脅迫 3
ピポパポ ピンポーン。
ナツのマンションのエントランスに入ると同時にボタンを押す音が聞こえた。
文字盤の前では赤と黒のランドセル、可愛い可愛い小学生がインターホンを鳴らしている。
もう一回。ピポパポ ピンポーン
電子音が空しく響くエントランス。どうやらナツはいないらしい。小学生ズに声を掛けようとしたらピカピカのステンレスに反射している真綾と目が合った。
「……ハル」
とてててて。きゅっ。
マジなんなのこの生き物……。俺の胸がきゅんっ。
すると、もうひとりの小学生が俺に言ってきた。
「ハル。ナツはいないよ。……毎日一緒にいろって言ったはずだ」
……マジなんなのこの生き物。俺の拳がぎゅんっ。
香田 武。
俺が常夫を殴り飛ばした所を盗撮していた、ジャイアニズムに溢れた名前の常夫の仲間。一年の頃にナツに告って振られた可哀想なヤツ。
その時にナツは、ずっと昔から好きな人がなんちゃら。華麗な俺はその部分だけ馬耳東風スルー。
「んで、なんでおまえはそんな事知ってるの?」
「彼氏がいないらしいナツからハルの事は聞いてた。恋人を作らない理由も」
俺スルー。
公園の芝生、その上に座った俺はアキの顔を見上げている。
あぐらをかいた俺に寄っかかるようにしている真綾は、あいかわらず超可愛い。アキも顔だけ見れば同じなんだけどこいつは可愛くない。主に態度。
「ガンエッジよわーい」
「大丈夫だ。次のバージョンアップで強くなる」
「アキ、ほんとにー?」
「本当だ」
俺に体重預けてる真綾はピコピコ鳴らしてゲームをやってる。ナツも好きな狩りするアレ。
次のバージョンアップで強くなるって。良かったね真綾。けどそんなの事前に分かるのか? アキは適当なこと言ってるぞ真綾。
肩に触れる真綾のほっぺたと、首筋に当たる髪の毛。
俺はまだ高校生なのに、単身赴任が終わって愛娘に甘えられているような気分。しかしそれもすぐに消える。昨日の事を思い出せば。
昨日、新たに増えた問題。
今度は俺が脅迫される立場になった。
ナツの事と結びつければ充分に情状酌量の余地あり。しかし、別個に考えるならいきなり常夫を殴り飛ばした事になる。
そしてナツの事と結びつけるという事は、万引きの事を……つまりチェックメイト。待ったなし。
俺が常夫を殴り飛ばしたあと、武があの場で言った言葉。……俺への脅迫。はっきりとした言葉ではなく、匂わせた言葉。
それを思い出した俺は、肩に寄りかかる体重の重さ、あるいは軽さを思う。
アキと真綾は二人ともピコピコやっている。
しかし二人で一つのゲーム機を使っているらしくて片方は常にスマホをピコピコ。スマホはピコピコとは言わねえか。
他人といても常にピコピコ、デジタル世代の申し子。まあ俺もデジタル世代だけど。
『明日名真綾と友達なんだろ? ハル』
……馴れ馴れしくハルなんて呼びやがって武の野郎。
あいつは何を言いたい? 俺に何を求めてる。
ひょっとしたら、あいつらはとんでもない極悪人なんじゃないのか?
春ののどかな日差しの中で、美しい小学生に囲まれている俺は、どこか他の世界から見たら楽しそうに映るのかもしれない。
けれど実際の現状は結構ヤバいんじゃねえのか?
あんな動画が広まったら俺は一発で退学だ。動画なんてなくてもヤバいがあいつらは普段の素行も悪いんだろうし、俺も言い逃れも出来るかもしれない。それでも、あんなもんがあったら完璧にアウトだ。
俺はなにをさせられる?
ナツもこうだったのか?
ナツ。
俺の幼なじみ。
俺が助けなくちゃいけない大切な妹みたいな。
「……ハル。ナツのところに行かないでいいのか?」
ナツ。俺はあいつのところに行く。
ピポパ403ピンポーン。
まだいねえかな?
