脅迫 2
「……では、二十七番。この式を解いてみろ」
「うるせえ。見てんじゃねえよ」
ざわり。
授業中に教師に指されて、答えた言葉が見てんじゃねえよ。そんなアホの存在に教室中がざわついた。アホ? 誰? 俺。
……最近出来た湧き上がる怒り。全方位を敵に回したい気持ち。無能な生徒指導教師が偉そうに授業をしているのが許せねえ。
特修院の聖域、生徒指導室。
校舎の中には作られず、まるで物置のように併設されている小さな建物。
なんでこんな作りなのか。それは特修院の体質に関係がある。
特修院は金持ちのご子息達や、一般人でも様々な才能ある奴らが集められた学校だ。この学校には色んな特別待遇がある。
例えば明確な「芸能科」なんていうもんはないけれど、芸能人の奴らには出席に関してゆるい。
俺みたいなスポーツマンは、そっちで結果を出してりゃ勉強の事なんてなにも言われない。俺が求められてるのはそれじゃねえからだ。
学校指定の制服もあるにはあるが、俺みたいに前の学校の学ラン着てる奴もいれば、毎日私服でファッションショーみたいな奴もいる。
個性を出せ。そして結果を出せ。
出せば全てが許される。不祥事を除いて。
テレビなんかで見た事あるだろ?
未成年タレントが喫煙しただかで、謝罪会見——活動停止。彼氏がいるのがバレたアイドルが、号泣謝罪——もうしません。
他にも飲酒やらなにやら、高校生なら一つくらいはやった事があるようなもんでもテレビに出てるあいつらには絶対それが許されない。やってしまえば人非人、世間の全ては敵に回る。
特修院の中もそれと同じだ。不祥事だけは絶対に許されない。
校舎のどっかでタバコを吸ってた。普通の学校なら初回はせいぜい停学何週間、特修院では一発退学。
警察に捕まりでもしたら教師は迎えにすら行かない。そんな奴は知らねえよってな。
基本的には当たり前だ。
罪を犯せば罰がある。そうでなくちゃ世の中は回らない。
だけど、俺たちはまだ人間として成熟してるとは言い難い。こどもだとは思ってないけど自分で自分を大人だとも言い切れない。間違いを犯す事もあれば、そもそも間違いって言われても納得出来ない事もある。
何かを成し遂げたら大人の真似して打ち上げだってやってみたい。そこでちょこっと酒を飲んでみたいとか思う奴もいるだろう。
人を好きになる事もあればその先に進む奴もいるだろう。それって、当たり前の事なんじゃねえのかな?
特修院ではそれは絶対に許されない。
もっと正確に言う。
「表に出す奴はすぐに切られる」
これは俺も特修院に来る前にかなりストレートに言われた。
世の中の簡単な基本ルールも騙せねえ奴は、特修院には必要ないってよ。
そういう奴を見つけそうになると、教師は指導室にそいつを呼ぶ。
その中での会話が誰にも聞こえないように。その中で何が行われても誰にも見られないように。
そこまで徹底して不祥事を嫌う特修院の先生方は、俺の幼なじみの不祥事を見抜けなかった。
こいつは、それを見抜けなかった。俺の幼なじみを助けてくれなかった。
「……なんだその敵意の目は。俺がお前になにかしたのか?」
生徒指導担当の数学教師に先導されて、いつも鍵がかけられている特修院の聖域に招かれた俺は八つ当たりに近いイラつきムカつき憤りを視線に乗せて奴を見る。
閉められたカーテンの隙間からは柔らかな日差しが。
……暖かな春の日差しとは比較にならない俺の胸の奥底から湧き上がるマグマ。マントルを突き破って出そうになる灼熱のヘドロが。ただの八つ当たりだと分かっていても、俺の拳をコイツの顔に埋めたくなる。
「なんとか言え。なにかあるのなら相談に乗るぞ」
相談なんて出来るはずがない。
俺の幼なじみの状況をこいつに話せる訳がない。
思い出すだけで叫び出しそうになる怒りを口に出してしまえば、俺はおそらくこいつの事を殴り殺す。
無能教師。てめえは知ってるのか?
