7、簡単なお仕事
投げ込まれた供物を受け取った魔族の三つの目が、足元の野良犬を捉えたまま、ゆっくりと細くなる。
灰青の爪が、ゆっくりと伸びる。指先が野良犬の襟首を掴み、布が引きつれる音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
足が血だまりに沈み、赤黒い液体が靴底に絡みつき、ねっとりと糸を引く。回廊の奥、暗闇がまるで生き物のように蠢き、魔族の輪郭を少しずつ飲み込んでいく。
灰青の肌が影に溶け、三つの赤い目だけが最後に残り――ぱちりと、灯りが消えるように消えた。残されたのは、静寂と、血の匂いと、遠くの塔から微かに響く鈴の音。
異形の存在が去ったことで、剣士は膝から崩れ落ちた。緊張感。どっと、全身から汗が噴き出る。腕の中にはリリーディア。彼女は身じろぎしてその腕から飛び出すと、戦士の亡骸にすがりつき、嗚咽を漏らしていた。
白い法衣が血に染まり、緑の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女の細い指が、戦士の冷たくなった頰を撫で、震える声で繰り返す。
「どうして……どうして……どうして……」
声が、回廊の壁に反響し、まるで寺院全体が彼女の悲しみを吸い込んでいるかのようだった。剣士は彼女を抱き寄せ、背中をさすった。自分の手も震えているのに、必死で声を絞り出す。
「大丈夫だ……俺がいる……俺が守る……」
大丈夫だ、と剣士は自分に言い聞かせるように呟いた。戦士はもういない。野良犬も、魔族に連れ去られた。いや、それはいい。あの犬を投げ出す決断をした自分の結果、リリーディアや自分たちは今も息をしていられるのだ。
今あるのは安堵だ。なにが犠牲になってもリリーディアがまだ息をしている、という事実だけ。彼女の体温が、腕の中に残っている。柔らかな髪の匂い、震える肩、涙で濡れた頰。
(彼女が生きてる……それだけで……それだけでいい……)
魔法使いが、杖を突きながらゆっくり近づいてきた。けだるげな表情は変わらないが、声は低く掠れている。
「……町に戻ろう。このままじゃ、僕たちも終わりだ。組合に報告しないと……魔族が結界の中にいるなんて、ありえない。それに、この遺跡を調べてる、のか?ここは旧時代の創作物じゃなかったのかよ……」
剣士は頷いた。
「それがいい……そうだな……」
戦士の死は悲劇だ。だが、生き残った者たちがやらなければならないことがある。この寺院に魔族が潜んでいること。あり得てはならないことだ。聖女の結界の中に、魔族は存在するはずがない。となれば、あれは特別な魔族かもしれない。
それを、誰かに伝えなければ。
リリーディアを、町へ連れ帰らなければ。
彼女の涙を、拭いてあげなければ。
剣士はリリーディアを支えながら立ち上がり、ジルの方を振り返った。
「ジルさん……殿をお願いできますか?俺たちはリリーディアを連れて、先に……」
剣士たちはジルがいつものように微笑んで承諾すると思った。予想通り、三人に見つめられたジルは微笑んだ。だがそのあとに続けられた言葉は、彼らの予想した「えぇ、もちろん」というものではない。
「予定外ですが、これも仕事ですね。ジャンヌ」
その言葉が終わらないうちに、剣士の視界が、突然揺れた。 ジルが剣を抜いたのは、かろうじて剣士の目で捉えられた。煌びやかな甲冑が、薄暗い光を反射して一瞬、太陽のように眩しく輝く。
剣士は反射的に剣を構えようとしたが、遅かった。刃が、剣士の喉を横に薙ぐ。熱いものが噴き出し、視界が真っ赤に染まる。剣士の体が、ゆっくりと傾く。
倒れる前に、リリーディアの顔が見えた。
彼女の緑の瞳が、驚きと痛みで大きく見開かれる。 ジルの剣が、彼女の胸を貫いた。 白い法衣が、真っ赤に染まる。
リリーディアの体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
彼女の唇が、震えながら動く。「ジ、ジル……さん……?」 声は、すぐに途切れた。
ハロルドが杖を振り上げようとしたが、ジルのもう片方の手が、素早く動く。
短剣が、ハロルドの首筋を貫き、魔法使いの体が崩れ落ちる。三人の体が、ほぼ同時に床に倒れた。
血が広がり、戦士の血だまりと混じり合う。赤黒い液体が、ゆっくりと石の隙間に染み込んでいく。神の鈴の音が、遠くで微かに響く。
「……はぁ……やれやれ。まったく、どうしたものか」
ジルは剣を払い、静かに息を吐いた。青い瞳に、わずかな翳りも浮かばない。
「魔族が結界の中に存在している。その上、魔族にとって旧時代の遺跡が価値がある。これを知られるのは、望ましくありません」
ジャンヌは、無言でデバイスを握りしめたまま、倒れた三人を見下ろしていた。
「……つまり?」
ジルは穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「あの連れ去られた青年も、確実に処分しておかなければなりません。あの魔族がきちんと処理する、という保証はないでしょう?まったく、困りましたね」
「それって、大変そう?」
「えぇ。まぁ、魔族とやり合わないといけませんし……放っておければ楽なんですが。そうもいきません。私はジャンヌとのんびり巡礼の旅ができていればそれでよかったのですが」
再びジルは溜息をつき、剣についた血を払った。
まじかよお前。




