睡魔
何年前かのある夏の夜、しつこい羽音が気になってついうっかり平手を合わせてしまった。
そうしたところでたいていは虫を取り逃がしてなにも起こらないのだが、そのときはたまたま相手の動きが鈍かったらしく、手のひらの中には潰れた睡魔が残っていた。
睡魔だよ、睡魔。
本人もそう名乗っていたし。
蚊とかではなくて。
小さいながらもコウモリのような羽根を持ち、槍を持っていた悪魔のような姿をした、ごくごく小さな体。
「勘弁してくださいよう、もう」
その潰れた睡魔はおれの手の中で不平をぶちまけた。
「こんな夏の夜は、虫の羽音が気になるだろうからと気を効かせてわざわざ出勤してきたっていうのに……」
「そいつはすまなかったな」
とりあえずおれは、詫びを入れることにした。
「ヤブ蚊かなにかだと思ったんだ。
ところでお前さんは、どういう存在なんだい? ずいぶんと禍々しい格好をしているが」
「これでも一応、悪魔の眷属ということにはなっていますけどね」
睡魔は自嘲混じりにそう述べる。
「眠気を誘い、人間を怠惰な方向に誘うってだけの、ケチな存在です」
「そうか。
睡魔というやつか」
納得して、おれは頷いた。
「それなら、おれなんかよりももっと相応しい獲物がたむろしている場所がある。
どれ、潰してしまったお詫びに、そこまで連れて行ってやろう」
そういっておれは、すぐ近くにある飲み屋やホテルが軒を連ねている繁華街に睡魔を放った。
リア充は死ね。
いや、眠れ。




