十四話
大きな男の影が、また腕を振り上げる。
その手に握られているのは、ゴルフクラブだ。
男は丸まった少年の背に、それを振り下ろす。
何度も。何度も。
自分の血を分けた息子の、小さな背に向かって。
怒りのままに言葉を発しているせいか、意味をなさない怒鳴り声を上げながら。
少年の母親は今、彼らと一つ屋根の下にいる。
それでも彼女は少年の元には来ない。
自分の好きなオペラを流して彼らの音を遮っているのだ。
自分の夫が息子に何をしているのか知った上で、その真実から目を逸らして「自分の家庭は完璧だ」という嘘に縋るために。
男はようやく意味の分かる言葉を喋った。
――お前が悪い。俺が正しい。死ぬ気で努力しろ。そうできないならここで殺してやる。
男は自身を正当化するために、また腕を振り上げる。
最早少年は痛みを感じなくなっていた。
ただ本能的に頑丈な背中を差し出し、致命的な弱点である頭を腕で庇うだけだ。
「あいすけー」
名前を呼ばれ目を覚ます。
明かりの無い自室は暗く、色がない。
今は深夜なのだろう。
和尚である順鶴も寝ているはずだ。
だが扉から声がする。
ここにはいないはずの男の、父親の声が。
「あいすけー。ここを開けてくれー。父さん反省したんだー。謝るからー。俺がしたのと同じことしてもいいからー」
愛助はわかっている。
これは父親ではないと。
実家には”あの日”から帰っていない。
そしてもうあの家には昔ほどの力もない。
それに父親はもう、自分のことを知る事は出来ない。
そのはずだ。
それでも時折、こうして自分の元に来るのだ。
何処に居ようとも。
愛助はむくりと起き上がり、扉の前に手を合わせた。
順鶴からまず最初に学んだ大悲咒を唱える。
「許してくれよーあいすけー。また母さんと一緒に暮らそー。あいすけー」
もうその声を聞いても鳥肌は立たない。
まるで愛しいものの名を呼ぶような猫撫で声で自分を呼ぶ。そんな父親の声を初めて聞いた時は、嘔吐したものだ。
ただ早くそれが去る様に、読経を続けた。
次第に扉の向こうの声は、彼が知るものになっていく。
「あぁけろおおぉおおおこぉろしてやるぞぉおできぞこなぁいいぃぃいいごぉくつぶしぃいいいいいぃ」
脳で再生される、歪な不協和音。
それが愛助にとっての父の声だった。
この時が一番安堵する。
もうすぐだ。
唱え終わる時には、夜闇に沈黙が戻っていた。
「……はあ」
こうすればもう、しばやくはアレはやってこない。
それでも安心して布団に戻る気にもならなかった。
ふと、机の上に置いた抹茶色の名刺が目に入った。
縁庵。
自身の後輩である柿花大志が見つけた、新しい場所。
柿花大志は八海連合にいた時よりも今の彼は晴れやかな顔をしていた。
誰も信じず、ただ暴力に頼り自分の周囲を威圧していた。
だが八海連合の名を借りて好き勝手したがる他のメンバーとは違い、いつも孤独を抱えていた。
そんな彼が今は、心の底から笑顔を浮かべることが出来ている。
今の彼は信頼できる人間に出会えたのだろう。
日中に先輩風を吹かせて言った、自身の言葉を思い出す。
『何かあれば、すぐに言えよ』
不甲斐なさに顔を覆い、俯いた。
「……誰かの助けになるなんて、言える立場かよ」
愛助の自嘲は、誰かの耳に届くことはなく、井戸に落ちた小石のように闇に消えていった。




