灰を纏う花嫁は、暁の鐘が鳴るまで夢を見る
人は幸福の絶頂にいるとき、自分がどれほど高い場所に立っているのか気づかない。
足元に広がる景色が美しければ美しいほど、その下にある深い闇など見ようともしないからだ。
ネリシア・ヴァルクレインがそのことを知ったのは、最愛の人から結婚を申し込まれた日の、わずか七日後だった。
それまでは、彼女も信じていた。
苦しみに耐えた人間には、いつか必ず報いがあるのだと。
善良であり続ければ、誰かが手を差し伸べてくれるのだと。
そして何より、愛する人が差し伸べた手だけは、決して自分を裏切らないのだと。
だから彼女は、最後の最後まで笑っていた。
白い婚礼衣装を身に纏い、祝福の鐘が鳴り響く王宮の大聖堂で、愛する王子の手を握りながら。
自分の足元に敷かれた純白の絨毯が、何千人もの花嫁の骨を砕いて織られたものだとも知らずに。
◆◇◆◇◆
ヴァルクレイン伯爵家の朝は、いつも銀食器の音から始まる。
もっとも、それは食堂で朝食を楽しむ貴族たちの話であって、屋敷の地下にある洗濯室で目を覚ますネリシアには関係のないことだった。
「ネリシア! いつまで寝ているつもりなの!? お母様のお茶が冷めてしまうでしょう!」
階段の上から響いた甲高い声に、ネリシアは薄い毛布を跳ね除けた。まだ夜明け前だというのに、フェルミアはすでに機嫌が悪いらしい。
「申し訳ありません、お姉様。すぐに参ります」
「お姉様ですって? その呼び方、やめてくださらない? あなたみたいな汚らしい女と姉妹だなんて、考えただけで鳥肌が立つわ!」
階段を駆け上がると、フェルミアが絹の寝衣姿で待ち構えていた。金色の髪は丁寧に梳かされ、白い頬には朝から薄く化粧が施されている。彼女はネリシアの姿を一瞥すると、露骨に鼻をしかめた。
「まあ、ひどい臭い。ちゃんと身体を洗っているの?」
「昨夜、洗濯を終えたあとに水浴びをしました」
「水浴び? あら、可哀想。お湯を使うお金もないのね。でも仕方ないわよね。あなたはこの家に置いてもらっているだけなんですもの」
フェルミアは楽しそうに笑うと、手にしていた扇子でネリシアの肩を軽く叩いた。
「それより、今日の夜会用のドレスは仕上がったの?」
「はい。昨夜、最後の刺繍を終えました」
「本当に? だったら早く持ってきてちょうだい。もし一箇所でも縫い目が曲がっていたら、また最初からやり直してもらうわよ」
ネリシアは小さく頭を下げ、衣装室へ向かった。
その背中を見送りながら、フェルミアは退屈そうに欠伸をする。
彼女にとってネリシアは姉妹ではない。便利な裁縫道具であり、無料で働く使用人であり、気に入らないことがあればいつでも八つ当たりできる存在だった。
それが当たり前になったのは、五年前のことだ。
父が急死し、継母モルディナが伯爵家の実権を握ってから、ネリシアの生活は少しずつ変わっていった。
最初は食堂の席がなくなった。
次に自室を取り上げられ、衣装や宝石を売り払われた。
やがて使用人たちが次々と解雇され、その仕事をすべて押しつけられるようになった。
今では、屋敷の誰も彼女を伯爵令嬢とは呼ばない。
ただ一人、亡き母の墓を守る老庭師だけが、時折「お嬢様」と呼んでくれた。
けれど、その老庭師も昨年の冬に亡くなった。
ネリシアにはもう、味方と呼べる人間が一人もいなかった。
衣装室の扉を開けると、窓から差し込む朝日が、一着のドレスを柔らかく照らしていた。
淡い薔薇色の絹地に、銀糸で細かな花模様を刺繍したものだ。胸元から裾にかけて、まるで春の庭園を風が通り抜けていくように花々が連なり、袖口には小さな真珠が縫いつけられている。
完成までに二十七日かかった。
指先には無数の針傷が残り、右手の人差し指は腫れて曲げることさえ難しい。
それでも、ネリシアは完成したドレスを見て微笑んだ。
「……綺麗」
誰かのために美しいものを作ることが、彼女は好きだった。
たとえ、その相手が自分を嫌っていたとしても。
母は生前、よく言っていた。
『ネリシア。美しいものを作る手は、人を傷つけるために使ってはいけませんよ。あなたの手から生まれたものが、いつか誰かの幸せになりますように』
ネリシアは母の言葉を信じていた。
だからこそ、どれほど辛い仕打ちを受けても、自分まで醜い人間にはなりたくなかった。
しかし、その日の午後。
彼女が仕上げたドレスを試着したフェルミアは、鏡の前で突然顔を歪めた。
「……何よ、これ」
「いかがなさいましたか?」
「胸元が気に入らないわ。もっと華やかにしてって言ったでしょう!」
「ですが、お嬢様。先日、王宮の夜会には上品な装いが望ましいと……」
「口答えするつもり!?」
乾いた音が響いた。
フェルミアの平手がネリシアの頬を打ち、彼女の身体が衣装棚にぶつかる。
棚の上に置かれていた裁縫箱が落ち、床一面に針と糸が散らばった。
「誰が意見を求めたのよ! あなたは黙って言われたことをしていればいいの!」
「……申し訳、ありません」
「謝るくらいなら、今すぐ直してちょうだい!」
ネリシアが床に膝をつき、散らばった針を拾い始めたところで、衣装室の扉が開いた。
「騒がしいわね。何事です?」
入ってきたのはモルディナだった。
深紫色のドレスを着た彼女は、ネリシアの赤く腫れた頬を見ても眉一つ動かさず、娘の不満を聞くと、面倒そうにため息をついた。
「フェルミア。そんなことで怒鳴るものではありません。使用人の仕事が気に入らなければ、やり直させればよいだけでしょう」
「だって、お母様! 今夜は第二王子殿下がいらっしゃるのよ! こんな地味なドレスでは目立てないわ!」
「分かっています。だからこそ、あなたには今夜、必ず殿下のお目に留まってもらわなければなりません」
モルディナは娘の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「ヴァルクレイン家が再び栄華を取り戻すためには、王家との縁が必要なのです。あなたは美しい娘ですもの。きっと殿下もお気に召すでしょう」
その言葉を聞きながら、ネリシアは黙って針を拾い続けた。
王宮の夜会。
今夜、王都では五年に一度の大祝宴が開かれる。
王族と貴族だけが招かれる、華やかな催しだ。
かつて父が生きていた頃、ネリシアも一度だけ王宮の庭園を訪れたことがあった。噴水の周囲には白い花が咲き、夜になると無数の灯火が空中に浮かび、まるで星が地上に降りてきたようだった。
あの景色を、もう一度見てみたい。
そう思った瞬間、モルディナが彼女を見下ろした。
「ネリシア。あなたは今夜、留守番です」
「……はい」
「屋敷の掃除と洗濯、それから明日の朝食の仕込みを済ませておきなさい。私たちが帰るまでに終わっていなければ、食事はありません」
「承知いたしました」
ネリシアは頭を下げた。
最初から期待などしていなかった。
それでも、胸の奥に生まれた小さな寂しさだけは、どうしても消すことができなかった。
◆◇◆◇◆
夜になり、屋敷から馬車の音が遠ざかっていくと、ネリシアは一人で厨房に残された。
大きな鍋には翌朝のためのスープが煮込まれており、薪の燃える音だけが静かな室内に響いている。
彼女は仕事を終えると、余った黒パンを一切れ取り、窓辺に腰を下ろした。
外には雪が降り始めていた。
王宮の方角には、淡い金色の光が見える。
今頃、フェルミアは華やかな舞踏会で踊っているのだろう。
美しい音楽に囲まれ、豪華な料理を食べ、誰かと笑い合っているのかもしれない。
「……一度くらい、行ってみたかったな」
誰に聞かせるでもなく呟いたときだった。
「だったら、行けばよいではありませんか」
背後から声がした。
驚いて振り返ると、厨房の入り口に一人の老婆が立っていた。
黒い外套を纏い、銀色の髪を後ろで束ねた小柄な女性だ。手には古びた木箱を抱え、その瞳は不思議なほど澄んでいた。
「ど、どなたですか? どうやって屋敷の中に……」
「扉から入りましたよ。鍵は開いておりましたので」
「そんなはずは……」
「昔から変わらない屋敷ですね。台所の窓も、床板の軋む音も。けれど、ここに住む人間は随分と変わってしまったようです」
