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1、君の名は


「その戯言を誰が信じると?」 


 ネルトザーの屋敷の客間は、午後の柔らかな陽光がステンドグラスの窓から差し込み、床に淡い七色の光の斑を散らしていた。重厚なオークの梁が天井を支え、壁には古いタペストリーが掛かり、色褪せた糸で描かれた地母神の豊穣の物語が静かに息づいている。

 テーブルの上には羊皮紙が広げられ、その横で湯気の立つ紅茶の香りがわずかに漂っていた。


 癖のある灰色の髪を後ろに撫で付けた初老の貴族――ネルトザー子爵は、困惑を隠しきれぬ表情で、紙と向かいのソファに腰かける少女を交互に眺めていた。


 暦の上では「六つの星」の下旬。日差しは徐々に熱を帯び、窓の外では娘たちが当家自慢の庭で水遊びを始めていた。庭園は石畳の小径と噴水を中心に広がり、辺境とは思えぬほど手入れが行き届いている。地母神の恩恵と聖女の御加護を受けたこの土地は、夏の訪れとともに色とりどりの花を咲かせ、特にこの地方でしか採れない瑠璃色の「星花」が今まさに満開を迎えていた。風が吹くたび、甘く透明な香りが客間の窓辺まで運ばれてくる。遠くの畑では麦が黄金色に揺れ、実り豊かな大地が静かに息づいていた。


 そんな穏やかなネルトザー子爵邸に、思いもよらない訪問者が訪れたのはつい先ほどのこと。知った間柄ではなく、事前のお伺いもない突然の客は二人組。背の高い立派な甲冑姿の騎士はネルトザー子爵も良く知る人物だった。神聖ルドヴィカの聖騎士ジル・ペテロである。十年前の大戦では魔族から人類を守った六英雄の一人。そんな人物が訪ねてきて、無作法を理由に追い返すのはあまりに惜しい。一緒にいる黒髪の少女は従者かシスター見習いだろうかと、まず聖騎士に挨拶をすると、主人は少女の方であるとやんわりとジル・ペテロが訂正した。 黒い髪に黒い瞳、白い肌の少女をジャンヌと、聖騎士は紹介した。


「信じる信じないはご自由に。わたしはただ、告知をしているだけです」

「――次代の聖女の即位の際、この国を覆う結界は消えるので今のうちに私の所有する文化的財産を聖王国に献納するように。これは、脅迫ではなくなんだというのだ」


 これが少女一人の言葉ならネルトザー子爵は少し小ぎれいな物乞いが来たのだと微笑して、使用人部屋で食事をさせて帰すくらいの優しさがあった。彼はそういう善良な人間である。


 だが聖騎士を伴ってのこの言動。つまりこれは、聖王国の脅迫だろう。次の聖女が結界を張る際に、お前の国を故意に外されたくなかったら財を寄越せ、と。


 当代の聖女、雫の聖女様が病に臥せり大神官が好き勝手していると噂で聞いたが、まさかここまでとは。ネルトザー子爵は憤る。聖女は人類の光、心の支えだ。それを利用して、このようなデマを使い、財産を巻き上げようとするなど。


「……ねぇ、もしかして。わたし、上手く伝えられてないかんじ?」

「いえ、ジャンヌ。毎度こうした反応なのは、誰もが空にある太陽はいつまでも不変であると信じているからですよ。貴方の説明は誠実です」

「そう。ならいっか」


 憤慨し顔を険しくするネルトザー子爵を見て、ジャンヌという少女は眉を顰めた。それで今度はもう少し言葉を多くして「告知」を行う。


「残念ながら、純然たる事実として、結界は小さくなります。次の聖女たる潮の聖女様は雫の聖女様ほどの御力がないのです。これは聖王国が主導で行う、この世界の人類史を絶やさぬための保存計画です。って大神官が」

「そのような話は聞いたことがない!」

「知られたらパニックでしょ。大々的にいうわけないでしょ」 


 どん、とテーブルを叩いた子爵に、ジャンヌは首を傾げた。


「だとすれば……!それが事実だとすれば……!まず守るべきは、残すべきは民だろう!」


 こうしてはいられないと、ネルトザー子爵は部屋から出ようとする。今すぐ領民たちにも遠出をする準備をさせなければならない。家族にもだ。王都まで行けば問題ないだろうが、それにしてもどれくらいの時間が残されているのか……。