俺の幼なじみが脅迫されてる事を。
————————————————
アキと真綾のおかしな態度。
それがどうにも気になった俺は、あの後で、ついナツの家に向かった。
けどさ。十四階建てのマンションのエントランスでピポパ403。そのあとのピンポンが押せない。
彼氏も一緒にいるんだろうなって思ったら、なぜか押せなかった。
オッシャレーなマンションのオッシャレーなエントランス。そこそこ家賃も安いらしいここは人気の物件で、集合ポストの名札に空白は一つしかない。
どう考えてもナツはこどもではなく年頃の女で、どう考えても俺の存在は彼氏にとって穏やかじゃない。
どうしようなんて考えているうちに、気が付くと俺は自分の部屋に戻ってしまっていた。
次の日から、俺はナツを避けるようになった。
……なんていうか、それ以外に良い方法が思い浮かばなかったんだ。もうこどもじゃない俺たちは、昔のように付き合えない。
イタズラが大好きだったナツ。
いつも俺の後ろをくっついて回ってたナツ。
男の子みたいだったナツは成長して女になって、彼氏もいるし友達もいる。
俺は、授業が終わると誰よりも早く教室を飛び出る。
隣のクラスの幼なじみが俺の所に来る前に。
これ以上俺が生姜焼きを食って太る前に。
彼氏に殴りかかられて俺が殴り返す前に。
ナツと俺が普通に話せなくなってしまう前に。
何日か経つとナツは俺の所に来ないようになった。……避けられてると気付いたんだろう。
俺はほんの少し胸が痛んだけれど、これで良いと思った。避けるのは今だけだ。もうしばらくしたら俺たちは普通に付き合える。
少し時が経てば「昔の幼なじみ」として、普通の少し仲が良い友達になれるだろうしその方が絶対にいい。
……そんな風に考えたり思い込んだり信じこもうとしていた帰り道に学ランを掴まれた。最強の非力。
「ハル、ナツは?」
アキのタメ口。なんだったら俺の方が下の響き。
黒いマッシュルーム、キューティクルツヤツヤの髪に天使の輪が浮かんでる。
「ん……。今日は遊んでやれねえぞ」
「なっちゃんは?」
真綾が俺の手を引く。しっとりとしてすべすべの肌。小指の爪の形まで整っている。
「……別に、毎日一緒に居るわけじゃねえよ。いなくちゃいけないわけでもないだろ」
「ハル。毎日一緒にいなくちゃだめだ」
……なんだこのガキは。なんでてめえにそんな事を言われなくちゃいけないんだ?
「ハル、話をしよう」
有無を言わさぬ小学生。俺の両側を挟むように。
その手を振り払えない俺は、結局二人に連行された。
高等部近くの公園、そこで俺は真綾に買ってもらったジュースを握って芝生の上に座り込んでいる。
お返しに買ってあげたホットドッグ。小さな口を大きくあけて、はしたなくかぶりつく真綾はそのはしたなさすらも魅力に映る。外見の天才。愛される才能。
桃色のくちびるの周りについた赤いソース。ほらほらついてるよーなんて言って俺は人差し指でそれをぬぐってペロリ。親がこどもにしてやるように。
真綾えへへ。俺もえへへ。
つられて笑う春のバカ。ハルのバカ。
「ハル。……特修院では生徒達の間で流行ってる遊びがある」
最近のくさくさした気分を晴れさせようとしている俺の耳に、アキの冷たい声。
「万引きだ」
「は?」
「ナツはそれに巻き込まれて脅迫されている。……ハル。君はナツを守らなくちゃいけない」
「なに言ってんだテメエ。冗談のつもりだったらぶん殴る」
俺はやる男。本当にやれる高校生。
たとえ相手が小学生だろうが俺の拳が凶器だろうが、きっちり躾が出来る男。
……さて、マッシュルームにゲンコツを食らわせてやろう。これ見よがしに右の拳に、はぁ〜っ息を吹きかける。ほらほら痛いぞ痛いぞ日本を制した拳が落ちるぞ。ごめんなさいは今のうちだ。
きゅっ。俺の右拳に非力。
ホットドッグを咥えた真綾が首をふりふり。
「……ほんと」
はあ?