老婆は室内を見渡し、ネリシアの腫れた頬に目を留めた。
「あなたがネリシアですね」
「……はい」
「お母様によく似ていらっしゃる」
その言葉に、ネリシアは息を呑んだ。
「母をご存じなのですか?」
「ええ。若い頃、王宮で何度かお会いしました。私はオルザ・メルグレイヴ。今は王宮の衣装係をしております」
オルザは椅子に腰を下ろすと、抱えていた木箱を食卓の上に置いた。
「あなたのお母様には、随分と助けていただきました。ですから今夜は、その恩返しに参ったのです」
「恩返し……?」
「あなた、舞踏会に行きたいのでしょう?」
ネリシアは困ったように微笑んだ。
「お気持ちは嬉しいのですが、私には着ていくドレスもありません。それに、招待状も……」
「招待状なら、あなたのお名前で一通用意してあります。伯爵家の令嬢であることに変わりはありませんからね」
「でも、ドレスは……」
「それも心配ありません」
オルザが木箱の蓋を開けた。
中に収められていたのは、一束の銀糸だった。
しかし、それは普通の糸ではなかった。
月明かりを閉じ込めたような淡い光を放ち、触れてもいないのに、箱の中でゆっくりと揺れている。
「これは《月縫いの銀糸》と呼ばれるものです。王家に古くから伝わる特別な糸で、持ち主の願いを形にする力があります」
「願いを……?」
「ええ。ただし、願いには必ず代価が必要です」
オルザは銀糸を一本摘み上げた。
「あなたが今夜、最も望むものは何ですか?」
ネリシアはしばらく考えた。
継母から解放されたい。
温かな食事を食べたい。
柔らかな寝台で眠りたい。
欲しいものを数えれば、きりがなかった。
けれど、今夜だけは。
「……母が見た景色を、もう一度見たいです」
オルザの表情がわずかに変わった。
「それだけですか?」
「はい。母は王宮の舞踏会が大好きでした。私が幼い頃、いつか一緒に踊ろうと約束してくれたんです。でも、その約束は叶いませんでしたから……」
ネリシアは照れくさそうに笑った。
「せめて今夜だけでも、母が好きだった場所で、母のことを思い出していたいんです」
長い沈黙が流れた。
やがてオルザは、静かに目を伏せた。
「……そうですか。では、あなたの願いを叶えましょう」
銀糸が宙に浮かび上がった。
一本、二本、三本。
無数の糸がネリシアの周囲を巡り、彼女の古びた衣服に絡みついていく。
次の瞬間、薄汚れた麻布がほどけるように消え、代わりに淡い銀色の光が全身を包み込んだ。
光が収まったとき、そこには一着の美しいドレスが現れていた。
夜空を思わせる深い青色の絹地に、銀糸で星々が縫い込まれている。裾には幾重もの薄布が重なり、歩くたびに水面のような輝きを放った。
髪は柔らかく結い上げられ、耳元には小さな月長石の耳飾りが揺れていた。
「……これが、私?」
ネリシアは呆然と鏡を見つめた。
そこに映っていたのは、地下室で働くみすぼらしい娘ではなかった。
まるで物語に登場する王女のような、美しい令嬢だった。
「綺麗……。こんなに綺麗なドレス、初めてです……!」
目に涙を浮かべるネリシアを見て、オルザは優しく微笑んだ。
「よくお似合いですよ」
「ありがとうございます! でも、代価は……?」
「今夜が終わるまで、あなたの影を預かります」
「影、ですか?」
「ええ。夜明けの鐘が鳴れば、影もドレスも元に戻ります。ですから、それまでに必ず帰ってきなさい」
ネリシアは床を見た。
確かに、燭台の光に照らされているはずの足元に、影がない。
不思議なこともあるものだと思ったが、恐怖は感じなかった。
「分かりました。必ず戻ります」
オルザは頷き、最後に小さな靴箱を差し出した。
「こちらもお持ちなさい」
中には、透明な硝子細工のような靴が収められていた。
しかし、よく見るとそれは硝子ではなく、薄い銀色の結晶で作られている。
「《月晶の靴》です。銀糸と同じ力を宿していますから、決して他人に渡してはいけません」
「はい。大切にします」
ネリシアは靴を履き、鏡の前で一度だけ回ってみた。
裾がふわりと広がり、星屑のような光が舞い散る。
その姿を見たオルザは、なぜか泣きそうな顔をした。
「……どうか、今夜だけでも」
「オルザ様?」
「いいえ。何でもありません」
老婆は笑った。
「さあ、お行きなさい。馬車を用意してあります」
ネリシアは何度も礼を言い、屋敷を飛び出した。
雪の降る庭には、白い馬が引く小さな馬車が待っていた。
彼女が乗り込むと、御者は無言で手綱を握り、馬車は王宮へ向かって走り出した。
その後ろ姿を、オルザはいつまでも見送っていた。
やがて馬車が見えなくなると、彼女は木箱の底に残された一枚の古い羊皮紙を取り出した。
そこには、ネリシアの母の名前が記されていた。
そして、その隣には赤い文字で、こう書かれていた。
『第七十三代候補。適合せず。処分済』
オルザは羊皮紙を握り潰した。
「……今度こそ、間に合っておくれ」
その祈りを聞く者は、誰もいなかった。
◆◇◆◇◆
王宮の大広間は、眩い光に満ちていた。
天井から吊るされた巨大な水晶灯が幾千もの光を反射し、磨き上げられた大理石の床には、色鮮やかなドレスを纏った貴族たちの姿が映り込んでいる。
楽団が奏でる優雅な旋律に合わせて男女が踊り、給仕たちは銀盆に載せた葡萄酒や菓子を運んでいた。
ネリシアは広間の入り口で立ち止まり、思わず息を呑んだ。
「……すごい」
幼い頃に見た景色より、ずっと美しい。
天井には魔法で作られた星空が広がり、淡い光を放つ蝶が空中を舞っている。
その蝶の一匹がネリシアの肩に止まると、彼女は小さく笑った。
「こんばんは。あなたも舞踏会に来たの?」
蝶は羽を震わせ、再び空へ飛び立っていった。
その様子を、少し離れた場所から一人の青年が見つめていた。
銀色の髪に、澄んだ青い瞳。
白を基調とした礼装には王家の紋章が刺繍され、胸元には深紅の宝石が輝いている。
第二王子ディルヴェン・アルトレシアだった。
「……珍しいな」
彼は小さく呟いた。
王宮の幻光蝶は、人の感情に反応する魔法生物だ。
恐怖や怒りを抱く者には近づかず、心が穏やかな者の周囲を好んで飛ぶ。
だが、あれほど多くの蝶が一人の人間に集まる光景を、ディルヴェンは初めて見た。
「失礼、お嬢さん」
声をかけられたネリシアは、驚いて振り返った。
そして、目の前に立つ人物の顔を見て硬直する。
「で、殿下……!?」
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。今夜は身分を忘れて楽しむための祝宴ですから」
ディルヴェンは穏やかに微笑んだ。
「それより、あなたのお名前を伺っても?」
「ネ、ネリシアと申します」
「ネリシア。美しい名前ですね」
王子は彼女の手を取った。
「よろしければ、一曲お相手いただけませんか?」
ネリシアは言葉を失った。
周囲の貴族たちが一斉にこちらを見ている。
その中には、フェルミアとモルディナの姿もあった。
フェルミアは信じられないものを見るように目を見開き、母親の袖を掴んでいる。
「あ、あの女……誰なの!? どうして殿下が、あんな女に……!」
「落ち着きなさい。見苦しいですよ」
「でも、お母様!」
「今は様子を見るのです」
一方、ネリシアは必死に首を横に振っていた。
「申し訳ありません、殿下。私は舞踏会で踊った経験がほとんどなくて……」
「それなら、私が教えましょう」
「でも、足を踏んでしまうかもしれません」
「そのときは、私が少し痛い思いをするだけです」
ディルヴェンは楽しそうに笑った。
「それとも、私と踊るのはお嫌ですか?」
「い、いいえ! そんなことは……!」
「では、決まりですね」
王子に手を引かれ、ネリシアは広間の中央へ進んだ。
楽団が新しい曲を奏で始める。
ディルヴェンは彼女の腰にそっと手を添え、ゆっくりと足を運んだ。
「まずは私の動きに合わせてください。難しく考えなくて大丈夫です」
「は、はい……!」
最初の数歩はぎこちなかった。
