プロローグ
一人の少女が夜の町を駆けていた。
もっとも、こんな荒れた場所を町と呼ぶのはせいぜい住人だけだろう。その住人にさえ、裏町と呼ばれるような場所だ。
まともな常識を持ち合わせた人間が十日住めば頭がなくなる。物理的にかクスリの作用のどちらかで。
少女はそんな裏町に住んで十年近くになる。生まれは知らないが物心ついた頃からこの裏町の住人だ。
当然、住み慣れている。
鋭角に角を曲がり、いつも壁際に転がっている出来損ないの陶器の置物を手に取る。
「危ないよ」
知らない仲でもないからと、わざわざ後続の追手に危険を知らせ、アンダースローで置物を投げつける。
角を曲がりかけたスキンヘッドの男が無くなった髪を庇うように両手を頭に当てて身をかがめた。
がしゃんと派手な音がして塀にぶつかった置物が砕け、追手の足が止まる。
「あのガキっ、ちょこまかと本当にもう!」
「表の方には逃がすな! 何人かで先回りしろ!」
統率の取れた動きで少女の逃げ道を塞ぐように追手が動いている間に、少女は次の角を曲がっている。
少女は追手の声を聞き取り、裏町の地図を脳裏に描く。
追手も少女を知っている。逃げ道の大半は読まれているだろう。少々強引に包囲を抜けるか裏を掻く必要がある。
正面対決は正直避けたいところだ。対立が決定的になったわけではないのだから。
「しょうがないかな」
川の方へ逃げようと方向を転換する。昼間なら取らない選択だが、夜の今なら暗くて簡単には見つからない。表の方に逃げようとする姿勢を見せ続けた今なら、川の草むらに隠れてしばらくやり過ごせるかもしれない。
「邪魔」
ストリートファイトでもやったのか顔面ぼこぼこで路地に横たわっている男の脚を蹴り飛ばす。
「痛っ!?」
「ここで寝ると凍死するよ!」
わざと大きな声で男に注意する。これから来る追手に男が尋問されれば少し時間を稼げるはずだ。
バタバタと複数人の足音が男のいる路地に入ってくる前に少女はするりと塀を乗り越える。塀の向こうがいまどうなっているのか少し不安だったが、十日前に見た通りの資材置き場だった。
塀の向こうで追手の声がする。
「見失った!」
「おいそこの不細工野郎、ガキがここを通っただろ。どこ行った?」
「――なんだよ、知りたいなら出すもん出せよ! タダで教えると思ってんのか!?」
狙い通りの馬鹿だったと少女は肩をすくめつつ、男に足止め役を任せて資材置き場を走り抜ける。
五秒稼げれば、この入り組んだ裏町での追いかけっこで十分な猶予になる。
資材置き場を抜けた先の木の板塀を乗り越える。飼育されている鳩が闖入者にも反応を示さない。このショートカットが住人に多用されている証だろう。
つまり、読まれる可能性がある。
選択を間違えたかとも思ったが、ここは追手との距離を離すのが最優先だ。
僅かな不安を押し込んで突き進む度胸。裏町で生き残るために必須のメンタルを信じ、少女は全力で走る。
「……ダイ、ジョウブ?」
表情の微細な変化を読み取ったのか、少女の肩に掴まっている精霊が不安そうに呟いた。
少女をそのまま小さくしたような容姿の精霊だ。癖のある黒髪が肩まで届き、険のある青い猫目が意志の強さと反抗心を滲ませる。裏町育ちらしいやせ型まで似なくていいものをと少女は思うが、鳥とも虫とも違う螺鈿細工を思わせる虹色の翼だけは少女にないモノだ。
「大丈夫だよ、エティ」
少女は肩に留まる精霊に柔らかく微笑んで正面を見た。
裏町の住人に表と呼ばれる帝都の大通りへ繋がる分かれ道。左へ行けば衛兵が定期巡回する表町。右へ行けば法の支配が及んでいる下町。反転してきた道を引き返せば帝国法が通用しない裏町だ。
少女は迷わず右へ駆けこむ。
少しだけ、道が明るくなった。表町と違ってガス灯があるわけではない。治安の差からくる『人が気配を押し殺していない』明るさだ。
法に反する行いがあれば住人が助けに駆け付ける。裏町と違って逃げたり見て見ぬふりをしない安心感からくる明るさ。
だが、裏町育ちの少女は油断しない。
――追手はマフィアなのだから。
長い一本道。ここを抜ければ下町と表町の境界線を動きやすくなるという場所で少女はついに足を止めた。
「……読まれてたか」
行く手を阻むように筋肉質の男たちが一定間隔をあけて立ちふさがる。
背後を肩越しに振り返れば、明らかに組織の上位勢の面子が退路を塞いでいた。
その中から二十代半ばに見える若々しい男が一歩出る。油断ならない豹のような鋭さがある男だった。
夜の暗がりでも映える赤いメッシュが入った黒髪を掻き上げて男が少女に声をかける。
「こんな夜更けに走り回らせるんじゃねぇよ、チトセ」
チトセと呼ばれた少女は肩をすくめる。
「事務所の椅子でふんぞり返っているルマンたちには、良い運動になったんじゃない?」
「下の馬鹿どもが血を上らせないよう頭に冷や水を浴びせる方が重労働なんだぜ?」
掻き上げた髪の下から覗く額に青筋を浮かべて、ルマンは語気を強めた。
しかし、ルマンはすぐにため息をついて気持ちを落ち着かせる。
「チトセ、あんまり逃げてくれるな。デポッサ老には世話になったんだ。手荒な真似はしたくないんだよ」
