アスファルトの上で横たわる蝉は。
アスファルトの上で転がった蝉が震えながら鳴いているのをぼんやりと見下ろしていた。
朝、家を出て、学校に向かって歩いて、何だか、面倒になってしまって、行くのをやめようか、と踵を返したところに、そんなのが見えてしまったから、何となく、そうしていなければならない気がして、足を止めた。家に戻って、親から小言を言われるのが嫌だったこともあるし、学校へ行かない理由が欲しかったのもある。そんなもの、何の理由にもならないことは分かっていたのだけど。
何人かが怪訝な目をこちらに向けながら通り過ぎて行く。僕はしゃがみこんで、その蝉が息絶える様を眺めていた。ジ…ジ…、と小さく鳴く蝉は身じろぎすらしない。――そんな僕の影を、大きな影が覆った。
「蝉が死ぬのが悲しいのか?」
その声は、女の人のものだった。
顔を上げると、そこには、黒髪の美しい喪服のようなセーラー服を着たお姉さんがいた。
夏だって言うのに、冬服のように厚手の服を着た彼女は、まるで怪談に出てくる『春先に亡くなりでもした幽霊』のようだったが、その目は穏やかで、口調も優しいものだった。どうやら、幽霊ではないらしい。何故なら、こんな奇矯な行動をしている僕よりも、ずっと、変なものを見る目で、彼女は見られていたから。
唖然と――いや、陶然と、僕は彼女を見ていた。先ほども言ったが、彼女は美しかった。生意気盛りの年頃であった僕が、どうしようもないほど魅せられるほど――彼女は「ん?」と、微笑みを浮かべ、先ほどの問いの答えを求めた。――蝉が死ぬのが悲しいのか? 僕は頭を振った後で、非人情な答えに、彼女の表情が曇るのではないか、と震えた。
彼女は咎めなかった。そうか、と僕の隣に座りこんだ。そして、同じように、蝉を見下ろす。
「それじゃ、どうして、見てるんだ?」
「解らない」
「解らない?」
「何となく、こうしてたいから、こうしてるんだ」
そう。
彼女はそれだけ言った。立ち上がる気配もない。――そう言えば、長いスカートだった。脛の半ばまで届くほどの長さで、そこから先は青いニーソックスで隠れている。
「地中から出た蝉の命は短い」
「一週間でしたっけ?」
「一月だ」
「…それでも、短いですね」
少し騙された気分になる。彼女は笑った。「思ったよりは、短くはない?」「はい」
「それでも、私たちよりはずっと短い。私たちは、今、地中にいる蝉だよ」
「六年でしたっけ」
「種類によって違うらしいけれど。でも、そのくらいかな」
「お姉さんは、何年目ですか?」
彼女はぱちくりと目を瞬かせて、そして、にんまりと笑った。
「女の子の年をそんな自然な素振りで聞くとは。やるね、君」
「そんなつもりじゃ、ないですけど?」
ふふふ、と彼女は含み笑いをした後で、「十六年さ。君は?」「僕は、十年です」
そう――。
と、彼女が蝉の方に、すっ、と指を伸ばした。
それはいけない、と僕は何故か思って、彼女の指を払おうと手を伸ばした。
触れる瞬間に、先ほどまで死にそうな姿だった蝉が羽ばたいた。
そして、羽を振るわせて、空に向かって、飛んで行ってしまった。
僕は思わず、立ち上がった。
彼女も同じように、立ち上がった。
「生きてたな。蝉」
「そうですね。生きてましたね、蝉」
僕は何だか、吹き出しそうな気分で、去っていった蝉がどこに行ったのかを探した。
けれど、もう、何処にも見えなくなってしまった。きっと、もう、二度と目にすることは無いだろう。
彼女は眩しくなるほど強い笑顔で、同じように遠くの空を見上げていた。