「この告知は、私が貴方から離れると貴方の記憶から消えます」


 扉へ向かう子爵の背にジャンヌが告げた。


「欲しいのは承諾だけ。貴方は私のことを忘れ、私の告知を忘れてもただ「聖王国に自分の価値あるものを送る」という考えが残る。ので、決めて貰えればいいんです。全部失うか、一部でも残すか。なお人は、受け入れられるスペースがありません」


 黒い目が真っすぐにネルトザー子爵を見た。黒い目。この世界に黒い瞳の人類はいない。地母神、あるいは天空の、大海の、あらゆる神々の祝福を受けて生まれてくる人間種の瞳の色は大きく分けて七色あるが、黒い瞳はありえない。 その瞳がネルトザー子爵を見る。


 男として、父として、あるいは息子として、兄として、領主として、臣下として、ありとあらゆるネルトザー子爵の「立場」「顔」を見抜きながら、どれを残してこの面前に立つのかと問うているようだった。


 この密室で、この訪問の短い時間で決めてくれと、テーブルの上のクッキーに手を伸ばしながらジャンヌが求める。


 あぁ、魔女め。魔女がやってきたと、子爵は頭を抱えた。



「評判通りの人格者でしたね」

「うん、やっぱり責任感が強い人はやりやすいね」


 ネルトザー子爵の屋敷を後にして、ジルとジャンヌは本日の感想を言い合う。二人は徒歩かちである。屋敷の門を出ると、目の前には緩やかな丘が広がり、道沿いには野バラと白い野花が点々と咲き乱れていた。遠くの農地では農夫が牛を引いてゆっくり歩き、風車がのんびりと回っている。空はどこまでも青く、雲は白い綿を引いたように流れ、時折鳥の影が大地を横切った。


 この仕事をするにあたり、どちらかと言えば面倒な展開になることの方が多い。そのための筋肉担当のジルがいるのでそれほど問題ではないが、怒号と罵声を浴びるのが好きな人間はあまりいないだろう。 伯爵の所有する美術品や骨とう品、書物は恙なく中央に運ばれる。もちろん伯爵は「……これだけ手放すのだから。捧げるのだから、せめて家族……娘だけでも」と項垂れた。娘を大神官の側仕えに、とまで言ってきたが答えはNOである。『これらの物を失っても神は構わない。泥の中に沈んでも、それはそれと仰せでしょう。ただ貴方が文化人として、価値ある物としてこれらを次の時代にも残したいと考えるなら、送って頂ければいいのです』と、ジャンヌは大神官ラザレフの言葉をそのまま伝えた。


 意地になって全財産自分と一緒に心中する選択でも、神は一向に気にしない。これはネルトザー子爵の交渉材料にはならず、対価として扱われることもない。


 そして駄目押しとばかりに、ジルがネルトザー子爵に「次の結界の大きさ」を現した世界地図を見せた。古びた羊皮紙に描かれた地図には、複雑な魔法陣のような線が幾重にも張り巡らされ、今の結界の範囲が淡い金色の光で示されていた。その外側――そして新たに縮小される結界の境界は、冷たい青灰色の墨で無情に引かれていた。これを見た瞬間、子爵の髪は真っ白になった。


「あ、これ、撮っておかないと」

「ジュウデン、というのは足りていますか?」

「結構祈ったから大丈夫」


 ひょいっと、ジャンヌは道端の草や木を見て記憶デバイスを取り出した。デバイスで保存すれば神のデータベースにも共有される。植物だけではなく、街や人、風景、あらゆるものをジャンヌはスマートフォンのカメラで写した。丘の向こうに沈みゆく夕陽が麦畑を赤く染め、遠くの森のシルエットが黒く浮かび上がり、風に揺れる草のささやきが、二人の足音に混じって消えていった。



アン〇ロイドなのかアイ〇ンなのか。

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