「ほんと」
「……ナツは万引きをしてる所を目撃された。それを種に脅迫されている」
「ちょっと待て。テメエはあいつの何を知ってる。あいつは万引きなんて、」
「ハル。……君が知ってるのは子供の頃のナツだ。君は知らない。ナツがどんな毎日を送っているのか。何に苦しんでいるのか」
なに言ってんだこいつは。
したりガオで説教臭く俺に口を開くガキ。本当に殴られてえのか?
「……なに言ってんだ。あいつは毎日楽しそうだ。鼻歌口ずさんで洗い物を、」
「君に会えたからだ」
「はあ?」
「君がいるから楽しいんだ」
するん。
耳から入って鼓膜を通って脳に行くはずのその言葉はなぜか俺の胸に落ちた。
ちゃぽん。広がる波紋。ざわつく肌。
「……詳しく聞かせろ」
アキ達と別れた俺は、ナツの部屋の中であぐらをかいている。
久しぶりの俺の訪問に嬉しそうに笑ったナツ。
満面の笑み。満開の桜。
「ねえハルー。ご飯食べてくでしょ? 今日はねー」
「座れよナツ」
まるで俺が部屋の主のように声を出す。
その声に何かを感じ取ったのか取ってないのか。
静かにナツは座って笑顔。その奥に怯え。
「特修院の女子の間で流行ってる事があるらしいな」
「なにそれ? ダイエット? 化粧?」
流行りと聞いて、真っ先にダイエットと化粧。
とぼけてるんだか知らねえが、確かにナツはもうこどもじゃない。
「万引きだよ。おまえ本当にそんな事してるのか?」
「誰がそんな……」
「したのか? してねえのか?」
うなだれるナツ。
俺の心の奥底からため息。
この……、バカが。
「それをやらないといじめられるのか?」
「……あ」
俺とナツは兄妹みたいに育った。
兄の前で言い訳は許されない。
ナツは感じ取っている。俺が本気で怒る寸前だという事を。
「そうなんだな」
「違うよ。いじめられるとかじゃないけど、なんかノリが悪いとか」
「同じだよ。 ……はあ〜〜。マジかお前は」
こいつがこんなアホになっているとは思わなかった。付き合いだかストレス発散だか知らねえが、こんな奴が俺の幼なじみ。
こどもの頃、イタズラが大好きだったナツ。
だけど万引きはイタズラじゃねえ。犯罪だ。
「初めから全部聞かせろ」
「ごめんね。ごめんねハル……」
「俺に謝ってどうすんだアホ。聞かせろ。俺はお前の味方だ。そうだろ?」
すん。鼻をすする音。
泣いてんのかこいつは。
ところが俺もバカなもんだから幼なじみの涙に弱い。頭をゆっくりと撫でてやるとナツはポツポツと語り出した。
ナツは普通の家の子だ。
ゲームクリエイターの中でも本当に一握りの凄い父親の子供で、特待生でもないのに特修院の高い学費を払える位の金持ちではあるけれど、別に家柄が凄いとかは全くない。
この学校に受験で入れるくらい頭は良かったけど入学してしまえば周りは全員同じくらいの学力を持っている。
初等部からエスカレート式に上がってきた奴らの中に放り込まれたナツは、今の俺と同じように周りに馴染めなかった。そんなナツは次第に人の目を伺うようになった。
人が笑うところで笑い、人が怒るところで怒る。
その場にいない人間の陰口で盛り上がり、その場に居る人間同士で仲が良さそうに振る舞う。
ま、珍しくない話だ。
そんなナツが高等部に進んだ頃、去年の話。
バカなご子息ご息女達の間でアホな事が流行り出した。
万引き。
「そんなもんは流行らねえだろ。特修院はそんな学校なのか?」
「他の中学から進学してきた子たちが昔の話をしてて。……よくあるでしょ? 不良自慢みたいなの」
家柄はダントツで勝ち、頭も良いし金もある。
ところがお坊ちゃん達は格下の特待生達に100メートル走では絶対に勝てない。
完璧なお嬢さまよりも特待生のモデルの方が百倍モテる。
そんな奴らの話を聞かされていた、ご子息、ご息女たちには彼らなりの抑圧された不満があった。途中入学の奴らの昔の武勇伝に対抗して、……あるいは、純粋に少し憧れたりしてその遊びは広まっていった。