携帯に掛けても出ないナツ。
なんだか得体の知れない不安が俺の胸を襲う。
『……はい』
いた。
「ナツ、俺だ。ハルだ」
『あ……ハル、今ちょっと』
後ろで何かの音。誰かの声。
『……入って』
途轍もない悪寒。
「やあハル」
「テメエ……」
なんとなくは分かっていた。そうなんじゃないかって。ソファーに座っているのはチャラついた男。浅く焼けた肌。
「待って待って。おいハル。また俺を殴るのか? さすがにそれはまずいんじゃないか?」
黙って常夫の所まで行こうとする俺の手を引っ張る必死な細腕。
「やめてハル!!」
「そうだよやめてくれ。昨日さんざん殴っただろ。見ろよまだ腫れが引かない」
イケメンの常夫はその唇が腫れている。
小さく裂けた唇を開いて前歯の位置を確かめた。
「グラグラしてんだよ。インターハイ王者に殴られて歯が欠けたんだ。本当に洒落じゃ済まないよこんなの」
「そうか? 思わず笑っちまう洒落た顔にしてやるよ」
「やめて!!」
俺の前に俺の幼なじみが両手を広げて。
……ナツ。なんでそんな奴を庇う。
「健気だねー。愛されてるんだなハルは。けど早く座れよ。こっちも話があるんだ」
俺だって分かっている。
ナツは俺の為を思ってこんな奴を庇っている。
殴った時点で俺の負けが決まる。
カーン。
インターバルのゴング。
頭よ鎮まれ。俺はそれが出来る男。
「ナツ。もう平気だ。悪い」
「ハル……」
「もういいから。話が進まないだろ。早く座れよハル」
生意気にもナツに茶を催促した常夫はそれをすすろうとしてやめる。
「あー歯が痛い。歯が痛ーい」
こいつ、これがやりたいだけで茶を淹れさせたのか?
「今日は二人に相談があって来たんだ」
クッキリ二重の甘いタレ目。
なにも知らなかったら魅了されるような瞳。
「ハル。もう知ってるんだろ? ナツがやった犯罪は。もう腹を割ろうぜ」
「なにが言いたいんだテメエは」
「もうナツにはなんもしない。約束するよ」
……本気か?
俺に殴られて目が覚めたのか?
こいつはそんな奴なのか?
「友達紹介してよ。君たちの小さなお友達を」
「はあ?」
「俺の友達の武が明日名真綾のサインが欲しいんだってさ」
それだけか?
サインをもらってくりゃいいのか?
それだけなら喜んでやってやる。
「けどさ。俺と武は親友だ。武はもっと違う事を望んでると思う。だからその気持ちに応えてやりたい」
「回りくどいぞテメエ」
「それでも流石に君たちだって後味悪いだろ?」
「回りくどいって言ってるぞ」
「真綾を呼び出すだけでいい。そこから先は俺と武だけだ」
……こいつ、マジか?
極悪人どころじゃねえ。ちょっとキレてるぞ。
テレビに出ている小学生相手にこいつはなにをするつもりなんだ?
また俺の中で静かな怒りが。こいつの顔にぶちまけてやろうと灼熱のヘドロが。すると、俺よりも先にナツが口を開いた。
「そんなこと出来る訳ないでしょっ!?」
「じゃあナツ。君がこれからも相手してくれ」
すっ。俺の手が。前に向かってまっすぐに。ゆっくりとのろのろと。
殴ろうとしたのか? それとも何かを言おうとしたのか? 言葉は出ないままで俺の手は常夫の首に向かい伸びていって、すっ。……常夫はそれを躱してソファーから立ち上がった。
「ハル。ナツはこう言ってる。けど君は冷静に考えられるよな? 大丈夫だ。何もひどい事なんてしない」
そのまま玄関に向かう常夫。振り返らずに言う。
「芸能人だったら撮影会は慣れてるよ。それをするだけだ。考えておいてよ」
バタン。
武の父親もゲームクリエイターで、なんとあの有名なやつ、みんなで狩りするアレ。いつもナツとアキ達がやってるあれを作ったのが武の父親らしい。
そこらへんの共通点から武とナツは仲良くなったんだけど、友情を恋愛に昇華させようとした武は木っ端微塵に砕け散った。
「……武が黒幕なのか? それを恨みに思ってるのか?」
「わからないよそんなのっ」
ナツの目には涙。悲しいからじゃなくて嬉しいからじゃなくて大きな混乱、それと恐怖。
突き付けられた無茶な要求にナツは応える事など出来やしない。じゃあ俺は?
……天使のような真綾。
最近知り合った赤の他人。
俺は最低の考えをしている。
常夫と武は正真正銘のクズだけど俺の頭の中にはそれ以上のクズい考えがチラリと浮かぶ。
しょせん、他人。
長い人生の中でひと月にも満たない時間の更に少ない何日間を細分化した何時間。
それだけの触れ合いの人間は、他人だろ?
