花冷え
月が変わった途端に冷え込みが増して、それで十数年ぶりに妻であった女性と住んでいた土地にいってみることにした。
そこを離れたのもこの季節のことで、引っ越しのときに通った山道の両脇に満開の桜の花びらが降り注いでいた。
そのときもちょうど今日のように小雨がぱらついたはっきりとしない天気で、春とは思えない肌寒い日であったと記憶している。
一時期は夫婦であったその女性とも、あの日以来、顔を合わせたことがない。
離婚の理由は、妻の浮気だった。
そうなるまでの席で、ただ一度のあやまちだの酒のせいだのと、さんざん取り乱した様子で騒いでいたのだが、肝心のわたしが離婚をする意思を翻す気がないと悟ると、ようやく諦めて離婚届に判をついた。
その女性も、それまでのつき合いで一度こうと決めたことは絶対に変えない、わたしのある種の頑迷さを理解していたのだった。
子どもいなかったし共有財産もほぼ現金のみだけだったので、離婚にまつわる手続きは比較的簡単だった。
貯蓄を等分に別けて、賃貸住宅から引っ越して、それでおしまい。
事務的な処理をたんたんとこなし、その日に別れて以来、その女性とは連絡すら取っていない。
わたしはその引っ越しのときに通った山道まで車を走らせ、その途中にある若干道幅が広い場所に車を停めた。
この山道は日中でもほとんど車通りがなく、道沿いに植えられていた桜の花びらが舞い落ちる様子を眺めるのには最適だった。
公園など、適切な休憩場所があれば花見の名所になっていたのかも知れないが、現状では際限なく散っては降り注ぐ桜の花びらが路上に降り積もり、その上を無粋な轍が汚していくだけの場所になっている。
それでも、薄暗い曇天の下、桜の花びらが路上に舞い落ちてくる様子はそれなりに絵になった。
そうした様子を眺めるために、わたしは車から降りて煙草を加え、火をつける。
深々と吸い込んで紫煙を吐き出したところで、背後から声をあけられた。
「あなた」
と。
周囲に人の気配などまるで感じなかったし、なによりこんな山中である。
もしも煙を吐き出したあとでなかったら、盛大に咳き込んでいたことだろう。
驚いて振り返ると、かつて妻だった女性が立っていた。
「ひさしぶりです」
その女性はそういって、軽く会釈をした。
ずいぶん血色が悪いように見えたが、十年以上前と比較してもあまり年をとったようには見えなかった。
若く見えるということは、つまりは健康なんだろうな、と、わたしはぼんやりとそんなことを思う。
それからようやく、
「ああ」
と、わたしは吐息まじりに返答をした。
「ひさしぶり、だね」
別れてからの年月を考えると、とっくの昔に再婚をしていてもおかしくはない。
しかし、気軽に近況を交換して歓談するような気分ににもなれなかった。
「知っていますか」
その女性は、わたしの困惑など知らぬ様子で、そう続けた。
「桜の下には、死体が埋まっているといいます」
その言葉を耳にしたとき、わたしはすぐに、その女性がもはやこの世には居ないのだな、と悟った。