つまり、マジでアホ。
ナツは特別な才能を持って特修院に居る訳じゃなかった。そんな遊びにも付き合わないとうまくやっていけなかったんだな。
本物の令嬢や紳士はそんな事はしない。
おほほほほご機嫌よう。そんな挨拶をする奴が特修院には普通に居る。メイドさんなんてのが家に居る奴らが本当にいるんだ。
そういう本物の上流階級よりも、少し俺たちに近い奴らの間で流行り出した遊び。
度胸試しのようなもの。
失敗の罰ゲームは退学。
報酬はドキドキ。
「なんだそりゃ。おまえらマジか?」
「だって、やらないとみんなに」
「なにがみんなだ。そんなのはみんなじゃねえ」
その遊びは次第にエスカレートする。
十円のチョコレートを万引きしていたのが段々値段の高い物へ。ところが、基本的にはみな金持ちだからそんなもん実際に欲しくはない。
万引きの対象は、よりスリルに溢れる物を盗む事に価値があるようになった。
「んで、アレ?」
「……うん」
本当に、一発くらいはひっ叩いてやった方がいいのかもしれない。なるほどね。それでコンドームとエロ本。
女子高生がこんなもん万引きして捕まるなんて聞いた事がない。恥ずかしいどころの話じゃねえだろ。
「で。それを見られたのか?」
ナツは返事を返さない。
その様子を見て俺の脳裏にあいつの顔。……常夫。
エロ本を万引きする女子高生を発見したチャラ男。
「おまえ、なんかされてんのか?」
「さ、されてないよ。されてない、けど」
写真を撮られた。
「万引きの?」
「……それもあるけど、下着、とか」
こいつ、正気か? 本気でアホなのか?
「……初め、やらせろって言われて」
言うな。その言葉言うな。
「そんなの絶対に無理だって言ったら……じゃあ顔隠していいから写真撮らせろって」
「テメエはバカかッッ!!」
部屋に響き渡る怒声にナツの体がビクリ。ぷっくりとしたくちびるの奥、ノドから変な声がひくり。
怯えた目と声で、俺の幼なじみが俺の事を見ている。
……もう、涙を隠さないナツは震えている。
誰に? ……おい、まさか俺に?
成長した幼なじみはこどもから女になっていた。
俺は認めなくちゃいけない。俺は男でこいつは女で、態度を含めた俺の暴力はこいつにとって充分脅威になるんだって事を。
こいつは、同じように震えながら、常夫の暴力の気配に震えながら自分で下着を見せて、それを写真に撮られたのか?
「……もういい。写真撮られただけなんだな? 今のところは」
だけって事はねえけどな。つーかある意味最悪なんじゃねえのか? 一歩手前だろこれ。
「うん。 ……最近、家まで来るの。やらせろって。いつか中まで入ってこられそうで。怖いよ……」
……だからそれ言うなよマジで。
「こんな事言うのもアホらしいんだけど、やらせんなよ」
予想以上にバカになっていた幼なじみはひょっとしたら別の部分でも変化を遂げているのかもしれない。例えば貞操観念がゆーるゆるになってたりとか。あり得ない? あり得ないってことねえだろ。こいつかなりのバカだぞ。余裕であり得るよ。
けどまあ、それだったらそれで楽っちゃ楽だ。そこまでのバカになってたらもう俺には本当に関係ない話だし、さっさと帰ってジョギングにでも、
「やらせる訳ないよ。ハルだけだもん」
ほ?
今、なんて言った?
普通だったらこう尋ねるべきなんだろうけど、あいにく俺の耳には完璧に届いてしまった。
ハルだけだもーん。ぼくナツえもーん。ははは。
……やべえ。
なーんちゃってーー って言えよ。
なに黙ってんのおまえなに下向いてんのおまえ。
さっきまでの陰鬱な空気に窓からの風がふわり。
女になっていた幼なじみに俺の胸がドキリ。
曲がり角からいきなり襲ってきた暴言に頭の中がふーわふーわのドッキドキ。
柔らかそうなぷっくりくちびるを所在なさげに指で弄っている幼なじみは真っ赤な顔で俺の望んでいる言葉を吐いた。
「……なんちゃって」
ヤバっ!!
