白い猫
平々凡々たるぼくの人生の中で特筆すべきことがあるとするのなら、あの白い猫のことしかありえない。
とくに理由もなくいつもより早く目がさめたその朝、ぼくはいつもよりも早い時間に家を出た。
どうせ時間もあることだからと、いつも通勤に利用している新市街ではなく、道が複雑に入り組んでいて曲がりくねっている旧市街の方を通ることにした。単なる思いつきと時間潰しのためだった。
区画調整がいまだに行き届いていない旧市街の道は迷路さながら。油断をすると地元の人でも迷いかねないほどの複雑さだ。その複雑な、人通りの少ない朝の道を、ぼくはてくてくと散歩がてらに歩いていく。迷ったとしても、そのときはいきあった人に尋ねればいいだけのことだと割り切っていた。
そのうちにぼくは、見おぼえのない公園に出た。小さな、ベンチだけがポツンと置いてあるだけの公園だった。
その公園のベンチ近くには、真っ白い猫が居た。近寄っても逃げる様子がなかったので、ぼくはそのベンチに腰掛けた。
「よう」
すると、どこからか声がする。
見渡しもも、声の主らしい人物は周囲にはいなかった。
「どこを見ているんだい。下だよ下」
視線をさげると、白い猫と目があった。
「まさか、君が」
自分の思いつきを自嘲しながら、ぼくはそう口に出した。
「おれがしゃべちゃいけないのか」
白い猫は、はっきりと口を開閉してそう発音した。
「これだから、人間は。くだらない先入観ばかりにとらわれるばっかりで」
先入観、などという小難しい概念もこの猫は知っているらしかった。
ぼくがあっけにとられていると、その猫はさらにいい募って来た。
「お前は挨拶も返せないほどのお偉いさんなのかよ、人間」
「ああ。これは……申し訳ない」
あわてて、ぼくはいった。
「その、驚いたあまり、言葉を失ってしまっていた。
なにしろ、君のような存在にであったのははじめてのことなので……」
正直、この人語をしゃべる猫に対して、どういう風に対応したものか、判断がつきかねた。
そんなぼくに対して、その猫は軽く鼻を鳴らしてからいった。
「本当にくだらない人間だな、あんたは」
「いや……」
猫がしゃべった、という衝撃から抜け出してみると、今度はこいつの口の悪さに腹が立ってきた。
「初対面でそこまでいわれる筋合いはないと思うけど……」
「いいや、あんたは本当にくだらない」
そういうと白い猫は不意に起きあがり、大きく延びをした。
「くだらないあんたは、これ以降、こんな貴重な経験をする機会にも絶対に恵まれないだろう」
そう断言して、白い猫はいきなり走り出して、あっという間に姿を消した。
さて、その出来事があってから長い長い月日が経つわけだが、あの白い猫がいった通り、それ以降のぼくの人生に劇的な出来事が起こることは絶えてなかった。