9、旧時代のなれの果て
暗闇の中で、野良犬はゆっくりと意識を取り戻した。 最初に感じたのは、冷たい金属の感触だった。背中が、硬く平らな台に押しつけられている。手首と足首に、何か重いものが巻きついている。鎖か、拘束具か。どちらにせよ、動けない。目を開けると、薄暗い光が天井から降り注いでいた。
寺院の回廊とは違う。ここはもっと奥、更に深い場所。地下だ。周囲は石壁ではなく、金属と硝子でできた無機質な空間だった。硝子なんて高級品、領主や金持ちの窓でしか見たことがない。
壁には無数の管が這い、淡い青白い液体がゆっくりと流れている。天井には、太い縄のようなものが束になって垂れ下がり、時折パチパチと火花を散らしている。
床の周りには、古びた何か箱のようなものが並び、針のような縄や、細い管が無数に伸びている。
中央に、巨大な硝子の棺のようなもの。中は空っぽだが、底に薄く液体が溜まり、微かに泡立っている。
空気が何か薬のようなものと、金属の匂いで満ちていた。野良犬はゆっくりと息を吐いた。この場にある何もかもを、自分はどう言語化すればいいのか見当がつかない。見たことのないものばかりだ。
誰もいない。
いや、いる。
暗闇の奥から、ゆっくりと足音が近づいてくる。三つの赤い目が、暗闇の中でぼんやりと浮かぶ。
灰青の体が、ゆっくりと光の中に踏み出す。その手には、細長い金属の棒が握られている。
先端に、針のようなものが付いている。
魔族は無言で近づき、野良犬の横に立つが言葉を発さない。言葉は他人に投げかけるもので、魔族は野良犬と言葉を交わそうとは考えていないのだろう。ただ、ゆっくりと手を伸ばす。
野良犬の腕を掴み、拘束具を外す。
いや、外したわけじゃない。鎖が緩み、代わりに別の拘束が巻きつけられる。金属が、手首と足首に食い込み、ゆっくりと締まる。痛みはない。ただ、冷たい。 魔族は野良犬の体を、ゆっくりと持ち上げた。まるで、壊れ物を扱うように。野良犬は抵抗しなかった。
蓋が動き、中から冷たい霧が立ち上る。底に溜まった液体が、青白く光っている。魔族は野良犬を、硝子の棺の中に横たえた。背中が液体に触れる、冷たいと思ったが、それほど不快感はなかった。
まるで、生き物の体液に浸かるような感触。棺の蓋が、ゆっくりと閉まる。硝子がカチリと音を立て、密閉され、中に液体がゆっくりと満ちていく。野良犬の体を、足先から飲み込んでいく。
管が、腕に刺さる。針が、首筋に刺さる。液体が、血管に流れ込む。
野良犬は、ゆっくりと目を閉じた。
ロクでもない自分の人生が、最後は妙におかしなことに巻き込まれて終わるらしい。激痛がないだけましかと、油断した一瞬。
何かが、血管の中に滑り込んでくる。細い針みたいなものが、首筋、腕の内側、太もも、脇の下……体中の穴という穴に、容赦なく刺さっていく。
次の瞬間、激痛が爆発した。
「ぐっ……!?」
野良犬の体が、びくん、と跳ねた。
背中が硝子に叩きつけられ、頭が後ろにのけぞる。
痛みは、ただの痛みじゃなかった。体の中の全部が、引き裂かれ、溶かされ、別の形に無理やり押し込められている感覚。
骨が、筋が、血が、皮膚が、一つ残らず「組み替え」られている。血管が熱い鉄の針でかき回され、内臓が外側から握りつぶされ、目玉の裏側まで何かが這い回る。
喉の奥から、胃の底から、股の間から、耳の穴から、鼻の奥から……ありとあらゆる穴に、熱い液体が注ぎ込まれ、肉を抉りながら奥へ奥へと進んでいく。
「う……ああああああっ!!」
野良犬はのたうち回った。水中で頭を振り、足をばたつかせ、指を突っ張る。拘束具が皮膚を食い込む。しかし、棺はびくともしない。透明な壁は、野良犬の狂った暴れを、ただ静かに受け止めている。箱の中の虫を観察するみような。野良犬の痛みは止まらない。
骨の髄まで何かが侵入してきて、骨自体を削りながら新しい形に変えようとしている。皮膚が内側から破れ、肉が溶け、再生し、また破れる。
目が、耳が、舌が、全部が同時に焼き切られるような感覚。
叫び声すら、喉の中で泡になって詰まる。
涙と血が硝子の内側にべっとりと張り付き、水中に混ざる。
視界が赤く、青く、黒く、ぐちゃぐちゃに滲む。 棺の外で、三つの赤い目が、じっとこちらを見ている。
魔族は動かない。
野良犬の体は、ガラスの棺の中で、永遠に続くような苦痛にのたうち続けていた。
誰も助けに来ない。
誰も見ていない。
こうして終わるのかと、野良犬は自分の人生が「やっぱり糞じゃねぇか」と、吐き捨てた。




