最後の目撃者
ぐにゃりと月の輪郭が歪んだのが、すべてのはじまりだった。
月は輪郭を失っただけではなく、そのまま夜空に、宇宙に溶け込んでいくかのように霞んでいき、最終的には完全に姿を消す。
新月のときのように視覚的に姿を消しただけではなく、物体としての月そのものが静かに、速やかに分解されたわけだが、地上にいた人類がその真相を理解するまでにはしばらくの時間を必要とした。
太陽と並んでもっとも身近な天体である月の消失は地球上でもすぐに観測され、報じられた。
その原因についても様々な仮説が提出され、検証されるのだが、すぐにそんな悠長なこともいってられない異変が地球上でも発生しはじめる。
まず地球の自転が加速度を伴って速くなった。
これは一日の長さが徐々に短くなるだけに留まらず、自転の速度に追いつけなくなった大気が結果として強風をはじめとする様々な異常気象を発生させ、全地球規模的な被害を与えるようになった。
そうなってしまった原因は、少しでも想像力のあるものにとっては明らかだった。
月という間近にある大質量が消失したためである。
それまで地球の動きに対して制動をかけていた月という物体がなくなったため、結果として地球の自転が早まったのだ。
では、月はどこへいったのか?
その原因についていくらかでも明瞭になったのは、やはり宇宙からの資料からであった。
軌道上から地上に回収された実験用衛生に付着していた物質を精査した結果、それは特定の条件下において自動的にあらゆる物質を分子レベルにまで分解する一種のナノマシンであることが判明した。
幸いなことにそのナノマシンは地球の大気の中では作動しない仕様になっていたようで、すぐに地球が月のように食われるということはなかった。
関係者はこのナノマシンをムーンイーターあるいは神話上の存在になぞらえてバハムートと呼んだ。
このバハムートたちは外宇宙方面から悠久の時間をかけて飛来をしてきたらしい。
これまでに地球人類に観測されたことがなかったのは、このバハムートたちがあまりにも小さすぎたためだった。
このバハムートたちが自然発生したものなのか、それともなんらかの知性によって製造をされたものなのかは、識者の中でも意見が別れて結論がでなかった。
いや、全世界的な規模の異常気象はすぐに略奪や紛争、政変などを引き起こしすぐに学術研究どころではなくなったのだ。
大多数の人間がその原因を理解するよりも早くに人類社会は呆気なく均衡を崩し、滅びへの道を邁進しはじめた。
バハムートに起因する異変が起きたとき、たまたま軌道上のベースに滞在していたそのアストロノーツは、暗い色合いに変色した地球を眺めながら口笛で「ムーンライトセレナーデ」を奏でている。
地球の色が濁っているのは、全地球規模で発生している暴風が膨大な砂塵を大気圏中に巻きあげてうるからだ。
効果としては核の冬と同じであり、このまま推移すれば光合成をする生物はさほどときをおかずに全滅するだろう。
人類は、おそらくはその前に全滅してしまうだろうが。
それに地上のやつらはいくつか見落としていることがある。
重力バランスが崩れているということは、バハムートどもによって分解された月の質量は、すでに大半はどこかに運び出されているということ。
それに、あのバハムートどもがいつまでも苦手なことを克服しないでいる理由がないということ。
なにせやつらは、光年とか天文単位の距離をはるばる旅してきたようなやつらなのだ。
なんらかの学習能力、自己改良能力くらいは備えていてもおかしくはない。
いや、そう考えるのが自然だ。
その証拠に。
そのアストロノーツは視界の中にある兆候を認めて口の端を歪めた。
濁った色の地球の輪郭が、ぐにゃりと歪みはじめた。
ちょうどバハムートどもによって、月が食われたときのように。




