折れた骨で出来た巨人
つくも神とは九十九神とか付喪神とか書いて、ようは長い年月を経た器物に精が宿りかってに動き出すような状態を指す概念であるらしい。
ただしこれは道具がいまよりもずっと貴重で大事にされていた時代であるからこそ成立するる概念でもあり、あらゆる道具がいわゆる耐久消費財になってしまった現在では、そもそも精が宿るほどに長い時間、大切に人間に使用される道具というものはほとんど存在し得ない。
あまり一般には知られていないことだが、台風が去ったあとの街路などには大量のビニール傘が捨てられているわけだが、あれらなども条件が揃うとなり損ないのつくも神もどきになることがある。
そうしたビニール傘はたいてい安価でそれだけ脆く、ごく短期間のうちに壊れて捨てられることを前提として販売されているわけであるから、そもそも単独ではみずから動き出せるほどの年月を過ごすことができない。
そのかわり、強風を伴う嵐の直後などには骨が折れた物が大量に打ち捨てられるものである。
塵も積もれば山となるというやつで、そうした捨てられたビニール傘も大量に集まるとそれなりの精が宿ることがあるようで、回数こそ少ないものの何度か目撃されている。
単独で動けるほどの力は宿っていないから、数十本、あるいは数百本という骨が折れた傘が集まり、折り重なってようやくどうにか動けるまでになるわけだが、その動きはあくまで緩慢であるという。
発生当初からそもそもしかるべき力が足りていないのだ。
骨格や形状を固定する力すらなく、ずぶずぶと蠢きながらどうにか動こうとするもがく、ガラクタでできた巨人。
うろん、そんなに不器用で不完全なものがいつまでも動き続けることができるはずもなく、すぐに動きを止めてそのままゴミの山と化してしまう。
そして、いくらもしないうちにたいていは不要物の回収業者の手によって処分をされる。
これが、大量消費を前提とする現代社会におけるつくも神の実態になるわけである。




