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2、気が付いたら異世界


***ジャンヌの記憶***


 アイキャンフライと、コードレスバンジー。


 これでもそれなりに、早々と見切りをつけることなく、辛抱と未来への信望として生きてきたつもりだったのだけれど、ある日ぷつっと「あ、無理」となった。


 胸の奥で何かが乾いた音を立てて切れた瞬間、涙さえ出なかった。ただ、虚無が広がるだけだった。


 それが具体的に何がそんなに無理だったのかの言語化を、今はジャンヌと呼ばれるようになった日本人の〇〇×××は諦めている。


 放り投げられたのは石畳の街路。空気は冷たく湿り気を帯び、鼻を突く石と馬糞と薪の煙の匂い。見上げる空は灰色がかった青で、決して日本の柔らかな青空ではない。異邦人の自分がここにいるという事実が、肌に突き刺さるように実感された。言葉が通じず、泥まみれの道を這うように歩きながら、ただその日暮らしで生き延びた。


 孤独が骨まで染みて、夜になると震えが止まらなかった。


 ようやくたどり着いたのは、古びた石造りの孤児院。蔦が這う壁、苔むした階段、窓から漏れる蝋燭の揺らめく光。尼僧たちの穏やかな声と、子供たちの笑い声が混じり合う場所だった。彼らはジャンヌを拒絶しなかった。


 そこで不思議なことが起きた。いや、気付いたと言うべきか。どうりて自分がこの孤児院にたどり着きまでそう大事に巻き込まれなかった理由の理解にもなった。


 いつもいつも、食事が一人分足りないのだ。食事だけではない。誰かが外に出て、何か人数分用意しようとすると、一人分足りない。

 孤児院の尼僧たちが人数を数えて、誰か足りていないのか、あるいは増えているのかと確認しても、「ちゃんと全員いるし、全員知っているのにねぇ」と首を傾げることになる。


 一度対策として、名札を作ったり、名簿を作ってチェックして用意したりもしたのだけれど、必ず一人分足りなくなる。これは孤児院の幼い子供たちにとってちょっとした怪談扱いにもなった。誰か妖精が紛れ込んでいて、知らない間に友達の振りをしているんじゃないかと囁き合った。一人増えているのにわからない謎。


 ジャンヌ自身も最初は戸惑い、そして気付いた。「誰か」とは自分だった。自分が「いる」ことが、自分の視界から外れてしまうと忘れられる。厳密にはある程度の距離が必要だが、ジャンヌを目の前で認識し続けければ、誰もジャンヌを「覚えて」いられないらしい。

 

『あぁ、神が穴から落としてきたのは、へぇ、君かぁ~』


大神官というよりは売れないホスト。あるいは大学のよくわからないサークルの学生のような、この世の軽薄さを集めて人の形にしたような男が、ジャンヌを見て面白そうに頷いた。


『どこにでもいて、どこにもいない君。いやぁ、良いね。都合が良いね』


髪から肌から何もかも白い男は、ジャンヌの方に手を伸ばした。



■ 


 ぱちぱちと焚火の音が夜の闇を優しく裂く。月明かりの下、スマホの画面が青白く光り、ジャンヌの顔を照らす。


「目が悪くなりますよ」とジルが苦言を呈してくる声は、いつでも優しい。


「前に撮ったやつを見返してるの」

「便利ですよね。それ。あぁ、それは、ルーナ王国の」

「そう。両家がずっと敵対同士だって家の跡取り娘と息子さんが。どうせ滅びるならってもう良くない?って、結婚式あげたやつ」


 スイスイと画面をスクロールさせる。動画の中では、複雑な表情の家族たちが新郎新婦を祝福している。花びらが舞い、鐘の音が響き、終わりゆく世界の最期に、せめて愛だけは許された瞬間だ。


「夕暮れの街で祝福される結婚式。美しくも儚い光景ですね」

「そうだね」


 ジルは金の髪を焚火の光に揺らし、青い瞳で静かに画面を見つめる。モテる聖騎士の姿が映るたび、普段ぼんやりした表情のジャンヌの顔に少しだけ笑みがこぼれる。


「ジル、モッテモテ」

「お恥ずかしい限りです」 


蜂蜜を垂らした白湯のカップが差し出される。温かさが指先に染んだ。ベーコンとチーズのパン。立ち寄った先の村人たちの善意が詰まった食事である。


「……ジルは、動画に残したいことってある?」

「私ですか?」

「そう。ほら、前の村の村長さんの奥さんが、「それでずっと残るのかい?」って。動画撮ったでしょ」

「あぁ。村の歌や言い伝えを残した時のですね」

「うん。そう。最後の方はなんか、皆で自己紹介する動画になったけど」 


 てんやわんやと、生きていた記録。


 誰それの子供だの、娘だの、孫だの、産まれた子羊だの。


「自分が後世に残ろうとは、思わないですね」

「まぁ、ジルは中央の人だし、今残さなくてもいいか」 


それにジルは吟遊詩人にも歌われている。絵画で、サーガで、人の噂で、この聖騎士様は残るだろう。


いつでもいつだって、ジルは自分の傍にいるのだから、今でなくてもいつでも撮れるからいいかと、そのように。




「……」


 段々と、ジルの身体から体温が失われていく。


 人が死ぬ時は、こうやって死んでいくのだとジャンヌは知った。


 その体には大きな穴。背中から胸にかけて、魔物の角に貫かれ、どくどくと血が流れ出る。太陽は真上に輝き、青い空はどこまでも澄み渡り、風は穏やかに草を揺らす。良い天気。歩いて、少し休憩して、お茶でも飲もうという、そんな日でよかったのに。


 世界は明るい。なのに血の赤が草を染め、ジルの金髪が陽光にきらめく。ジャンヌの視界は暗くなる。


「あぁ……どうか、逃げてください」


 ごほごほと血を吐きながらジルが言う。


「逃げていいの?」

「もちろんです。望んでいますよ」

「嘘つき」


 ジャンヌは顔を顰め、声が震える。


「わたしを忘れたくないから、私の護衛騎士になったくせに」

「……それは、そう、です。おや、ご存知でしたか」


 青白い顔で、ジルが笑う。ごほ、ごほと、咳。


「貴方を忘れながら死ぬのはもちろん嫌ですが。貴方が無事に逃げる姿を見て死にたい」


 それだけははっきりと告げる声。


 ジルの手は、必死に逃げようともがいている青年の手を強く掴んでいた。死にゆく男の腕とは思えない力強さ。必死に必死に青年はジルを罵るが、ジルは青年に誓わせるまでこの手を放す気がなかった。




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