「ねえハル。……約束覚えてる?」
やめろよおまえ。
幼なじみとの約束とかこの場面で出すんじゃねえ。
しかし、俺の頭の中には約束なんて覚えがない。
「…………」
「まさか、忘れちゃった?」
何回も見たことあんぞこういうの。
けどな、ダメなんだよ。そういうのは伏線張っておかないとダメなんだよ。急に言い出すのは反則なんだよ。言っただろ? 俺は家じゃ本ばっかり読んでるって。
「ちっちゃい頃、二人で『駆け落ち』して。あはは。意味も分かってなかったんだけど、私はあの時、すっごく嬉しくって……」
何言ってんだこいつ。今でも駆け落ちの意味わかってねえんじゃねえのか? してるはずねえ……、
「けど、お腹減ったって言ってすぐに家に帰って。そしたらお父さん凄い怒り出して。
こんなにすぐに帰ってきやがって。この根性無し共がーーって」
……やべえ。俺、伏線張ってた。
つーかアレ、駆け落ちだったの? 家出じゃなくて? ヤバい全然覚えてない。なんて言えばいいのか全く分からない。正解が見えてこねえ。
そこで俺は気付く。なにが正解?
俺こいつとエロい事したいの? 違うでしょ? 妹でしょ? 昔みたいに遊べりゃいいなでしょ?
見えた正解。とりあえず帰る。
するとナツが腰をあげる。俺の方に近付こうと。
すぐさま俺は先手を打って立ち上がる。
そのまま玄関に向かい颯爽と滑走して助走なしで脱走。あ 待って、なんて後ろから聞こえる言葉に心の中であっそう。このままここに居たら戦争が始まる。その前に俺は逃走。自由を求め外へ疾走。
暴走しそうなあいつを残してな。イエーア。
家では音楽ばかり聴いている俺の魂のライムは空回る。泡食った俺はエレベーターも使わずに階段で下の階に降りる。誰もいないのを良い事にエレベーターの前で座り込む。
俺の心臓は試合前の緊張を遥かに通り越してドンドンタンタンドンドンタンタン生命の太鼓を鳴らしている。
「やっっべえ」
考えなくちゃいけない。色々な事を。
脈拍が落ち着くのを待って五分以上。
するとエレベーターが、ふぉーん……動く音。
ふう、とりあえず帰るかっつって降りるボタンをポチり。ふぉーん。チーン。ガーっ。開けゴマ。
そこにいたのは常夫。
「お……」
「乗らないの?」
何も言う事が出来ない。
あまりにも予想外で、思わず顔を見られないように目を伏せる。
常夫は俺の為にボタンを押してドアを開けている。
「ちょっと、乗らないの?」
「いや……、乗る」
俺がエレベーターに乗り込むと常夫はボタンを離した。
ふぉーん。
エレベーターの動く音だけが響く密室の中で、俺は常夫の顔を伺う。
近くで見る常夫は優しそうな顔をしていた。
クッキリとした二重の垂れ下がった目。
浅く焼けた肌とジャラジャラと身につけているアクセサリーがいかにもチャラい感じがするけど、全体的に見ればフッツーーの奴だ。ちょっと悪そうなイケメン。女にモテそうな奴。
こいつが俺の幼なじみを。
落ち着き出した生命のスネアの脈動が、闘争のドラムの響きに変わる。……やるか? ここで。
こんな密室で俺が本気になれば、こんなヤツ一分もかけずに殺せる。もちろん殺すつもりなんてないが殴るつもりはかなりある。
けれど、それは俺の学校生活の終わりを意味する。
インターハイ王者が素手で喧嘩。
理由は? 当然、ナツの万引きが表沙汰になる。
俺もクビ。ナツもクビ。誰も笑えない結末。
チーン。
一階のエントランスに出て行く常夫はそのまま外に消えていった。
その後ろ姿を眺める頃に、やっと俺の中に湧き出す感情。明白な怒り。
あいつが俺の幼なじみを泣かせた。
妹みたいに大切な奴を泣かせた。
見上げるとナツの部屋。あいつはあそこに行ったのか。
俺がナツの家から飛び出して、エレベーターに乗るまでの間に、あいつはナツの家に行って「あっそびーましょー やーらっせてー」……殺す。
