四話
その日は基本的な飲み物、コーヒーと抹茶の使い方を学んだ。
「コーヒーもお茶も同じで、沸騰したばかりの熱い湯は使わないんだ。少し落ち着かせてから、注いでくれ」
そうして織部は、締まりのない笑顔をした時とはうって変わった真剣な面立ちで、コーヒーを入れた。
くすんだ灰色のカップにそれらを注ぐと、苦くもほのかに甘い香りがした。
「縁庵ブレンドだ。飲んだのは大志が初めて」
「ん、じゃあ頂きます」
そうして一口、啜る。
すーっとした清涼感を持った酸味と共に、ほろ苦い余韻が残る。
癖がなく、甘いものにも惣菜系の料理にも合わせやすい味だ。
「美味いな」
「ありがとな!」
そうして二人でコーヒーを飲みながら、仕事の話をする。
「制服ってどうすんだ?」
「白くて目立たない上着と黒いスラックスなら何でもいいって感じかな。一応制服代わりに、腰に巻くエプロンはあるよ。ほら!」
といって、織部は得意げに深緑色のエプロンをその場で巻いた。
喫茶店で店員が身に着けている、ギャルソンエプロンという奴だ。
膝下までのエプロンを身に着けた彼の姿は絵になっていた。
白いシャツなら、倉庫に買い替えようとしたワイシャツがある。織部が指定するような黒のスラックスもだ。
制服の心配はなくなったが、少し心許ないので今日中に服や必要なものを買いに行こうか。
「制服になりそうなのは、持ってる。あとは……そうだ、オーナー。この店のメインターゲットって誰だ?」
「メインターゲット?」
「来て欲しい客層だよ。こういう店って、来て欲しい客を選ぶもんだろう? 若い学生とか、家族層とか。一応そう言うデータを取ってた仕事もしてたからさ、この店の為に活かせると思って」
こういった仕事は、大志の得意分野だ。
データを纏め、それらを伸ばすためにどうすればいいのかを考える。
無駄だと思っていた三年間が恩人の役に立ついい機会だ。
だが、当の織部は首をひねった。
「なんでそういうのにこだわらなきゃいけないんだ?」
「は? だって、そういうの決めて売っていけば、儲けになるだろ?」
「でも、こっちがお客さんを決めたら、それ以外はいらないってことになるだろ? そんなの悲しいじゃねえか」
「オーナー……でもさ」
「俺はどんなお客さんにも満足していって欲しい。そんな憩いの場なんだよ、縁庵は。だからごめんな。選べねえや」
無謀だ。
こうして無謀に歩んで失敗した人間を、大志は星の数ほど見てきた。
織部は理想を言うが、大志にとっては縁庵の成功は生命線だ。
だからこそ自分の意見を聞いてもらおうとした、その時だ。
「みどりや。今帰ったぞ」
正面玄関、店の入り口という場所が開いてもいないのに、声がした。
男とも女ともつかない、不思議な声だった。
大志が声の主を探すと、それは自分と織部の間に、さもずっといたかのように座っていた。
「うお!?」
驚きの余り声をあげて立ち上がった。
狐であった。
それも動物園にいる様な黄色の毛並みの狐ではない。
毛並みは真っ白で、目の下に赤く紅を引いた、神社の置物がそのまま命を持って動いているかのような狐だ。
狐はさも当たり前かのようにカウンターに座り、くあ、と欠伸をした。
「おかえりなさいコン様」
「うむ。妙な匂いがすると思ったが、なんじゃ人の子か。わしを見て随分驚いているようじゃの。若いのう」
コン様と呼ばれた狐は、くつくつと好々爺のように笑っている。
目の前で狐が喋るのをみた大志はパニック状態だった。
「しゃ、しゃべ……きつね、しゃべ!」
まともに喋てなくなった大志を見て、織部は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「……神様の家が置いてあるっていうから、わかってくれるとは思ったんだけど」
「だからって! しゃべる狐がいるなんて思わねえよ!」
「はえ~? なんじゃあ坊主。人に近しい狐など、お主らがよく眺めておるすまほでも良くいるであろう。乳と尻の腫れあがった女の狐やら、目鼻立ちの整った男の狐やら。今更狐が喋ったところで何を言うやら」
「アレは、現実じゃないって思って……え……ほ、本物の、神様? ってことは、お稲荷様?」
ようやく冷静さを取り戻した大志に織部は間に入って、説明する。
「そう。このお方は人間がお稲荷様って呼んでる神様。本名は金色稲荷様。このお店の守り神だよ」
「そそ。みどりの言う通りじゃ。せいぜい励むがよいぞ、坊主」
成猫ほどの大きさの狐、コンはピョンとカウンターから飛び出して土間を歩き、軽々と織部の肩に乗る。
「それより、神饌はまだか? 今日のわしは抹茶の気分故、それに合うものがいい」
「しんせん?」
「神様のご飯のことだよ。じゃ、コン様。待っていてくださいね。大志の分も作るから、ちょっと待ってて」
