主観
彼女ととある家電量販店に入った。
「そうでない人にうまく説明するのは難しいんだけど……」
エスカレーターに乗りながら、
「絶対音感を持つということはどういうことか」
と、彼女に訊ねてみた。
「……むしろ、音階を正確に把握できないって感じの方がうまく想像できないかな」
「主観の問題だからな」
ぼくはそう応じた。
「昔、まだ子どもだった頃、遊びにいって家に帰るとき、夕焼けで周囲の風景が一面、朱色に染まったことがあった。
そのとき、おれが見ているこの朱色は、他の人にも同じように見えているだろうかと疑問に思ったことがあるけど……」
「主観の問題だねえ」
彼女は答える。
「それ、他人も全く同じ色を見ていると証明することはできないよね。実際問題として。
せいぜい、色相スペクトルとかで数値化すれば同じ波長の光を感じている、とかは証明できるかも知れないけど……」
「そう。
同じ色を見ているのか、というのと、同じ色に見えているのか、というのとでは、まったく意味が違う」
「そこへ行くと、音はね。
人間は音を出すことができるから、今のわたしは、音階を性格に把握できない人の方が多数派であることを理解している。
だけど、それを理解できるまではとても孤独だった。
だって、わたしにはわかりすぎるくらいにわかっていることが、他の人にはまるでえ理解されないだもん。
自分だけがかなり特殊な存在だと認識できてからしばらくは、その頃はわたしもまだまだ幼かったし、とっても孤独な心境になったもんだ」
そんな会話をしているうちに、目的地である電子楽器の売場がある階に到着する。
電子楽器の売場は、エスカレーターから降りてすぐそこの場所にあった。
彼女は展示されているキーボードに素早く指を走らせ、「猫踏んじゃった」の最初の一小節をかなり早いテンポで弾いた。
「幼い頃は、こうして弾けるようになる曲が増えるのが単純に嬉しかった。そうしてレパートリーが増えていけば、演奏でなんでも表現できるようになるんじゃないかと思ったから。
でもすぐに、正確に演奏できるというだけではなにも表現できないんだと気づいた。
演奏できる、ということと、演奏でなにかを表現できるということの間には深い溝がある」
「だけど、その演奏技術がなければなにもはじめることができないわけでさ」
ぼくはそんなことをいいつつ、彼女と同じようにキーボードに指を走らせ、「猫踏んじゃった」の最初の一小節を弾いた。
ただし、彼女ほど正確にも速くもない、稚拙な演奏だった。
「とりあえずそこが、スタートラインなんじゃないかな?
その、演奏をできるようになる、というところが」
「結局、買うの?
その楽器」
「買うさ。
もう一度、やり直してみたいんだ」
ぼくは脳内彼女にそう告げ、近くに居た店員に、このキーボードを購入する旨を伝えた。




