夢の国からの使者
「ご免ください」
遡るところたっぷりと百年以上は昔、まだ御一新からはさほど遠くはない時分の下町のある長屋に、奇妙な客人が訪れておりました。
「なんだ、見ない顔だな」
ふと顔をあげて客人の顔を改めた絵師は、すぐにまた顔を伏せます。
「新手の、版元の使いか?
注文のやつならまだできていないぞ」
そういう間にも絵筆を動かし続けております。
「いえ、誰かの使いというわけではありませんので」
妙に印象の薄い男は、今にも消え入りそうな声でいった。
「強いていえば、夢の国から来た者とでもいいましょうか」
「夢、夢、夢の国ねえ」
絵筆を動かしながら、男は呟きます。
「そういや、吉原にも最近はとんとご無沙汰だなあ。
……他人の奢りでしか行ったことがねーけど。
というわけで、借金取りならおそらくは人違いだ」
「いえ、花街からの使いという意味でもなくてですね」
客人はか細い声で食いさがる。
「なにかのたとえではなく、文字通り、夢の国からあなた様に用がありまして、こうして参上した次第で」
「夢の国だあ?
どうも様子がおかしいとは思ったが、あんた、キジルシってやつか?」
「いえいえ、そういうわけでも。
ちょっと聞いてくださいよ、旦那さん。
あなたこの数日、夢の中でバクを追い返しているでしょう?」
「バクだあ?」
男は首を傾げます。
「いわれてみればうっすらと、こう、なにやら大きな畜生を必死になって追い返した夢を、続けて見ているような気もするな。
お前さん、なんでそれを知ってなさる?」
「いえ、わたくし、俗にいうバク使いというやつでして。
厳密にいえば使役しているわけではないのですが、悪夢を食らうといいうバクたちを統括したり管理したりすることを生業としております」
「ほう。
それで夢の国から、ってわけか。
嘘か本当か知らねえが、いや、十中八九は嘘なんだろうが、商売柄その手のホラにはつき合うことににしている。
ほれ、いいたいことをいってみろ」
「旦那様もお聞きになったことがあるかと思いますが、バクというやつは人の夢の中に現れて悪夢を食らう生き物です。
そのバクを再三にわたり追い返すとなると、旦那様のお体に、いえ、お頭に障りが出るようにもなりかねません」
「ほう。
おれの気が触れるというのか。
そいつはまた重畳なことだなあ。
なに、そうなったらなったでそれもまた一興ってやつだ。
知っているか?
最近になって新政府なんだとふんぞり返っている連中は、ついこの間まで御用盗などといって押し込み強盗を働いていたやつらだぞ。
狂っているというのならば、このご時世自体がすでに狂っているのさ」
「いえいえ。
こればかりは本当に冗談ではありませんもので。
旦那様はすでにもう十日以上も悪夢をバクに食わせずに放置しております。
それも、前例がないほどの毒性の強い悪夢です。
このまま放置してしておいては旦那様の神経とやらが保ちません」
「とはいえ、その悪夢こそがこちとらの飯の種だからなあ。
ほれ、お前さんも見てみるかい?」
そういって男が描きかけの無残絵を両手で高く掲げてやると、その凄惨な、真に迫った内容を見て、夢の国から使者は「ひゃっ!」と情けない悲鳴をあげて退散していきました。