けれど、ディルヴェンは一度も急かさず、ネリシアが間違えるたびに優しく導いてくれた。
やがて彼女の緊張が解けると、二人の足取りは自然に揃い始めた。
「……お上手ですよ」
「殿下が教えてくださったおかげです」
「いいえ。あなたには才能があります」
ディルヴェンは微笑んだ。
「それに、あなたはとても楽しそうだ」
その言葉に、ネリシアは思わず顔を上げた。
「……はい」
そして、心から笑った。
「とても、楽しいです」
王子の瞳が、わずかに揺れた。
彼は何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込み、代わりに彼女の手を少しだけ強く握った。
その夜、二人は何度も踊った。
途中で庭園へ出て、雪の降る噴水を眺めながら話をした。
ネリシアは母の思い出を語り、ディルヴェンは幼い頃に兄と庭園で遊んだ話をした。
王子は自分の立場を誇示することもなく、彼女の話に真剣に耳を傾けてくれた。
「ネリシア。あなたは、今の暮らしに満足していますか?」
庭園の東屋で、ディルヴェンが尋ねた。
ネリシアは少し迷ったあと、正直に答えた。
「……満足しているとは、言えません」
「それは、どうして?」
「私には、自由がありません。自分のために何かを選ぶことも、誰かと親しくすることも許されないんです」
言ってしまってから、彼女は慌てた。
「す、すみません! せっかくの夜会なのに、こんな暗い話を……!」
「謝らないでください」
ディルヴェンは静かに首を振った。
「あなたが苦しんでいるのなら、私はその理由を知りたい」
その声は、驚くほど優しかった。
「もし、あなたが望むのなら……」
王子はそこで言葉を止め、少し考えるように視線を落とした。
「いいえ。今はまだ、言うべきではありませんね」
「殿下?」
「いつか、あなたが自由に笑える場所を用意したいと思っただけです」
ネリシアの胸が、熱くなった。
誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
ネリシアははっと顔を上げた。
夜明けまで、もう時間がない。
「……申し訳ありません、殿下。私、帰らなければなりません」
「もう少しだけ、一緒にいていただけませんか?」
「ごめんなさい。どうしても、帰らなければ……」
ネリシアは深く頭を下げ、庭園を駆け出した。
ディルヴェンが何かを呼びかけたが、振り返る余裕はなかった。
大理石の階段を駆け下り、馬車の待つ門へ向かう。
その途中で、右足の靴が脱げた。
「あっ……!」
振り返ると、銀色の靴が階段の途中に転がっていた。
拾いに戻ろうとした瞬間、遠くで四度目の鐘が鳴った。
ネリシアは迷った。
けれど、オルザの言葉を思い出し、そのまま走り続けた。
やがて彼女の姿は、雪の降る夜の中へ消えていった。
残された靴を、ディルヴェンが拾い上げる。
月晶の表面には、淡い光が宿っていた。
王子はそれを見つめ、長い間、何も言わなかった。
そして、ようやく小さく呟いた。
「……見つけた」
その声は、誰にも聞こえなかった。
◆◇◆◇◆
翌朝、王都には驚くべき知らせが広まった。
第二王子ディルヴェンが、昨夜の舞踏会で出会った令嬢を探しているというのだ。
しかも、王子はその女性を正式な婚約者として迎えたいと申し出ているらしい。
王宮から派遣された使者たちは、貴族の屋敷を一軒ずつ訪れ、銀色の靴を持ち主に返そうとしていた。
靴には特別な魔法が施されており、本来の持ち主が履いたときだけ、銀色の光を放つという。
当然、ヴァルクレイン家も大騒ぎになった。
「フェルミア! あなた、昨夜殿下とお話ししたのでしょう!?」
「ええ、お母様! ほんの少しだけですけれど……でも、きっと殿下は私のことを覚えていらっしゃるわ!」
「ならば、靴が合う可能性もありますね」
「もちろんよ! だって、私ほど美しい娘は王都にもそうはいないもの!」
母娘は朝から衣装を選び、宝石を並べ、使用人たちに屋敷中を磨かせていた。
ネリシアはその騒ぎを、厨房の隅から聞いていた。
昨夜の出来事が夢だったように思える。
けれど、左足にはまだ月晶の靴が残っていた。
夜明けとともに消えるはずだった靴は、なぜか消えなかったのだ。
オルザの姿も、朝になってから見かけていない。
ネリシアは不安になったが、それ以上に、王子が自分を探しているという事実に胸が高鳴っていた。
もしかしたら。
本当に、あの人ともう一度会えるのかもしれない。
そう思った瞬間、厨房の扉が勢いよく開いた。
「ネリシア!」
モルディナだった。
彼女は険しい顔で近づくと、ネリシアの腕を掴んだ。
「昨夜、あなたはどこにいたのです?」
「……厨房で、仕事をしておりました」
「嘘をおっしゃい!」
モルディナは彼女を壁に押しつけた。
「屋敷の門番が見たそうよ。夜中に、見知らぬ馬車が出入りしていたと!」
「それは……」
「あなた、まさか舞踏会へ行ったのではないでしょうね?」
ネリシアは答えられなかった。
その沈黙だけで、モルディナには十分だった。
「……なんてこと」
彼女の顔から血の気が引いた。
「あなた、殿下に会ったのね?」
「……はい」
「そして、殿下と踊った?」
「……はい」
モルディナは数秒間、呆然と立ち尽くした。
次の瞬間、ネリシアの頬に激しい痛みが走った。
「この恩知らずが!」
モルディナは怒鳴りながら、彼女の髪を掴んだ。
「誰のおかげで生きていられると思っているの!? この家に置いてやっている恩も忘れて、フェルミアの幸せを奪うつもり!?」
「ち、違います……! 私は、ただ……!」
「黙りなさい!」
ネリシアは床に突き飛ばされた。
モルディナは彼女の左足を見て、銀色の靴に気づいた。
「……それは?」
ネリシアは慌てて足を引いた。
だが、遅かった。
モルディナは靴を奪い取ろうとし、なかなか脱げないことに苛立つと、暖炉のそばに置かれていた火掻き棒を掴んだ。
「脱ぎなさい!」
「やめてください! これは……!」
「あなたには過ぎたものよ!」
熱を帯びた鉄棒が振り下ろされた。
ネリシアは反射的に身を捩ったが、足首に鋭い痛みが走り、思わず悲鳴を上げた。
それでも靴は脱げなかった。
まるで、足そのものと一体化しているかのようだった。
モルディナは舌打ちし、ネリシアを地下の貯蔵室へ引きずっていった。
「そこで大人しくしていなさい。殿下がお帰りになるまで、絶対に出てくるんじゃありませんよ」
扉が閉まり、重い鍵の音が響いた。
暗闇の中で、ネリシアは膝を抱えた。
足首が痛い。
頬も熱い。
けれど、それ以上に胸が苦しかった。
せっかく、幸せな夢を見られたのに。
もう一度、あの人に会いたかっただけなのに。
「……お母様」
涙が零れた。
「私、何か悪いことをしたのでしょうか……?」
答える者はいなかった。
その日の午後。
王宮の馬車がヴァルクレイン家の門前に到着した。
馬車から降りてきたのは、第二王子ディルヴェン本人だった。
モルディナとフェルミアは歓喜し、急いで玄関へ駆けつけた。
「ようこそお越しくださいました、殿下! このような小さな屋敷に、わざわざお運びいただけるとは……!」
「突然の訪問をお許しください。昨夜、こちらのご令嬢が舞踏会に出席されていたと伺いまして」
ディルヴェンは穏やかに微笑んだ。
フェルミアは頬を染め、優雅に礼をした。
「殿下。昨夜はお話しできて光栄でしたわ。どうぞ、こちらへ……」
「ありがとうございます。ですが、その前に一つ確認させてください」
王子は銀色の靴を取り出した。
「こちらの靴に、お心当たりはありませんか?」
フェルミアの瞳が輝いた。
「まあ! なんて美しい靴でしょう! きっと私のものですわ!」
彼女は椅子に腰を下ろし、靴を履こうとした。
しかし、どれほど力を入れても、靴は足に入らなかった。
「お、おかしいわね……!」
フェルミアは無理やり爪先を押し込もうとしたが、月晶の靴はびくともしない。
やがて彼女は顔を真っ赤にして叫んだ。
「この靴が小さすぎるのよ! 殿下、きっと何かの間違いですわ!」
ディルヴェンは静かに首を振った。