かなり本気で考えている事に気付いて、俺は自分がその場にいなかった幸運にも気付く。
ひょっとしたら目の前でそんなものを見る可能性があった。そしたら俺は、たぶん抑えきれなかった。
今日、俺もナツも学校生活が終わってる可能性が大いにあった。
考えなくちゃいけない。
俺は考えなくちゃいけない。
どうやったらナツの事を助けられるのかを。
————————————————
「おい。聞いているのか? なにか悩んでるんだったら言ってみろ。相談に乗るぞ」
湧き上がる怒りを抑えて数学教師の顔を見る。
生徒指導のこの教師と二人きりになれるのを待っていた。
何かをしなくちゃいけないと思って空回りを続ける俺の脳味噌は、まず一番簡単でなおかつ確実な手段に俺を向かわせた。先生に言っちゃえばいいじゃないって。
万引きは確かに悪い。だけどそれをネタにして女を脅迫してあわよくばレイプしようとしてる奴の方が百倍悪いわ。なにがやらせろよだ。レイプって言うんだよそれは。湧き上がるマグマ。
とりあえずそれを沈めて数学教師の顔を見る。
もしも、もしも俺が全てをこいつに話したらどうなるのか。
分からない俺は話を少し変えてから口を開く。
「センセー知ってます? 噂なんですけど、特修院には秘密の部活があるって。本当なんですかね?」
「なんだ秘密の部活って。秘密にする理由がどこにある」
「犯罪をするんです。人を脅迫したりとか」
「下らん。……バカバカしいにも程があるぞ。おまえ、まさかそんな話をする為にわざと反抗的な態度を取ったのか?」
「けど先生。本当らしいんですよ」
ちょっと本当だぜ。部活なんかじゃねえけどな。
キャッチーなフレーズ。これ大事。
「なんか、組織的に万引きをさせてるとか……」
眉毛ピクリ。お? こいつ万引きの事は知ってんのか? ヤバい。
「組織的に、させている、のか?」
まあそこは大事だよな。してるとさせられてるじゃだいぶ違うもんな。
「らしいですよ。けど先生、そうだとしたら、させられてた子はどうなるんですかね。だってその子は」
「当然退学だ」
……ですよねー。
「二十七番。本当に組織的なのか?」
「僕だって転校してきたばっかなのに詳しくは分かりませんよ」
「誰に聞いた」
「言えません」
黙る教師。
ヤバい。こいつ出来る奴だ。無駄な事は喋らないで俺の事を測ってる。さすが人間を番号で呼ぶ男。
「犯罪クラブか……」
お。キャッチーじゃん。
やるな数学教師。無能な生徒指導しかしてねえくせしやがって。
「そんなものはない。帰っていいぞ」
話は終わったと背を向ける教師。
俺も用事は済んだのでさっさと外に出た。
校庭から生徒達の声が。
のどかな日差しといつも通りの賑わいが、学校の中に満ちている。ナツ。おまえはここで、今までどんな生活を送ってたんだ?
あいつはなんでエロ本もコンドームも捨ててしまわなかったんだろう。普通なら捨てるように思う。あるいは隠すんじゃないかと思う。
俺は、見過ごしてたのか? 聞き逃してたのか?
おまえの声を。助けてっていうサインを。
……さて、俺はやらなくちゃいけない。
幼なじみを助ける為に。
生徒指導教師のあの感触だと常夫の事をチクっても共倒れになる。それに万引きが流行ってる事は知ってる感じもした。
「犯罪クラブね」
口に出して言葉にしてみるとなかなか良い名前。
常夫をそれの黒幕にするか?
けどあいつを首謀者にする話をでっち上げたところでナツは退学になるだろう。
だったら、俺がそれになるか?
教師の介入は期待出来ない。
俺のお得意の腕力を使えばこっちが悪くなる。
ナツは脅迫されている。
じゃあ、俺も同じ事をするのはどうだろうか。
常夫に脅迫を。
どうせ叩けば埃が出る奴だし、暴力の怖さは知っているだろう。殴らなくても俺の名前は抑止力になるんじゃないか?
