一話
忘れ物がないのを確認して、柿花大志は自分の三年間が詰まったダンボールを抱えた。
同僚たちは彼と目を合わせようとせず、斜め下を見るに留めた。
パーテーションで区切られた談話室を通り過ぎようとすると、男性の声が耳に入った。
「いやぁ〜、いつかやると思ってたんだよねぇ。あの高卒くんは。つか、あれだけの事して懲戒免職にしないとかうちの会社甘いよね〜」
間延びした毒のある口調。
大志にはそれが先輩の安田だと分かった。
なにかと大志に絡み、ミスを見つけると鬼の首を取ったよう晒し上げた。
そういう、折り合いの悪い人種だ。
……会社の失態を一社員が責任を背負って解雇される。
きっとよくある話なんだろう。
高卒採用であり、喧しく言ってくる親戚のいない天涯孤独の身なら尚更だ。
薄い壁の向こうでは安田は声高らかに、同僚たちを侍らせて大志の愚痴を続ける。
やれ「親なし」とか「高卒」とかいう単語を繰り返し、それに比べて自分がいかに素晴らしいかを述べている。
ホールに着くと、背後から名前を呼ばれた。
「柿花くん!」
高い声とヒールの音に振り返ると、自分と同期の女性社員、長井菫がいた。
「何の用? 長井さん」
「あの、私……謝りたくて。何もしなかったわけじゃないんだよ? 人事の人に柿花くんの事話したりしたし、まさか、こんなことになるだなんて……」
息を切らした彼女は、その瞳を潤ませながら言う。
まるで自分が主役の舞台に立っているかのように。
大志は彼女の思惑に気づく。
彼女は加害者になりたくないのだ。そして大志から悲しむ権利を奪い、自分こそが被害者だと宣いたいのだ。
だからこそ、大志ははっきりと言った。
「いいよ。気にしてないから。長井さんはさ、安田さんのとこ戻りなよ」
二人の関係は部のみんなが知っていた。
こっそりと倉庫で身を寄せ合い、名前で呼び合って睦み合っていることを。
安田の名前を出された途端、顔色を青ざめさせた菫。
だが、すぐにキッと大志を睨んだ。
「……いつもそうだよね。柿花くんは。いつも自分だけが頑張ってますって顔して、他の人の事馬鹿にして」
「馬鹿にしてなんか――」
「みんなはみんなで、嫌なことあったって和を保って、頑張ってるの! そうしないと社会は動かないの! たった一人で生きてきた、柿花くんみたいに強くないのよ!」
そこまで言うと、菫はすぐにエレベーターの方に走っていった。
取り残された大志は、段ボールを強く握った。
「……強くなきゃ、生きていけねえだろうが」
役員に囲まれ自主的な辞職を迫られた日を、今でも思い出す。
そうしなければ退職金を出さないどころか、懲戒免職にもすると言われた。
それが、自分なりに強くあろうとした柿花大志の三年間の末路だった。
彼の小さな叫びは、誰にも届かなかった。
トランクルームに仕事に使った段ボールを置いて、鍵を閉めた。
学生時代から住んでいるアパートの近所で空き巣が多発したことがあり、仕事で使うものや貴重品はここに仕舞っている。通帳と印鑑も、常に携帯している。
かくして家路に向かっていた大志の鼻に、焦げた臭いが届いた。
「……まさかな」
日頃の行いが良ければ最悪は続かない。
悲劇の主人公のようなことにはならない。
そう思っていた。
だが彼の予想はすぐに外れた。
物心つく前まで大志が暮らしていたアパートが、父の思い出を嬉しそうに語ってくれていた母との思い出が詰まったアパートが、ごうごうと火を建てて燃えていた。
隣に住んでいた気のいい壮年男性が大志を見つけ、彼の無事を喜んでくれている。
だが、当の大志には彼の言葉は届かず、ただ目の前の光景に打ちひしがれていた。
鎮火が終わり、警察やらなんやらからの聞き込みが終わった時、周囲はもう夜だった。
「……寝る場所、決めねえと」
そう言って大志は街の方に歩いていく。
次第にネオンが輝き、人も多くなっていった。
だが大志の目にはその光景が歪んで見えた。
(あ、れ……)
次第に地面が、まるでぬかるんだ泥のようにふわふわと覚束なくなっていく。
それでも彼は足を前に出した。
(だめだ、ここの近くにビジホがあったはずだ、そこまで、いけば)
段々と頭に靄が掛かり、まともに考えることも出来ない。
思考が限界になった後にそれらが操る体も動きを止めた。
そうして、大志は冷たいコンクリートの地面に倒れたのだった。