「残念ですが、違うようですね」
そのとき、彼の視線が廊下の奥へ向いた。
「ところで、こちらにはもう一人、ご令嬢がいらっしゃるのでは?」
モルディナの表情が強張った。
「い、いいえ。娘はフェルミア一人でございます」
「そうですか」
ディルヴェンは微笑んだまま、懐から一枚の紙を取り出した。
「では、こちらの家系記録に記されたネリシア・ヴァルクレインという女性は、どなたでしょう?」
モルディナは言葉を失った。
王子は続けた。
「私は昨夜、彼女と踊りました。彼女は自分の名前を偽りませんでしたし、私もその名前を忘れていません」
その声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。
けれど、そこには逆らうことを許さない冷たさがあった。
「彼女を、ここへ」
モルディナは震える唇で何かを言おうとしたが、結局何も言えなかった。
やがて使用人が地下室の鍵を開け、ネリシアを連れてきた。
汚れた服。
乱れた髪。
赤く腫れた頬。
そして、足首に残る痛々しい傷。
その姿を見たディルヴェンの表情が変わった。
「……ネリシア」
彼はすぐに駆け寄り、彼女の前に膝をついた。
「どうして、こんな……」
「殿下……?」
ネリシアは信じられないという顔で彼を見つめた。
ディルヴェンは彼女の手を取り、傷ついた指先を見つめた。
「……痛かったでしょう」
その一言で、ネリシアの心に張りつめていたものが切れた。
「……はい」
涙が頬を伝った。
「とても、痛かったです……」
王子は彼女を抱きしめた。
「もう大丈夫です」
耳元で、優しい声が響く。
「私が、あなたを守ります」
ネリシアは泣いた。
声を押し殺すことも忘れ、子供のように泣き続けた。
その間、ディルヴェンは一度も彼女を離さなかった。
やがて王子は立ち上がり、モルディナとフェルミアを見た。
「この屋敷で行われていたことについては、後ほど詳しく調べさせていただきます」
「で、殿下……! これは、その……!」
「言い訳は結構です」
ディルヴェンは冷たく告げた。
「ネリシアは、私が連れていきます」
その言葉に、フェルミアが叫んだ。
「そんなの不公平よ! どうしてあんな女が選ばれるの!? 私の方がずっと美しいのに!」
ディルヴェンは振り返らなかった。
ただ、ネリシアの手を握り、屋敷を後にした。
馬車に乗り込む直前、ネリシアは一度だけ振り返った。
五年間、自分を苦しめ続けた屋敷。
もう二度と戻りたくないと思っていた場所。
けれど、そこには母との思い出も残っている。
彼女は静かに頭を下げた。
「……さようなら」
そして、王子の手を取った。
その日、ネリシア・ヴァルクレインは初めて、自分の意思で未来を選んだ。
◆◇◆◇◆
王宮での生活は、夢のようだった。
温かな食事。
柔らかな寝台。
清潔な衣服。
何より、誰も彼女を怒鳴らず、叩かず、無理な仕事を押しつけなかった。
侍女たちは優しく、王宮の人々も彼女を丁重に扱ってくれた。
ディルヴェンは毎日のように訪れ、庭園を散歩したり、書庫で本を読んだり、二人で穏やかな時間を過ごした。
ある日、ネリシアが窓辺で刺繍をしていると、王子が不思議そうに尋ねた。
「あなたは、どうしてそこまで刺繍が好きなのですか?」
ネリシアは手を止め、少し考えた。
「……母が教えてくれたから、というのもあります。でも、一番の理由は、誰かに喜んでもらえるからです」
「喜んでもらえる?」
「はい。どんなに小さな布でも、心を込めて縫えば、誰かの大切なものになるでしょう? そういうことが、私は好きなんです」
ディルヴェンはしばらく黙っていた。
やがて彼は、ネリシアの隣に腰を下ろした。
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。私はこれまで、たくさんの人間を見てきました。誰もが何かを欲しがり、誰かより優位に立とうとし、自分の利益のために他人を利用する。けれど、あなたは違う」
彼はネリシアの手を取った。
「あなたは、自分が傷ついても、誰かを幸せにしようとする」
ネリシアは困ったように笑った。
「そんな立派な人間ではありません。私だって、嫌なことをされたら腹が立ちますし、誰かを羨ましいと思うこともあります」
「それでも、あなたは人を傷つけない」
ディルヴェンは彼女の指先に口づけた。
「……どうか、そのままでいてください」
ネリシアの頬が赤く染まった。
「殿下……」
「ディルヴェンと呼んでください。二人きりのときくらい、名前で呼んでほしい」
「……ディルヴェン様」
王子は微笑んだ。
「はい、ネリシア」
その瞬間、彼女は思った。
この人となら、幸せになれる。
今までの苦しみも、いつか笑って話せる日が来るかもしれない。
そして三日後。
ディルヴェンは王宮の薔薇園で、ネリシアに結婚を申し込んだ。
「ネリシア。私の妻になっていただけませんか?」
彼は片膝をつき、小さな指輪を差し出した。
銀色の指輪には、淡い青色の宝石が嵌め込まれている。
「私は、あなたと共に生きたい。嬉しいときも、悲しいときも、あなたの隣にいたいのです」
ネリシアは両手で口元を覆った。
涙が溢れ、言葉が出てこない。
「……私で、よろしいのですか?」
「あなたでなければ、意味がありません」
「私は、何も持っていません。家柄も、財産も、誇れるものも……」
「あなた自身が、私にとって何より大切なのです」
ディルヴェンは優しく微笑んだ。
「どうか、私を選んでください」
ネリシアは泣きながら頷いた。
「……はい」
震える声で答える。
「喜んで、お受けいたします……!」
王子は立ち上がり、彼女を抱きしめた。
薔薇の花びらが風に舞い、庭園の噴水が陽光を反射して輝いている。
遠くで祝福の鐘が鳴った。
その音を聞きながら、ネリシアは心の底から幸せだと思った。
人生で初めて、自分が誰かに愛されていると感じた。
もう、何も怖くなかった。
どんな未来が待っていても、この人と一緒なら乗り越えられる。
そう信じていた。
◆◇◆◇◆
婚礼の準備は、驚くほど早く進められた。
王宮の仕立て職人たちが昼夜を問わず働き、純白の婚礼衣装が完成したのは、婚約からわずか四日後だった。
その衣装は、ネリシアがこれまで見たどんなドレスよりも美しかった。
白い絹地には細かな銀糸が縫い込まれ、胸元には月長石が散りばめられている。
裾は長く、歩くたびに柔らかな光が揺れた。
まるで、あの夜の舞踏会で着たドレスを、さらに美しく仕立て直したようだった。
「……本当に、私がこれを着るのですか?」
鏡の前で呟くネリシアに、衣装係の女性たちは微笑んだ。
「もちろんでございます、妃殿下」
「妃殿下だなんて……まだ慣れません」
「すぐに慣れますよ。殿下は、きっと素晴らしいお妃様になられます」
ネリシアは照れくさそうに笑った。
そのとき、扉が静かに開いた。
入ってきたのはオルザだった。
「……オルザ様!」
ネリシアは嬉しそうに駆け寄った。
「お会いしたかったです! あの夜から、ずっと探していたんですよ!」
オルザは彼女を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「お元気そうで、何よりです」
「全部、オルザ様のおかげです。あの夜、私を舞踏会へ送り出してくださらなければ、こんな幸せはありませんでした」
ネリシアは深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
オルザは何も答えなかった。
ただ、ネリシアの手を取り、その指先をじっと見つめた。
「……お嬢様」
「はい?」
「もし、今からでも逃げられるとしたら……あなたは、どうなさいますか?」
ネリシアは目を瞬かせた。
「逃げる……?」
「ええ。誰にも知られず、遠くの国へ行くのです。名前を変え、身分を捨て、誰にも見つからない場所で暮らすこともできます」
老婆の声は震えていた。
「それでも、あなたはここに残りますか?」