……俺はいつの間にか大きくなっていた、小さく丸まっている妹のような存在を優しくやさしく抱きしめる。恋愛感情はねえ。これで何回目だ?
けど、これも前にも言ったよな。
大切なのは、それだけじゃあねえだろう。
俺はこの大切な存在を守る。助ける。
アキ、てめえは俺に言った。
ナツの事を助けろと。
だったらおまえらにも協力してもらうぞ。
ナツを助ける為に犠牲になれ。
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……暗い空間の中で、俺はぎゅっとナツの手を握りしめる。世界の果てみたいな暗い暗い井戸の底のような二人きりの狭い場所で熱い息を感じる。
ほんのわずかに差し込む光から逃げるように身を寄せ合う俺とナツはまるで愛し合う恋人たちみたいだ。
体温が。
その熱が。
震える手から伝わるナツの生命。
怯えて震えて苦しんでいる幼なじみの手を俺は離さないようにはぐれないようにこの狭い暗い熱い場所で。
自分達が助かる為に小学生を生贄に差し出した俺たちは……いや、俺は。
怯えて震えて苦しんでいる俺はその手の震えを悟られないようにせめてナツの前だけでも虚勢を張って手を握りしめる。
……俺は、ひょっとしたらとんでもない間違いを犯しているんじゃないか?
その考えが浮かび上がると頭はそれに取り憑かれる。本当にこれでいいのか? うまくいくのか?
絡み合う俺とナツはまるで一つの生き物みたいに混ざり合い溶け合って狭い空間にこもる熱。
ナツの大きく膨らんだ胸に沈んでいく俺の頭はゆっくりと意識を手放す。
研ぎ澄まされた感覚。闇の中に浮かぶ脳髄。
まるで体をなくして神経だけが浮いているような鋭敏な感覚の中で俺はひたすらナツの何かを求めている。俺は、欲情している。
小学生を生贄に差し出した俺。
常夫や武に負けない最低。
それでも人間の善性とはかけ離れた場所にある惹きつけてやまないものが俺の事を興奮させている。高揚させている。これからこの場所で起きる胸糞悪い光景を待ち望んで俺の拳に欲情の熱がこもる。
早くしろ。待ちきれねえ。
俺とナツで。
アキと真綾で。
俺たち四人で常夫と武に食らわせてやるその瞬間を。
「……ナツ、大丈夫か? 準備出来てんのか?」
「うん。もう回ってる。……ところでハル」
「あんまり喋るな」
「う、けど、あんま、当てないでよ……」
なにを? ナニを。
真っ暗な空間に、細い隙間からほんの少しだけ冷たい空気が。ヤバい……もういい加減暑いんですけど。
冷たい空気のお陰で欲情にも似た闘争の熱がほんの少しだけ静まる。その炎は青く。細く伸びる。
「遅くない? ちょっと、私トイレ行きたい……」
「やめろ。おまえマジやめろって」
「あああ……。嫌だ、いやだあっ見ないで、ハル見ないで」
「ぅおいっ。マジやめろって!!」
俺が大声を出してしまった瞬間に部屋の入り口の引き戸がガラリッ。やべえ来た。
外から差し込む逆光が闇に慣れた網膜を灼く。そこに浮かび上がるシルエット。
坊ちゃん刈り。
黒いランドセル。
「ハル……」
「……真綾?」
ここに来るのはアキのはずだ。
真綾の格好をしたアキが武と常夫をここに連れてくるはずだ。
なんでアキの格好をした真綾がこの場所に来る!?
バーン!! 俺とナツを閉じ込めている跳び箱の最上段をぶち抜く勢いで立ち上がる。新鮮な空気、うまい!
見下ろすと四角い檻みたいな跳び箱の枠の中でナツが膝を抱えて携帯カメラを構えている。
「トイレー!!」
「うるせえ、我慢しろ!!」
体育用具室の暗い中で俺は色んなものに蹴つまずく。あぶね、あぶねえココ!!
ってゆーか、これ暗すぎて撮影出来なかったんじゃねえのか? 俺はアホか?
「真綾、アキはどうした!? 常夫と武は!?」
「ハル……」
とてててて。きゅっ。
マッシュルームのカツラをかぶっている真綾の外見はいつものアキそのもの。……ああ、けどアキと違って真綾はやっぱ可愛いなあ。人間はやっぱり外見じゃなくって中身だね。……あ? 真綾がそもそも可愛くなかったらって?