そういって織部は肩に乗ったコンを大志に渡し、パタパタとカウンターを通ってキッチンに向かった。
生き物に触れたことがない大志は未知の感覚に戸惑っていた。
ふわふわとした柔らかな毛。その奥に固い骨と肉があり、命があると感じた。
「というわけじゃ。大志よ。運んでくりゃれ」
「あ……え、えっと、はい」
断る理由もなく大志は慎重に運んでいく。
コンが最初に座っていた場所に戻すと、どこか居心地悪そうに再び席に着いた。
「お主も災難だったの」
「はい?」
「まあ、わしのような者は人間の願いを聞いてきた故な、人の子の顔を見ればそれがどのように生きて来たかわかるのだ。大志とやらは随分苦労したと見えるが?」
つまりはエスパーのようなことが出来る。
そう言いたいのだろう、と大志は判断した。
確かに、人生最悪の日とばかりに苦労をしたのは事実だ。
「まあ、必死に勉強して入った会社を理不尽にクビになって、その日に家が燃えましたからね」
「だが、こうしてみどりが拾ってくれた。これはまさに、あの子が大事にする縁というやつじゃろう」
「縁……」
大志の記憶ではそれは人との絆とか関わりを意味する言葉だったはずだ。
ふと、自分が真実の仲間だと思っていた連中の顔がよぎる。
その次に大志に「先輩にきついこと言われてもくじけるな。一緒に乗りきろう」と言ってくれた同僚。
そして、両親の顔が。
大志と縁で繋がった者はもう彼の側にはいない。
裏切られて、見捨てられ、ある日突然去られた。
(縁って、そんないいもんじゃねえよ)
心でその言葉を呟いて、唇を噛み締めた。
「今はツラくとも、いつかその不幸を笑える日が来るさ。それに、緑はいい子じゃ。きっとお主を明るい方へ導いてくれるであろう」
いつも笑顔を浮かべているように見える紅を口端にしている、コン。
そんな彼が今、本当に微笑んでくれるような気がした。
「はい、お待ちどおさま。今日のご飯はチキンカツサンドだよ。コン様にはお抹茶」
カウンターから腕が伸び、皿を置いた。
透明な肉汁を滴らせるチキンカツ。その衣につけた香ばしい薫りのこげ茶色のソースが食パンと千切りのキャベツに浸み込んでいる。
昨晩から何も食べていない大志にとって、目の前にあるそれは涎が止まらなくなるものだった。
「……いただきます」
いつしか言わなくなっていた食前の挨拶を言って手を合わせ、両手で掴んで口に運ぶ。
サク。
衣にソースを滲みこませてもまだ食感の残る衣とキャベツが、口の中でいい触感を与える。
瞬時に、肉汁が溢れソースと合わさって口内に広がる。
一口、一口食べるほどに食べる手が止められない。
「良い食いっぷりじゃのう」
自分専用の湯飲みを器用に前足で掴んで啜りながら、コンは大志の食事の様子を見ていた。
作り手である織部も、後片付けをしながら彼を微笑ましく眺めていた。
※
時は流れ、縁庵オープンの日。
掃除やら食材集めや、ビラ配りなどの広報活動もして、準備万端であった。
身の回りの物を揃え、エプロンを巻き付けた大志もどこか誇らしい気持ちになっていた。
「やっぱり似合ってる」
「ありがとよ」
織部から見せてもらったレシピや、飲み物の淹れ方の纏めもノートに写して復習したし、接客面でのハウトゥー本も呼んできた。
予習は完璧だ。
「任せよ、皆の衆。わしの加護を持ってすれば千客万来ぞ~」
「と、言うわけだから。忙しくなり過ぎたらごめんね」
祠の側でくいくいと前足を動かし、拍手をするような動きをするコン。
織部も照れ笑いをしている。
神というものを信じてはいない大志ではあるが、今日は頼みたくなった。
(お稲荷様のお陰で客が来て儲けが出るなら、ありがたいな)
そして開店時間となり、織部は外に出て暖簾をかけた。
「縁庵へようこそ。いらっしゃいませ」
高らかに、良く通る声で客を呼ぶ。
ほどなくして彼は客を連れて来た。
「いらっしゃいませ、空いてるお席におかけ下さ――」
笑顔を浮かべて頭を下げ、顔を上げた。
また大志は固まってしまう。
織部が連れて来たスーツ姿の男は、目が一つしかなかった。
「ここが縁庵? いいとこじゃん」
次に現れた制服姿の女子は首が異常に長く、くねくねと蛇のように伸びる首を動かしながら店内を見渡していた。
その次に尾が二つに別れた二本足で歩く猫。お次に三対の腕を持った蜘蛛人間。
喋る狐を見た時点で覚悟はしていた。
今までの自分では理解の出来ない存在がまだこの世にいるのではないかと。
だが、それがこの店にやってくるとは思わなかった。
「どーじゃ坊主。お客様が多くてぱにっくになるでないぞ」
(もうなってるわ!! つか客って……みんな妖怪ばっかじゃねえか!!)
大志は心でそう叫ぶのだった。
こうして新たな職場の場でのスタートは、波乱の一日となった。