ネリシアは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「……はい」
オルザの顔が強張った。
「どうしてです?」
「だって、ここにはディルヴェン様がいらっしゃいますから」
ネリシアは幸せそうに笑った。
「私は、あの方を愛しています。あの方も、私を愛してくださっています。だから、どこへも行きたくありません」
オルザは目を閉じた。
その頬を、一筋の涙が伝った。
「……そう、ですか」
「オルザ様?」
「いいえ。何でもありません」
老婆は袖で涙を拭い、ネリシアの手をそっと離した。
「……どうか、お幸せに」
その言葉は、祈りというよりも、別れの挨拶のように聞こえた。
けれど、ネリシアは気づかなかった。
幸福というものは、ときに人の目を曇らせる。
見たくないものを見えなくし、聞きたくない言葉を聞こえなくする。
そして、気づいたときには。
もう、戻れない場所まで進んでしまっている。
◆◇◆◇◆
婚礼の前夜。
王宮の地下深くにある石造りの部屋で、ディルヴェンは一人の男と向かい合っていた。
大神官ザルディオ・クレムナート。
王家の秘儀を管理する、五十三歳の男である。
彼は黒い法衣を纏い、手にした羊皮紙を静かに読み上げていた。
「……第七十四代候補、ネリシア・ヴァルクレイン。十九歳。母系血統、適合。月晶反応、完全一致。精神状態、極めて安定。純粋性、基準値を大幅に上回る」
ディルヴェンは無言で聞いていた。
ザルディオは羊皮紙を巻き、満足そうに頷いた。
「素晴らしい結果です、殿下。これほど条件の揃った花嫁は、過去三百年間で一人もおりません」
「……そうか」
「これで、王国は救われます」
ディルヴェンは目を閉じた。
「本当に、他の方法はないのか?」
ザルディオは眉をひそめた。
「殿下。その質問は、すでに何度もお答えしたはずです」
「分かっている」
「では、なぜ?」
「……彼女は、何も知らない」
ディルヴェンの声は低かった。
「自分が何のために選ばれたのかも、明日何が起こるのかも、何一つ知らずに……私を信じている」
ザルディオはしばらく沈黙したあと、静かに言った。
「それこそが、最も重要なのです」
彼は壁に刻まれた古い文字を指差した。
「《暁の花嫁》は、自らの意思で王族を愛し、幸福の絶頂にある状態で儀式を迎えなければなりません。恐怖や疑念を抱けば、魂の純度が下がり、儀式は失敗します」
「……分かっている」
「過去七十三人の候補が失敗した理由も、そこにあります。ある者は真実を知って逃亡し、ある者は王族への愛を失い、ある者は恐怖のあまり自ら命を絶ちました」
ザルディオは淡々と続けた。
「ですが、ネリシア様は違います。あの方は殿下を心から愛しておられる。しかも、他者を憎むことを知らないほど善良でいらっしゃる」
彼は微笑んだ。
「これ以上の器はありません」
ディルヴェンは拳を握りしめた。
指先が白くなるほど強く。
「……彼女は、私を信じている」
「ええ」
「私が守ると言ったんだ」
「それも必要な過程です」
「……私は、彼女を愛している」
ザルディオは、そこで初めて表情を変えた。
しかし、それは驚きでも同情でもなかった。
むしろ、満足そうな笑みだった。
「それは何よりです、殿下」
彼は深く頭を下げた。
「王族が花嫁を真に愛しているほど、儀式の成功率は高まります。愛する者を失う絶望が、最後の封印を完成させるのですから」
ディルヴェンは何も言わなかった。
ただ、長い時間、床を見つめていた。
やがて彼は、絞り出すように尋ねた。
「……彼女は、苦しむのか?」
ザルディオは少し考えた。
「肉体的な苦痛は、避けられません」
「……どれほど?」
「過去の記録によれば、儀式開始から肉体の崩壊まで、およそ十二分。その間、花嫁の意識は完全に保たれます」
ディルヴェンの顔から血の気が引いた。
「……十二分」
「ですが、ご安心ください。魂は消滅しません。王国を守る《暁の聖骸》として、永遠に役目を果たし続けます」
ザルディオは穏やかに微笑んだ。
「つまり、殿下の愛する方は、永遠に王国と共に生きるのです」
その言葉を聞いた瞬間、ディルヴェンは壁に拳を叩きつけた。
鈍い音が響き、指の関節から血が滲む。
「……ふざけるな」
ザルディオは動じなかった。
「殿下」
「そんなものを、生きているとは言わない……!」
「では、王国の民を見殺しになさいますか?」
その一言で、ディルヴェンは動きを止めた。
ザルディオは静かに続けた。
「《暁の聖骸》が失われれば、王国を覆う結界は崩壊します。北方に封じられた死霊の軍勢が解き放たれ、数百万の民が命を落とすでしょう」
彼は一歩近づいた。
「一人の娘の命と、数百万の民の命。殿下は、どちらを選ばれますか?」
ディルヴェンは答えられなかった。
長い沈黙が続いた。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……明日の儀式は、予定どおり行え」
ザルディオは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
そして、部屋を出ていった。
一人残されたディルヴェンは、血の滲む拳を見つめた。
その手で、明日。
愛する女性の指に、婚礼の指輪を嵌めるのだ。
「……すまない、ネリシア」
彼は呟いた。
「どうか、私を許さないでくれ」
けれど、その謝罪を聞く者は誰もいなかった。
◆◇◆◇◆
婚礼の日。
王都は祝福の声に包まれていた。
大通りには色鮮やかな旗が掲げられ、花びらが撒かれ、鐘楼からは美しい音色が響いている。
第二王子の結婚を祝うため、王都の人々は仕事を休み、沿道に集まっていた。
ネリシアは白い馬車の中で、緊張した面持ちで窓の外を眺めていた。
人々が手を振っている。
子供たちが花を投げている。
誰もが笑顔だった。
「……こんなにたくさんの人が、祝ってくださるなんて」
ネリシアは胸元に手を当てた。
幸せだった。
怖いくらいに、幸せだった。
馬車が大聖堂の前に到着すると、扉が開かれた。
そこには、白い礼装を纏ったディルヴェンが立っていた。
「……お待ちしていました、ネリシア」
彼は微笑んだ。
けれど、その顔は少し青白かった。
「ディルヴェン様。お顔の色が……」
「少し、緊張しているだけです」
「ふふ。私もです」
ネリシアは笑った。
「でも、大丈夫ですよ。私たち、これからずっと一緒なんですもの」
その言葉に、ディルヴェンの瞳が揺れた。
彼は一瞬、何かを言いかけた。
けれど、結局何も言わず、ネリシアの手を取った。
「……行きましょう」
「はい」
二人は大聖堂へ足を踏み入れた。
天井は高く、巨大な硝子窓から七色の光が差し込んでいる。
祭壇の奥には、王国の守護神を象った白い石像が立っていた。
その足元には、赤い宝石が嵌め込まれている。
ネリシアはその宝石を見て、少しだけ違和感を覚えた。
まるで、何かがこちらを見つめているような気がしたのだ。
けれど、すぐに気のせいだと思い直した。
大聖堂には多くの貴族たちが集まっていた。
モルディナとフェルミアの姿もあった。
二人は王宮から命じられ、婚礼に参列していたのだ。
フェルミアは悔しそうに唇を噛み、モルディナは青白い顔で祭壇を見つめていた。
ネリシアは二人を見つけると、静かに頭を下げた。
もう、恨んではいなかった。
自分は幸せになれたのだから。
いつか、二人とも分かり合える日が来るかもしれない。
そう思っていた。
祭壇の前に立つと、大神官ザルディオが両手を広げた。
「これより、第二王子ディルヴェン・アルトレシア殿下と、ネリシア・ヴァルクレイン嬢の婚礼の儀を執り行います」
荘厳な声が大聖堂に響いた。
参列者たちが一斉に頭を垂れる。
ザルディオは古い祈祷書を開き、低い声で祝詞を唱え始めた。
その言葉は、ネリシアの知らない古代語だった。
けれど、不思議なことに、意味だけは理解できた。
『白き花嫁よ。汝の愛を捧げよ』
『白き花嫁よ。汝の肉を捧げよ』
『白き花嫁よ。汝の魂を捧げよ』
ネリシアは眉をひそめた。
……肉?