そんな仮定の話に答える義務はねえな。人生にもしもはねえ。
「ハル……アキをたすけて」
「どこにいる!? あいつはどこだ!!」
暗い部屋の中から飛び出た俺は全力で疾走する。
ビューン、ドビューン! 忍者みたいに前のめり、両手を握りしめ走る俺は土煙をあげマッハに至る。
アキを犠牲にする訳にはいかない。俺の作戦の犠牲に本当にする訳にはいかない!!
俺が考えたのはこうだ。
やられた事をやり返す。
シンプルイズベスト。
目には目を歯には歯を。
脅迫には脅迫を。撮影会には撮影会。
常夫と武は俺が思っている以上の極悪人でキレてる奴らだった。けど、万引きも何もしちゃいないなんの罪もない小学生に撮影会はさすがにマズいんじゃねえのか? 表に出たらヤバいのはそっちなんじゃねえのか? しかも相手は日本中が愛している天才子役。人生終わるぞお前ら。
俺がアキに「真綾になってくれ」と言った時、なぜかあいつは薄く笑った。
その顔を見た俺はなんの根拠もないのにうまくいくと思ってしまった。
けどあいつは。
無表情に見えるあいつはやっぱりただの小学生だ。
真綾と違って男であるアキは服の一枚くらい脱がされようがどうともない。それ以前に跳び箱の中から盗み撮りするナツと一緒にいる俺が、アキに危険が迫りそうになればすぐに助ける。
けど、やっぱりそれは間違っていたんじゃないのか?
男だから傷付かないとは限らないし、そもそもこどもにそんな事をやらせた俺はやはり最低の男。
「アキッッ!!」
俺はどこに向かって走っている?
放課後、夕暮れの校舎には人の姿が見えない。
真綾が指差す方に向かいなんの考えもなしに走り出した俺は、いつの間にか自分が生徒指導室の近くまで来ている事に気づく。
一旦戻って真綾に詳しく話を聞こう。
そんな当たり前の事もせずに、血を頭に昇らせた俺は来た道を振り返る前に気付く。
生徒指導室の前の人影。
「……ッッテッッメエエエエエエエッッ!!」
浅く焼けた肌のチャラついた男、常夫は俺の雄叫びを聞いてその体をビクリと跳ねた。
……生徒指導室か!!
特修院の聖域。誰も近寄らない物置のような建物。
窓のそばで携帯をいじっていた常夫は俺の顔を見てそのニヤついた二重の瞳を大きく見開く。
そこにある驚愕。そして恐怖。
だってこいつは俺の顔を見てしまった。
自分がこれから辿る運命を悟ってしまった。
「ま、待て、待って!! 俺は違う!! ……助けてあ、」
ッッパアアアアアアン!
背後を壁に阻まれて、逃げ出す為には俺に向かってくるしかない常夫はまるで俺の背後に助けを求めるように手を伸ばしたまま崩れ落ちた。
ドサリ。顔も庇わずに前のめりに倒れる常夫。
神の瞳を持つボクサーの会心の一撃。居合いの様な一閃。一撃で相手の意識を刈り取るアゴの先だけを狙った重低音爆撃弾ズズンッ!
常夫の手からこぼれたスマホ。
それを見て俺の頭の中にほんの少しの冷静が。
……この中にナツの万引き写真が? その他色々モロモロ写真が?
怒りのままにそれを踏みつけようとした俺。その俺の体を押し退けてナツがそのスマホを拾う。
「ハルッッ!! 早くアキを助けてあげて!!」
その言葉を聞いた俺はすぐさまそれを開始する。
ドアを開けようとするもその扉には内側から鍵が掛かっていて開かない。そのすぐ横、常夫がさっきまで立っていた窓。
俺は着ていた学ランを脱いでそれを右腕に巻きつける。この時にはもう俺の中で覚悟は決まっていた。
俺は多分退学になるだろう。だったら徹底的にやる。圧倒的にやる。壊滅的なまでにやる。
ガシャーン。そんな音ではなくてもっとくぐもった音。バガーンそのあとカッシャーアアン。残った大きなガラス片を叩き割る音が鈍く響く。
そのままの勢いで部屋に入り込もうとする俺が、窓枠に足をかけると体を支える右腕にザクリ。
残ったガラス片が天才ボクサーの黄金の右腕に突き刺さるけど俺はそれをシカトする。
破けた学ランを腕からほどくとそこから血が流れ出す。その痛みに構うことなく咆哮をあげようとしていた俺の頭が急激に冷えた。目の前の光景に。
「武。……お前、なにしてんの?」
「お、な……、ちが、違う!! マジで違うんだって!!」
……武。お前、なに出してんの?
俺の事ナメてんのか?