「私の世話になったわけじゃないからチャラってやるのがマフィアだよ」
「あのなぁ……」
呆れた風を装ってルマンは考える間を作り、言葉を繋ぐ。
「俺たちはボスを、親父を殺されてるんだ。敬愛する親父を、殺されたんだ。だがな、チトセの育ての親のデポッサ老に世話になったのも事実だ。親父もデポッサ老と懇意にしてた。俺たちにとっちゃ、チトセは従妹みたいなもんだ。手荒な真似はしたくないんだよ、チトセ」
言葉が真意だと示すように、ルマンはチトセではなく部下の荒くれ男たちを視線で牽制していた。
チトセも、ルマンの感覚が理解できないわけではない。ルマンが右腕につけている時計はチトセが初めて対価をもらって修理した品だ。安物のそれを若頭筆頭のルマンがいまだに身につけている意味を察していないわけもない。
黙りこくるチトセに、ルマンは続ける。
「俺もチトセが殺したとは思ってねぇよ。だがな、修理された煙管で一服やろうとしたらそのまま苦しんで死んじまった。まず疑われるのはチトセ、お前だ」
「――確かに煙管は修理して直接バジガンに渡した。何度でも言ってやる。直接渡した!」
裏町に根を張るマフィア組織、バジガンファミリー。そのボスであるバジガンが煙管で一服したその直後に苦しんで死んだ。その暗殺事件こそ、少女チトセがルマンたちマフィアに追いかけられる理由だった。
夕暮れ時にこの話を聞いた瞬間、チトセは逃走に移り、今に至る。
マフィアがボスを殺されて面子を保つには、暗殺者やその背後組織を根絶やしにしなくてはならない。最低でも、相手組織が臣従したと外部に見える形の手打ちが必要だ。
だというのに、バジガンを殺した相手も組織も手段も不明。その状況で後ろ盾がないチトセを詰めに来た。
チトセはルマンたちの狙いを『従妹扱いしていたチトセを犯人として処断し面子を保つ』と読み取った。
ルマンもチトセの思考を理解しているのだろう。あくまでも話し合いがしたいだけだと態度で示そうと、一歩も距離を詰めようとしない。
「渡す前の話が聞きてぇんだよ。煙管に触れた人間は? 触れる可能性のある人間は? これ以上逃げ回るなら、お前に落とし前をつけてもらうことになっちまう。ボスをやられてお前まで逃がしたら面子に関わるだろうが」
「真犯人を取り逃がして私で妥協しようって? そっちの方がダセェっての」
「妥協させんなって話を」
「……フセテ」
肩に乗っているエティの声に、チトセは考えることもなく身をかがめる。両足から一瞬で力を抜き姿勢を低くするチトセの動きに周囲が呆気にとられる中、一陣の風が路地を浚った。
「ぐっ!?」
「うげっ!?」
表町との境を塞いでいた屈強な男たちが吹き飛ばされて壁にぶち当たり、勢いもそのままゴロゴロとチトセの横を転がっていく。
自然に起きた突風ではない。明らかに意思を持って起こされた攻撃的な突風だった。
チトセはルマンから視線を逸らし、後ろを振り返る。先ほどの突風が自分に向けられた時、対処できるように。
「――ただ近道しようと思っただけなんだけどね?」
表通りのガス灯を後光に女が立っていた。
身長が高い。十歳程度のチトセなど比べるべくもないが、成人男性のルマンと比べてもまだ高い。
なによりも、ガス灯を背にして強調される長い耳が、女がエルフであると証明していた。
「掘り出しものを見つけちゃったね」
表町の風をそのまま連れてきたような明るい笑い声を発して、エルフの女が路地に踏み入る。ただその一歩で誰もが理解した。
『――こいつはヤバい』
絶対的な力が、このエルフの女と共に迫ってくる。このエルフの女の前ではいかなる不法も理不尽も裁かれる。そんな絶対的な重圧が一歩ずつ迫ってくる。
後ろ暗いことをしているルマンたちにとって、それは死神の一歩。
だが、当のエルフの女は、ルマンたちに興味がなかったらしい。
「君、うちの店で働かない?」
高身長故の圧迫感を自覚しているのか、エルフの女は身をかがめてチトセと目線を合わせてそう言った。
それを見たマフィアの男が威圧的に一歩を踏み出した。
「おい、なに他所からしゃしゃり出て――」
「馬鹿っ!」
一歩踏み出した男の襟首をルマンが即座に掴んで地面に引き倒す。
その直後、路地が振動した。
振動を感じ取った後から、突風が吹き抜けたことを証明するように音が鳴る。
明らかに、音が遅れて聞こえていた。
ルマンに引き倒された男が信じられない様子で鼻先を指で触れる。鼻が風で削ぎ落とされていないと知って安心したのか、腰が抜けていた。
女エルフはチトセの肩に人差し指を向ける。
「君、視えてるよね?」
チトセの肩に掴まっている精霊、エティが突き付けられた人差し指を睨み、虹色の翼を動かす。
「視えてるよ。貴女の周りの五体も」
チトセは女エルフの周囲を飛ぶ精霊をざっと見まわして答えた。
女エルフがにっこりと笑みを浮かべる。
「わたしはアシエラ。アンティークショップをやっているんだ。君、うちの店で働かない?」
女エルフ、アシエラがそう言った時には、ルマンたちマフィアは力の差を理解して路地の奥へと走り去っていた。
チトセは安堵の息をつき、立ち上がる。
「ほとぼりが冷めるまででいいなら」