……魂?
婚礼の祝詞とは、こんなものだっただろうか。
隣を見ると、ディルヴェンは俯いていた。
その手が、微かに震えている。
「……ディルヴェン様?」
小さく呼びかけたが、返事はなかった。
ザルディオは祈祷書を閉じ、二人の前に銀色の杯を差し出した。
「では、誓いの杯を」
ディルヴェンが杯を受け取る。
中には、深紅の液体が満たされていた。
「……ネリシア」
王子は彼女を見つめた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「最後に、一つだけ聞かせてください」
「……はい?」
「あなたは、私を愛していますか?」
ネリシアは驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「もちろんです」
「……本当に?」
「はい。心から、愛しています」
ディルヴェンは目を閉じた。
その頬を、一筋の涙が伝った。
「……そうですか」
彼は杯を差し出した。
「では、これを」
ネリシアは何の疑いもなく、杯を受け取った。
そして、深紅の液体を口に含んだ。
甘い味がした。
どこか懐かしい、花の蜜のような香りだった。
飲み終えた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……あれ?」
ネリシアは胸元に手を当てた。
心臓が、激しく脈打っている。
一度。
二度。
三度。
そして。
突然、全身に激痛が走った。
「……っ!?」
ネリシアは膝を折った。
胸の奥から、何かが這い上がってくる。
熱い。
痛い。
身体の内側を、無数の針で刺されているようだった。
「ディル……ヴェン、様……?」
助けを求めて手を伸ばす。
けれど、王子は動かなかった。
ただ、涙を流しながら彼女を見つめていた。
「……ごめんなさい」
その言葉を聞いた瞬間、ネリシアは理解できなかった。
何を謝っているのだろう。
どうして、助けてくれないのだろう。
どうして。
どうして、そんな顔をしているのだろう。
ザルディオが両手を掲げた。
「《暁の花嫁》、適合を確認。これより、聖骸化の儀を開始する!」
大聖堂の床に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
赤い光がネリシアの身体を包み込み、白い婚礼衣装がゆっくりと染まっていく。
最初は胸元。
次に腹部。
そして、両腕。
まるで、身体の内側から血が滲み出しているようだった。
「……いや……」
ネリシアは震える声で呟いた。
「いや……! 何、これ……!」
足元の月晶の靴が、突然砕けた。
銀色の破片が床に散らばり、その一つ一つから細い糸が伸びていく。
糸はネリシアの足首に絡みつき、皮膚の下へ潜り込んだ。
「いやああああああっ!!」
悲鳴が大聖堂に響き渡った。
ネリシアは必死に糸を引き剥がそうとしたが、指先からも銀色の糸が伸び始め、腕の中へ入り込んでいく。
骨が軋んだ。
関節が不自然な方向へ曲がり、白い指先が徐々に透き通っていく。
それでも、意識は失われなかった。
痛みだけが、鮮明に残っていた。
「助けて……!」
ネリシアはディルヴェンを見上げた。
「お願い……! 助けて、ディルヴェン様……!」
王子は震える唇を噛みしめた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……すまない」
その瞬間。
ネリシアの胸の奥で、何かが壊れた。
肉体ではない。
もっと深い場所にあった、何かだった。
「……どうして?」
彼女は呆然と呟いた。
「私……あなたを、信じていたのに……」
ディルヴェンは答えなかった。
ザルディオが冷たく告げた。
「殿下。花嫁の感情が乱れております。どうか、最後まで愛をお示しください」
ディルヴェンは拳を握りしめた。
そして、ネリシアの前に膝をついた。
「……ネリシア」
彼は彼女の手を取った。
すでに半透明になり始めた指先を、両手で包み込む。
「私は、あなたを愛しています」
ネリシアは目を見開いた。
「……え?」
「あなたと過ごした時間は、私にとって何より大切なものでした」
王子は泣いていた。
「だから、どうか……」
彼は震える声で続けた。
「……私のために、死んでください」
ネリシアの表情が、凍りついた。
言葉の意味が分からなかった。
いや。
分かりたくなかった。
「……嘘」
彼女は首を横に振った。
「そんなの……嘘、ですよね……?」
ディルヴェンは答えなかった。
「だって……あなたは……私を守るって……」
ネリシアは必死に言葉を紡いだ。
「もう大丈夫だって……言ってくれたじゃないですか……!」
王子は目を閉じた。
「……すまない」
「謝らないで……!」
ネリシアは叫んだ。
「謝るくらいなら、助けてくださいよ……!」
その声は、悲鳴よりも痛ましかった。
「私、何もいらない……! 王妃になんて、ならなくていい……! 綺麗なドレスも、宝石も、全部いらないから……!」
彼女は王子の手を握りしめた。
「お願い……! ただ、生きていたいだけなんです……!」
ディルヴェンは、ゆっくりと手を離した。
その瞬間、ネリシアの瞳から光が消えた。
◆◇◆◇◆
儀式は、止まらなかった。
大聖堂の床から無数の銀糸が伸び、ネリシアの身体を包み込んでいく。
皮膚は白く透き通り、骨は細い結晶へと変わり、血液は赤い光となって魔法陣へ吸い込まれていった。
その光景を、参列者たちは静かに見つめていた。
誰も驚いていなかった。
誰も止めようとしなかった。
それどころか、何人かの貴族は安堵したように微笑んでいた。
ネリシアはその顔を見て、ようやく気づいた。
……みんな、知っていたんだ。
自分だけが、何も知らなかった。
王宮の侍女たちも。
婚礼衣装を作った職人たちも。
祝福の言葉をかけてくれた貴族たちも。
誰もが、自分が死ぬことを知っていた。
それなのに。
みんな、笑っていた。
「……ひどい」
ネリシアは小さく呟いた。
「……ひどいよ……」
涙が零れた。
しかし、その涙は頬を伝う前に銀色の粒へ変わり、床へ落ちて砕けた。
ザルディオは満足そうに頷いた。
「素晴らしい。肉体の結晶化が順調に進んでおります。このままなら、夜明けを待たずに儀式は完了するでしょう」
ディルヴェンは何も言わなかった。
ただ、ネリシアを見つめていた。
そのとき。
大聖堂の扉が、激しい音を立てて開いた。
「やめなさい!!」
オルザだった。
老婆は息を切らしながら駆け込み、祭壇へ向かって走った。
「その子を……! その子を、解放しなさい!!」
ザルディオが眉をひそめた。
「オルザ。何をしているのです?」
「もう、たくさんです……!」
オルザは震える声で叫んだ。
「何人殺せば気が済むのですか!? あの子たちは、何も悪いことをしていないのに……!」
ザルディオは冷たく答えた。
「王国のためです」
「王国のためなら、何をしても許されるのですか!?」
「許されます」
その答えは、あまりにもあっさりしていた。
オルザは言葉を失った。
ザルディオは続けた。
「一人の犠牲で数百万の民が救われるのです。これほど尊い行いが、他にありますか?」
「……その一人に、選ぶ権利はないのですか?」
「必要ありません」
ザルディオは微笑んだ。
「花嫁が真実を知れば、儀式は成立しませんから」
オルザは唇を噛みしめた。
そして、ネリシアを見た。
すでに腰から下は完全に結晶化し、両腕も半ばまで銀色に染まっている。