「ちょ、ちょっと聞いてくれ!!」
パンツも履かねえでぶーらぶら。
それだけ身に着けたままの白いTシャツがだくだくの汗で張り付いている。
きったねえ粗末なモンを隠すように腰を引いている武の奥に、横たわる銀髪、白い肌、真綾と外見交換したアキの琥珀色の瞳が俺を見る。
……すっ。涙。
「ハル……」
男の子のアキは小学生の割りには身長が高くて、けどまだまだ男とは呼べない体は筋肉のカケラも見えやしない。未分化な性の真っ最中、外国人の血を引いているアキの体はどこまでも白く透き通っていてほのかに紅く染まる肌と頬の上を伝う涙が見ている俺の心の中におかしな気持ちを起こさせる。
ほんのりと盛り上がる胸の脂肪、その上に着ている服は破かれていて隙間から見える肌が暗い部屋の中で輝くようにぬめ
ズバン。
「くぅおらあああああアアッッ!!」
部屋の中に霧のような血が飛ぶ。
ぶぱっ。武の出した声。
意識して出した訳じゃないノドから漏れたような声。
黄金の左の素早い一撃は武の顔の中心を一センチだけ叩く。腕が伸びきった瞬間に握り込まれる俺の拳は武の肌に当たった瞬間、岩のような硬さに変わる。
まるで香水を叩いたような細かい細かい血の飛沫が霧のように部屋に舞う。
「……ッッ殺す!!」
俺はたった一人の犯罪クラブ。
『暴力』——目の醒めるような暴力を。ボクシングを冒涜するようなただの犯罪を。
左の拳の先からシビれるような電流。
血流を伝わり筋肉を震わせ武の肉を叩く俺の暴力は相手の体を跳ね返り俺の中に還元される。フィードバックされる快感。
折りたたまれる俺の左腕は完全に元に戻る前にその軌道を変えてバンババン!! ジャブ、フック、そのままボディ。俺の得意の左のトリプル。この必殺のコンビネーションを撃てる奴を俺は自分の同年でほとんど見た事がない。
キレにキレてる俺の精神と技のキレ。
そこで俺は思い出す。あれ、俺は不調じゃなかったっけ? たいして好きでもねえけど結果は出せるボクシング。それすら最近調子悪いんじゃなかったっけ?
俺は自分の肉体に訊いてみる。
おい、調子どう?
右の拳が武の鼻をえぐるように叩く。
おい、調子どう?
左の拳がえげつなく肝臓を穿つ。
おい、どういうこと?
……なんでこんなに俺は完璧なの?
「シッッ!!」
体を駆け巡る解放。
ボクシングの試合とは違う、嫌いな人間を殴る快感を。格闘技をやっている人間なら必ずどこかでぶつかる命題を。暴力との違いは何?
俺はボクシングが好きじゃない。得意だからやってるだけだ。好きでも嫌いでもねえ他人を殴っても嬉しくもなんともない。
けどどうやら俺は。
嫌いな人間を殴るのが心の底から好きらしい!
後ろの方から誰かが俺を呼ぶ声が。制止しようとする声が。
それでも俺の体に充満するアドレナリンは無尽蔵のエネルギーとなり俺の活動をやめさせない。
くるり。
痙攣する武の目がまぶたの裏へと隠れてその膝から骨がなくなったみたいにぐにゃりと折れて体が沈む。スローモーション。
……すでに発射された俺の右手。
完全に意識を失った武の顔面に俺の拳がゆっくりと迫る。完璧に弛緩した素人の体は俺の拳の衝撃に耐えきれないかもしれない。その首の骨は嫌な音をたてるかもしれない。不幸な事故が起きるかもしれない。
踊れ武。
俺は徹底的にやる。圧倒的にやる。壊滅的にやる。
放課後犯罪クラブの最初で最後の活動は『殺人』だ。こいつの死体をどうする? どこかに埋められるのか? 高校生にそんな事が出来るのか?
だったらてめえを食ってやる。
骨まで残さず食ってやる。
俺に消化され血となり肉となりアドレナリンの波で踊れ。噛みちぎられる音を聞きながらオピオイドの海で踊れ。俺がひりだしたクソに混じり下水管でハエと踊れ!!
撃ち抜かれる拳。
「そこまでだ二十七番」
体ごと押さえつけるように俺の腕を。
鼓膜から響くその声で現実が戻る。
「やめろ春川。……そこまでだ」
いつの間にか窓から入ってきていた数学教師。
ここは生徒指導室。
カーーーン。
なんだか色々な事の終了を知らせるゴングが俺の頭の中に響いた。