9、聖なる騎士のその人
ジルは地下への階段を、一段ずつ静かに下りていた。 足音はほとんど立てない。甲冑の関節が、わずかに金属音を立てるだけ。階段は古く、苔と埃に覆われ、ところどころ崩れかけた石段が危うく傾いている。壁には、旧時代の壁画が薄く残っていた。多腕の女神、象頭の神、炎を纏った四面の神……どれも色褪せ、ひび割れ、今や彼らの名前を知る者はほとんどいない。信仰されない神は幻想になる。当然のことだ。
空気は重く湿り気を帯び、腐った鉄と古い血の匂いが混じっている。遠くから、水滴が落ちる音が規則正しく響いていた。
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ジル・ペテロ。聖騎士であり、血縁関係で言えば、聖女の「息子」でもある。彼は「なり損ない」であったので正式な聖女の子である「器」にはなれず、ペテロ家の養子になった。聖女とは結界を維持する一柱であり、魔王の魂を閉じ込める器を産み続ける女のことを指す。
まぁ、それはどうでもいいとして。
なり損ない、出来損ないであっても、ジルはとにもかくにも有能優秀非凡であった。生まれのため「勇者」にはなり得なかったが、聖騎士という地位にはついた。別段望んでのことではないが、周囲が自分の能力を「こうあるべきだ」とした結果である。
人類を守る盾であり剣であれとされる六英雄になったのも成り行きだった。人はいずれ死ぬだろうと思うジルにとって、人の生き死にに関してどうと判じる心もなかったが、「助けて」と言われれば、人は助けるよう行動するべきなのだろうと、そういう程度の道徳心はある。ジルが助けられるものが人よりよほど多かったのだろう。それだけだ。
一年前、大神官が連れてきた黒い髪に黒い髪の少女。ニコニコと笑う大神官ラザレフに髪を掴まれ引きずられて神殿に連れてこられたその子供。泣きもせず笑いもしない。異世界から落ちてきたと言う。母と同郷らしいからと、話し相手に選ばれた。同郷という、それだけではないだろうが、母はこの子供をひどく気に入った。年老いてしわだらけになり、結界内に閉じ込められてから一度も外に出ることのなかった母は、この子供をとても案じた。「どうか元の世界に戻してあげてください」と、そのためなら自分は何でもすると母は言った。愚かなことだ。もう髪の毛の一本も、その吐く息の何もかも、神聖ルドヴィカの結界のものである母が今更何を差し出せるのか。
ある程度母と親しくさせてから、ラザレフはその子供を母から引き離した。奪われる際の母の悲鳴は強く、まだこれほど嘆くことができたのかとジルを驚かせた。もうとうに涙も枯れ果てたはずの母が、奪われる苦しみと悲しみを思い出したようだった。
ラザレフは少女に優しく告げた。「あのおばあさんが死ぬと、大勢が死んでしまうんだ。困ったね」と、まるで困っていない顔で告げた。その場にジルもいた。ラザレフは地図を取り出して、今の聖女が死ぬと、その次の聖女の結界で守れるのはこのくらいだと、わかりやすく図で見せた。その事実を知る時、多くの者は必ず驚くが、それでも少女の眉は動かなかった。異世界から来た彼女にとって、地図はただの絵であり、それがどれほど切り取られようと、実感の湧かないものなのだ。
「君にお使いを頼みたいんだ。君ならやってくれると、私は確信していてね。君の能力ならきっとうまくいくだろう。君にしか頼めないんだ。やってくれるね」
とん、とラザレフはその子供の肩に手を置いた。能力を見込む。才能がある。君は特別だ。なんて、他人を操る際に最も効率的な言葉を並べる。大神官ラザレフにそう請われるとたいていの人間は頬を紅潮させて使命感で一杯になる。
けれどその時その子供が浮かべた表情は、嫌悪、嫌悪、嘔吐しそうになるほどの、拒絶感。自分が他人の瞳にうつることを心底嫌がる、怯えた子供の顔だった。
あぁ、なんて可愛いひとなのだと、ジルは胸が熱くなった。
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「あの人、どうなったかな」
「心配ですか」
「実験とかどうとか、聞くと。どうなるんだろうって、気にはなる」
それは心配ではなくて興味や好奇心かもしれないとジャンヌは呟く。
階段が終わると、そこはさらに広い地下空間だった。天井は高く、古代の魔法灯が青白く弱々しく点滅している。床には、実験器具の残骸が散らばり、錆びた針や割れた硝子の破片が光を反射していた。
壁には、鎖のついた古い診察台のような台がいくつも並び、どれも血と体液の跡で黒ずんでいる。 そして――気配がした。 暗がりの奥から、複数の影がゆっくりと這い出てきた。
住み着いていた魔物たちだ。
旧時代の失敗作か、実験の残骸か。
人間の胴体に蜘蛛の脚を生やしたもの、腐り落ちた肉がだらしなく垂れ下がった死体のようなもの、石像が半分溶けて動く守護獣の残骸……どれも、結界の外でしか生きられないはずの穢れだった。
ジルは剣を静かに抜いた。
聖騎士の剣は、淡い金色の光を帯びる。最初の蜘蛛人間が、素早く跳びかかってきた。八本の脚が床を叩き、腐った牙を剥き出しにする。ジルは一歩も動かず、剣を横に薙いだ。刃が、蜘蛛人間の胴体を正確に両断した。腐肉と体液が飛び散り、壁にべっとりと張り付く。
続いて、二体目。死体のような魔物が、両手を振り上げて襲いかかる。ジルは剣を軽く回転させ、首と肩を同時に切り落とした。頭が転がり、胴体が崩れ落ちる。
三体目は、石像の残骸だった。動きは遅いが、岩のような腕が振り下ろされる。ジルは身を翻し、剣を突き刺した。聖なる光が、石の体を内側から焼き、魔物を灰に変えた。 魔物たちは次々と現れた。
その後、次々と魔物が現れたが、それらは五分も持たない。ジルはこの程度では表情一つ変えず、息も乱れない。ただ、機械のように正確に、効率的に、剣を振るう。血が飛び、肉が裂け、骨が砕ける音だけが、地下に響く。
「ジャンヌは私が怖くありませんか」
「今この状況で怖がるのは魔物の方だと思うけど」
「そうですか」
どうしてそんなことを聞くのかとジャンヌが首を傾げる。進んでいくと、通路の奥から、青白い光が漏れてきた。
魔族の気配が、はっきりと濃くなる。
聖騎士が変態だってことをもっとこんこんと丁寧に書けばよかったです。