それでも、ネリシアは彼女に気づいた。
「……オルザ、様……」
老婆は駆け寄り、彼女の頬に触れた。
「……ごめんなさい」
涙が零れた。
「ごめんなさい、ネリシア……! 私が、あの夜……あなたを舞踏会へ送り出さなければ……!」
ネリシアは呆然と彼女を見つめた。
「……知って、いたんですか……?」
オルザは答えられなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「……オルザ様も……?」
ネリシアの声が震えた。
「あなたも……私を、騙していたんですか……?」
オルザは泣き崩れた。
「……ごめんなさい……」
ネリシアは、ゆっくりと目を閉じた。
もう、涙も出なかった。
自分を助けてくれたと思っていた人。
初めて優しくしてくれた人。
母のことを覚えていてくれた人。
その人さえ、自分を死へ送り出すために現れたのだ。
あの夜のドレスも。
美しい靴も。
舞踏会も。
すべては、ここへ連れてくるための仕掛けだった。
「……そう、だったんですね」
ネリシアは静かに呟いた。
「私……最初から、選ばれていたんだ……」
オルザは必死に首を横に振った。
「違うの……! 私は、本当にあなたを助けたかった……! でも、あなたのお母様のときも、何もできなくて……!」
その言葉に、ネリシアは目を開いた。
「……お母様?」
オルザは口を押さえた。
ザルディオが、静かにため息をついた。
「……余計なことを」
そして、淡々と告げた。
「ネリシア様。あなたのお母上も、かつて《暁の花嫁》の候補でした」
ネリシアの呼吸が止まった。
「……え?」
「ですが、適合に失敗したため、儀式には使用できませんでした。そこで、次の世代に望みを託したのです」
ザルディオは祈祷書を開いた。
「あなたの父上には、王家から多額の報奨金が支払われました。母上が亡くなられたのも、次の候補を育てるための処置の一環です」
ネリシアは何も言えなかった。
母は、病気で亡くなったと聞いていた。
父は、事故で亡くなったと聞いていた。
けれど。
それすらも、嘘だったのだ。
「……お父様は……?」
「候補の存在を外部へ漏らそうとしたため、処分されました」
ザルディオは事務的に答えた。
「あなたを育てる環境としては、継母の支配下に置くことが最適でした。孤独と苦難は、魂の純度を高めるのに役立ちますから」
ネリシアの頭の中が、真っ白になった。
五年間の苦しみ。
継母からの暴力。
姉からの侮辱。
地下室での生活。
すべてが、誰かの計画だった。
自分が善良であり続けたことさえ、利用されていた。
「……じゃあ……」
ネリシアは震える声で尋ねた。
「……私が、ずっと苦しかったのも……?」
ザルディオは頷いた。
「ええ。必要な過程でした」
その瞬間。
ネリシアの中で、最後に残っていた何かが砕けた。
彼女は笑った。
小さく。
乾いた声で。
「……あは」
そして、もう一度。
「……あはは……」
笑いながら、涙を流した。
「……そうなんだ……」
誰もが、彼女を利用していた。
優しさも。
愛情も。
希望も。
すべてが、彼女を殺すために用意されたものだった。
「……私、馬鹿みたい……」
ネリシアは呟いた。
「……本当に、馬鹿みたい……」
そのとき、ザルディオが眉をひそめた。
「……おかしい」
魔法陣の光が、不規則に揺れ始めていた。
銀糸が震え、床に刻まれた古代文字が次々と黒く染まっていく。
「……なぜだ? 適合率は完全だったはず……!」
ディルヴェンが顔を上げた。
「何が起きている?」
「花嫁の精神状態が……! いえ、これは……!」
ザルディオは祈祷書をめくり、顔色を変えた。
「……まさか」
彼は震える声で呟いた。
「……絶望が、限界値を超えている……?」
その瞬間。
ネリシアの胸元から、黒い花が咲いた。
◆◇◆◇◆
それは、薔薇に似ていた。
けれど、花弁は漆黒で、中心には小さな赤い瞳があった。
花はゆっくりと開き、ネリシアの胸から伸びた銀糸を一本ずつ飲み込んでいく。
ザルディオは後ずさった。
「……ありえない……!」
彼は祈祷書を落とした。
「《暁の聖骸》が……反転している……!?」
ディルヴェンはネリシアを見た。
彼女はもう、泣いていなかった。
ただ、静かに笑っていた。
「……ねえ、ディルヴェン様」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「私、ずっと考えていたんです」
王子は動けなかった。
「……何を?」
「どうして、みんな私に優しくしてくれたんだろうって」
ネリシアは微笑んだ。
「でも、やっと分かりました」
黒い花が、さらに大きく開いた。
「……私が、死ぬからだったんですね」
ディルヴェンは首を横に振った。
「ネリシア……違う……!」
「違わないでしょう?」
彼女は優しく問いかけた。
「だって、あなたは最初から知っていたんですもの」
王子は何も言えなかった。
「私が舞踏会で笑っていたときも、あなたは知っていた」
ネリシアは続けた。
「私が初めて名前を呼んだときも、あなたは知っていた」
黒い花弁が一枚、床へ落ちた。
その瞬間、大聖堂の床が黒く染まった。
「私が結婚を申し込まれて、嬉しくて泣いたときも……あなたは、知っていた」
ディルヴェンは膝をついた。
「……すまない……」
「だから、謝らないでください」
ネリシアは微笑んだ。
「……もう、聞きたくないんです」
次の瞬間。
大聖堂の天井から、無数の黒い糸が垂れ下がった。
それらは参列者たちの首や腕に絡みつき、悲鳴が上がる間もなく、身体を宙へ吊り上げていった。
「な、何だこれは!?」
「助けてくれ!!」
「神官様! どうなっているのです!?」
貴族たちは逃げ惑った。
けれど、扉は開かなかった。
窓も割れなかった。
大聖堂そのものが、巨大な繭のように閉じていた。
ザルディオは必死に祈祷書を拾い、呪文を唱えた。
「聖なる暁よ! 我らを守りたまえ! この穢れを……!」
しかし、言葉は最後まで続かなかった。
黒い糸が彼の口に入り込み、喉の奥へ伸びていった。
ザルディオは目を見開き、両手で喉を押さえた。
次の瞬間、彼の身体から無数の銀糸が噴き出した。
皮膚が裂け、法衣が赤く染まり、やがて彼の身体は細い糸の束となって崩れ落ちた。
床には、黒い花が一輪咲いた。
ネリシアはそれを見つめ、静かに呟いた。
「……痛かったですか?」
返事はなかった。
「……私も、痛かったんですよ」
その声には、怒りすらなかった。
ただ、深い疲労だけが滲んでいた。
やがて黒い糸は、大聖堂の外へ伸び始めた。
王都の鐘楼が、次々と黒く染まっていく。
空に浮かんでいた祝福の魔法灯が砕け、代わりに無数の黒い花弁が降り注いだ。
人々は最初、それを新しい祝福の演出だと思った。
けれど、花弁が肌に触れた瞬間、身体が冷たくなり、指先から少しずつ感覚が失われていった。
通りでは悲鳴が上がり、馬車が横転し、人々が押し合いながら逃げ始めた。
しかし、逃げる場所などなかった。
王都を覆っていた結界が、内側から黒く染まっていたのだから。
ディルヴェンは呆然とその光景を見つめた。
「……何を、したんだ……?」
ネリシアは首を傾げた。
「……分かりません」
彼女は自分の手を見つめた。
すでに指先はなく、代わりに黒い花弁が揺れている。
「……でも、もう止められないみたいです」
王子は立ち上がり、彼女へ駆け寄ろうとした。
