に、人影があった。

 ――追っ手だ。

 反射的に身をすくませた彼女は、自分の足元の腐った木の枝が、ばきりと折れる嫌な音を聞いた。


「あっ」


 空をかいた手を、嘉門が捕まえようとする。

 しかし、上手くいかず、二人は手錠の鎖でつながったまま、絡み合うようにして斜面を転がった。

 上に下に、横に。ぐるぐると視点が変わり、体中に激痛が走る。悲鳴を上げる暇も無い。

 最後に強烈な一撃が全身を貫いて、靜はそのまま気を失った。


 目を開くと、すぐそばに嘉門の顔があった。ただし、彼は目を瞑っていた。

 どれほど転がってきたのか。さっきまでいたはずの斜面は、ずっと上まで続いている。

 はっとして確認すると、眼前に黒いアスファルトの道があった。

 泥だらけ、傷だらけの体を叱咤して、靜は嘉門の肩を揺すった。


「嘉門さん! 嘉門さん! 道路だよ!」


 嘉門がうっすらと目を開き、そして顔を顰めた。額に、じっとり汗が浮く。


「嘉門さん?」


 嫌な予感がした。

 靜は、そっと嘉門のジャケットをめくった。

 悲鳴を飲み込んだ。

 嘉門のシャツは、横腹部分にじわりと血が染みている。どんどんその範囲は広くなっているようだった。

 靜は、再び意識を飛ばしそうになるのを必死にこらえた。


「嘉門さん、む、無理に動かないで」

「……大丈夫だ」

「駄目!」


 靜の静止を無視して、嘉門は身を起こした。その顔が苦悶の表情に歪んだ。嘉門はジャケットの内ポケットからハンカチを取り出すと、脇腹に当てた。


「行こう」

「でも……!」

「もう、すぐそこだろ」


 気遣うような笑みに、靜は泣きたくなった。今、気遣われるべきは彼のほうだ。自分を庇って、彼は……。


 とにかく、早く車に遭遇しなくてはいけない。自分の体調もそうだが、嘉門の制限時間はもっと短い。

 涙が出そうになるのを、歯を食いしばって堪えて、靜は嘉門を支えた。手錠が邪魔で肩を貸せないのが悔しい。

 道路には程なく着いた。道端に、嘉門を座らせ自分は立って、車が通り掛るのを待つ。

 しかし、なかなか車は来なかった。待つのがこんなに苦痛だった日はない。じわじわと白くなっていく嘉門の顔色に、靜は歯噛みした。


「嘉門さん、きっともうすぐだからね。もうすぐ車が来て、携帯借りたら警察が」

「靜ちゃん」

「な、何……?」


 初めて名前を呼ばれた。

 こんなときにもくだらないことで心臓が高鳴る。そんな自分を罵って、靜は嘉門の前にしゃがみこんだ。嘉門が伸ばしてくる右手を両手で包み込む。冷え切った手には、血がついていた。


「大丈夫だ、もうすぐ、君は助かる」

「君は、って何よ! 嘉門さんだって!」

「……うん」


 嘉門は左手でくしゃりと靜の頭をなでると、弱い息を吐いて目を瞑った。それっきり何も言わない。

 沈黙を破ったのは、遠くから聞こえてきたエンジン音だった。

 靜は、力が抜けた嘉門の右手を放して、全力で両手を振った。


「お願い! 止まって!」


 かなりのスピードを出す車の前に飛び出した。車のタイヤがすさまじい悲鳴を上げ、靜のぎりぎり手前で止まる。


「あ、あぶねえなっ! ふざけん……ええ?」

「お願い、助けて! 怪我をしていてっ」


 運転席に収まっていた中年男性は、すさまじい格好の静を見て、目を白黒させた。


「お姉ちゃん、なんでこんなところにそんな格好で? 一人で山に入ったのか?」

「違うの! もう一人いるの! あそこに」

「あそこ? 誰もいないだろ?」

「え?」


 靜は振り返った。

 ――そこには、誰もいなかった。

 よれたジャケットを着た男の姿はなかった。

 ただ、倒れた木が一本横たわっていた。


「だって……さっきまで」

「お姉ちゃん、あんた怪我しているよ、頭。ひどい怪我だ。病院へ行ったほうがいい。救急車呼ぼうか」

「でも、私……」


 茫然と靜は、自分の右手首を見た。

 赤く、あざのできてしまった右手首。

 しかし、そこに手錠はなかった。


× × × × ×


 白い壁の病室でテレビがかかっている。


『東京都A市で会社員の男性と警察官の男性が、駅前で刺殺された事件の続報です。事件当日より行方不明となっており、事件に巻き込まれたと疑われていた地元高校に通う少女が本日未明、T山で発見・保護されました。少女は大変衰弱しており……』

『A市の事件の続報です。刺殺された会社員の男性は複数の金銭トラブルを抱えており、事件の発端になったのではないかと警察が発表しました。なお同じ現場で脇腹を刺されていた警察官の男性につきましては、職務中に事件に巻き込まれた可能性を示唆し……』

『T山で保護された少女が、事件のあった日時、事件現場を通っていた可能性があると発表されました。外傷、胃の内容物から、少女は犯人にT山中に埋められていた可能性があり、警察では少女の快復を待って事情を聞く方針です』

『A市の男性二人が刺殺された事件ですが、犯人は未だわからず……』


 テレビの電源が切れた。リモコンを押した白い指の先に続く、細い手首には、赤いあざが薄っすらと残っている。

 それに、乾燥してひび割れた唇を押し当て、靜は目をつぶった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 休憩時間に読ませていただきました。 他にも短編いっぱい書いてあるみたいなので そっちも読ませていただきますね(○´∇`*)σ゜
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