思い立ったらとりあえず動く。
時間はおそらくそんなにない。
まだ日は高い春の放課後。
俺は一人で動き出す。
「なんの用? キミあれだろ? 今年編入してきた天才ボクサーだろ?」
知っているなら好都合。
本題も切り出しやすい。
「おまえ俺の幼なじみにちょっかい出してんだろ。やめろ」
高等部近くの大きな公園。
そこで俺と常夫は向かい合っている。
「なんの話? 口説いてるって事? それは人に言われてやめる事じゃないよ。……それとも別の事?」
こいつ。
もういっそ殴り飛ばしちまおうかなーなんて、うららかな春。
「うるせえ。おまえ俺の事知ってんだろ? 怒らせたいのか?」
「怒ったらどうするんだ? 殴るのか? ……はは。俺も負けないぞ。ほら来なよ」
へっぴり腰でジャブの真似事をする常夫。
こいつ、いっちょまえに俺を挑発してやがるのか?
ヘラヘラ笑いながら拳を突き出す常夫はすぐに息を切らせてそれをやめる。
「なんだよ。……キミ、ナツの恋人なの?」
「ちげえよ。テメエ脅迫してるんだろ。そんなのバラされたら困るのはおまえの方じゃねえのか」
「証拠は?」
「……はあ?」
「あるよ。こっちには万引きの証拠写真が。他の写真もいっぱいあるけど」
カッとなる頭を必死で鎮める。
大丈夫。こんなのは慣れてる。
試合で殴られて『こいつぶっ殺す!!』右手を振り上げた所でゴングがカーン。右手を撃ち抜いたらルール違反。
俺はクレバーになる事に慣れている。
「俺は脅迫なんてしてないよ。けど、もしも俺がそれで学校を辞める事になったとしても、それだけの話だ。……それでも、あんな写真バラまかれたらキミの幼なじみは人生終わっちゃうよ」
「やれよ」
なに言ってんだこのバカ。
顔も映ってねえ下着写真、そりゃあ嫌だろうけど人生終わるってほどのもんじゃねえ。
「本当にいいの? これだよ?」
常夫が握るスマートフォン。そこに写ってた画像。
黒髪の女が足を広げて自分の指で、
カーン。ゴングは鳴った。
「ぶっっ」
ッッパァーン!
俺のジャブ。
神の瞳を持つ天才高校生ボクサーの不調ながらも極上のジャブ。チャラ男の浮わついた動きなんて俺からすれば止まって見える。これだけ実力に差がある相手に手を出すのはルール違反。……ルール違反? ルール違反だろうが関係ねえ。先にルールを破ったのはこいつだ!
胸の底から湧き出るマグマを全てを焼き尽くすような熱量を。灼熱のヘドロを喰らえ。ぽっかり間の抜けた口から注いでやる汚物をもっと喰らえ。欠けて飛んだ前歯が日の光の下でキラリ。その前歯が落ちるまでの間に俺はこいつを五発は殴れる。
死ね。
「ストップストップ」
後ろから羽交い締め。そのまま首を絞められる。
「カッっ…!!」
「落ちつけ落ちつけ。おい、もう一回画像見せてやれよ」
「がっ……がひっ!!」
誰だ? こいつは誰だ!?
不意を突かれた俺の首にはしっかりと腕が入り込んで完璧に極まっている。格闘系をかじってる人間なら分かる確実な事実。俺の方がヤバい。
「ぶ……、か、いってえ。マジかこいつ……!!」
常夫の顔から鼻血ダラダラ。口の中からもダラダラ。
「マジかよ……歯、欠けて」
「さすがインターハイ王者。おい。早くもう一回見せろって。こいつまた暴れるだろ」
歯を探そうとしていた常夫は血の混じった唾液を吐いてから俺を睨む。
「なに睨んでやがんだコラッッ!!」
「うおっ、……おい、早くしろって!!」
暴れる俺の首に腕が食い込む。
その時になって俺はようやくクレバー。
あ、後ろから先にやればいいじゃん。
幸い後ろは俺の事を絞め落とそうとはしていないらしい。だったらいくらでもブチ殺す方法はある……とまで思った時に、俺の目の前にさっきのスマートフォン。
「……あ?」
見たこともない女。
超巨乳。可愛い。
「分かったか!? テメエの幼なじみの画像じゃねえだろ!!」
うん。コクリ。
俺の後ろの奴の力が少しだけ緩む。
あ、どうしようって思ったら今度はそいつのスマートフォンが目の前に。
今度は動画。常夫を殴る俺。
「分かったか!? テメエの立場が!!」
うん。コクリ。
……ヤバい。