しかし、黒い糸が足首に絡みつき、床へ引き倒した。
「ネリシア! 頼む! やめてくれ!」
彼は叫んだ。
「王都には、何も知らない人々がいる! 子供たちもいるんだ!」
ネリシアは静かに彼を見つめた。
「……そうですね」
彼女は頷いた。
「何も知らない人たちが、たくさんいますね」
そして、少しだけ悲しそうに笑った。
「……私と、同じですね」
ディルヴェンは言葉を失った。
ネリシアは続けた。
「でも、ディルヴェン様。あなたは、私が何も知らないことを理由に、私を殺そうとしましたよね?」
「……それは……!」
「だったら、どうして……」
彼女は小さく首を傾げた。
「……私だけが、我慢しなければならないんですか?」
ディルヴェンは何も答えられなかった。
その沈黙を、ネリシアは静かに受け止めた。
「……もう、いいです」
彼女は目を閉じた。
「……疲れました」
黒い花が、最後の花弁を開いた。
その瞬間、王都の空から光が消えた。
◆◇◆◇◆
王国が滅びるまで、三日かかった。
最初の日に、王都の住民の半数が黒い花へ変わった。
二日目には、王宮を中心に広がった黒い糸が周辺の領地へ伸び、森も川も街道も、すべてを覆い尽くした。
三日目。
北方の結界が完全に崩壊し、封じられていた死霊の軍勢が王国へ流れ込んだ。
しかし、死霊たちは人間を襲わなかった。
すでに、襲うべき人間がほとんど残っていなかったからだ。
王都は、巨大な黒い花畑へ変わっていた。
家々の屋根から花が咲き、街路樹には人間の顔をした蕾がぶら下がっている。
風が吹くたび、花々は小さな声で囁いた。
『助けて』
『痛い』
『帰りたい』
『お母さん』
それは、花へ変えられた人々の声だった。
肉体は失われても、意識だけは残されていた。
彼らは永遠に、黒い花として生き続けることになった。
そして、その中心に。
かつて王宮の大聖堂があった場所には、一人の花嫁が立っていた。
純白だった婚礼衣装は漆黒に染まり、長い髪は銀色の糸へ変わっている。
顔には、かつての美しさが残っていた。
けれど、その瞳にはもう、何の感情もなかった。
ネリシア・ヴァルクレイン。
彼女は、王国そのものを呑み込む《黒暁の聖骸》となっていた。
その足元には、ディルヴェンが跪いていた。
彼だけは、花に変えられなかった。
ネリシアが、そう望んだからだ。
王子は三日間、眠ることも食べることも許されず、王国が滅びていく様子を見続けていた。
彼の身体には無数の黒い糸が絡みつき、逃げようとするたびに激しい痛みが走った。
けれど、死ぬことはできなかった。
糸が傷を塞ぎ、失った血を補い、彼の命を無理やり繋ぎ止めていたからだ。
「……ネリシア……」
王子は掠れた声で呼びかけた。
「……頼む……もう、終わらせてくれ……」
ネリシアは彼を見下ろした。
そして、静かに微笑んだ。
「……終わりませんよ」
その声は、かつての彼女と同じだった。
「だって、ディルヴェン様」
ネリシアは膝を折り、彼の頬に触れた。
「……あなたは、私とずっと一緒にいたいって、言ってくださったでしょう?」
ディルヴェンの顔が歪んだ。
「……お願いだ……」
「嬉しかったんですよ」
彼女は続けた。
「私、あの言葉が本当に嬉しかったんです。誰かに必要とされることが、こんなに幸せなんだって……初めて知りました」
黒い糸が、王子の首に巻きついた。
「だから、約束を守りましょうね」
ネリシアは優しく微笑んだ。
「……永遠に、一緒にいましょう」
ディルヴェンは絶叫した。
その声は、黒い花畑の中へ吸い込まれていった。
それから、どれほどの時間が流れたのか。
王国の外にいた人々は、やがてその土地を《花嫁の墓標》と呼ぶようになった。
黒い花が咲き乱れる死の大地。
足を踏み入れた者は二度と戻らず、夜になると、どこからともなく美しい鐘の音が響くという。
そして、時折。
花畑の奥から、若い女性の歌声が聞こえることがあった。
それは、母親が幼い娘に歌って聞かせるような、優しい子守唄だった。
歌が終わると、決まって男の悲鳴が響いた。
何度も。
何度も。
決して終わることなく。
◆◇◆◇◆
ある夜。
黒い花畑の中心で、ネリシアは一人、刺繍をしていた。
彼女の手元には、小さな白い布があった。
そこには、銀糸で一輪の花が縫い込まれている。
かつて母が教えてくれた、最初の刺繍だった。
ネリシアは針を動かしながら、静かに歌っていた。
その傍らでは、ディルヴェンが黒い糸に吊るされ、虚ろな目で彼女を見つめていた。
彼はもう、言葉を話すこともできなかった。
何度も何度も死にかけ、そのたびに無理やり蘇らされた結果、心が壊れてしまったのだ。
ネリシアはそんな彼を見て、優しく微笑んだ。
「……ディルヴェン様」
返事はなかった。
「今日は、とても綺麗な花が咲いたんですよ」
彼女は窓の外を指差した。
そこには、黒い花が一面に咲き乱れていた。
その花の一つ一つに、人間の顔が浮かんでいる。
苦痛に歪んだ顔。
涙を流す顔。
助けを求める顔。
ネリシアは、それらを見つめながら微笑んだ。
「……みんな、幸せそうですね」
ディルヴェンの瞳から、一筋の涙が零れた。
ネリシアはそれを見て、少しだけ首を傾げた。
「……どうして、泣いているんですか?」
彼女は不思議そうに尋ねた。
「……私たち、結婚したんですよ?」
そして、優しく笑った。
「……これから、ずっと幸せに暮らせるんですから」
その瞬間。
遠くで、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
ネリシアは手を止め、窓の外を見た。
黒い空には、月が浮かんでいた。
あの夜と、同じ月だった。
彼女はしばらく月を見つめたあと、小さく呟いた。
「……お母様」
その声だけは、ほんの少しだけ、昔の彼女に戻っていた。
「……私、幸せになれたんでしょうか……?」
答える者はいなかった。
黒い花々が、風に揺れている。
ネリシアはしばらく待った。
けれど、どれほど待っても、母の声は聞こえなかった。
やがて彼女は、再び針を動かし始めた。
白い布に、銀色の花を縫い続ける。
一針。
二針。
三針。
その指先から、黒い糸が伸びていく。
糸は布を通り抜け、床を這い、壁を伝い、やがて花畑の奥へ消えていった。
その先で、新しい花が一輪咲いた。
花の中心には、まだ幼い少女の顔があった。
少女は泣いていた。
『……お母さん……』
ネリシアはその声を聞き、優しく微笑んだ。
「……大丈夫ですよ」
彼女は静かに言った。
「……もう、誰もあなたを傷つけませんから」
そして、針を進めた。
少女の声が、少しずつ小さくなっていく。
やがて、完全に聞こえなくなった。
ネリシアは満足そうに頷いた。
「……よかった」
彼女は微笑んだ。
「……これで、また一人、幸せになれましたね」
その隣で、ディルヴェンが声にならない悲鳴を上げた。
けれど、ネリシアには聞こえなかった。
彼女はもう、人の苦しみを理解できなくなっていた。
かつて誰よりも優しかった少女は、誰よりも多くの人間を苦しめる存在となった。
それでも、彼女は自分が間違っているとは思わなかった。
なぜなら。
彼女は、愛する人と結婚できたのだから。
誰にも邪魔されず、永遠に一緒にいられるのだから。
そして、何より。
もう二度と、誰かに裏切られることはないのだから。
黒い花畑に、夜明けは訪れない。
けれど、鐘だけは鳴り続ける。
祝福の鐘。
婚礼の鐘。
そして。
永遠に終わらない、葬送の鐘。
【完】




