綺上院野ばらは、殺せない。
僕、百谷かけるは人生のどん底にいる。
借りているアパートの玄関を出たら、柄の悪い人たちに捕まり、訳がわからないまま車に乗せられた。
連れて来られた先で、一番偉そうな人ーー鬼村の前に立たされる。
「お前の死んだ父親の代わりに、金を返して貰おうか」
僕は勇気を振り絞る。
「でも、僕には関係がない話、ですよね……?」
正直、心臓が止まりそうだ。
「なに言ってんだ。血の繋がった息子だろ? 他人事とか言うなよ」
鬼村から睨まれた。
父は、いつも借金の返済に追われていた。
僕が九歳の時に、母は父と離婚。
母は僕を連れて田舎の実家へ帰る。
祖父母は、母と僕を温かく迎え入れてくれた。
それから約十年、父に連絡したことはない。
一年前に、警察から電話があった。
亡くなった父が川で発見された。
その時、僕は父の死を知る。
警察は事件の可能性もあると調べたが、父の自殺として片付けたらしい。
僕は高校卒業後、都会に上京を決める。
理由なんて単純で、都会に行きたかったから。
心配してくれる母に、僕は大丈夫だと言った。
まさか、亡くなった父の借金を肩代わりするとは。
誰でも、こんな未来は予想できないだろう。
情報網も、どうなっているのだろうか。
最悪だ。
僕は顔から血の気が引くのを感じる。
「一円まで、きっちり返して貰うからな」
「けど、そんな大金、どうやって……?」
母と祖父母に迷惑はかけたくない。
「おい」
鬼村はあごで近くの部下に指示を出す。
部下は頷くと、胸のポケットから一枚の写真を僕に見せた。
十二歳くらいの少女が写っている。
目が大きく、髪を二つに結い、着物姿だ。
嫌な予感がする。
鬼村が僕に言う。
「こいつは、綺上院野ばら。裏社会で賞金十億を賭けられている。両親や兄弟はいなく、十歳で当主になった。お前は綺上院の屋敷に使用人として潜り込んで、こいつを殺せ」
「えっ。それって、はんざ」
「意見が言える立場じゃないだろ。お前は言われたことをやればいい。代わりに手筈はしてやってんだ。ありがたく思え」
胃の辺りが重く感じる。
気のせいではないだろう。
こんなことに巻き込まれるなんて。
小さな包み紙を強引に渡される。
中身は開けなくても、わかってしまう。
鬼村の声が耳に響く。
「綺上院野ばらを殺したら、父親の借金は帳消しにしてやる。そうしたら、お前も晴れて自由の身だ」
***
綺上院の屋敷に着いた。
本当に使用人として雇用されるとは。
立派な門、高い塀に囲まれた屋敷。
古風な造りだが、素人目でも職人の技術を感じる。
庭に生えている松の貫禄と存在感が大きい。
屋敷を案内してくれる人がいなかったら、迷子になる広さだ。
「この先のお部屋に、野ばらさまがいらっしゃいます。くれぐれも失礼がないように」
四十代後半くらいの使用人の大先輩ーー水島さんに言われる。
「はい」
僕は着ているスーツやネクタイを確認した。
水島さんは正座をする。
僕も正座をした。
「野ばらさま。新しい使用人を連れて参りました」
「いいぞ。入れ」
落ち着いた口調が返ってきた。
障子を開けると、二十畳の和室に着物姿の少女が座っている。
写真で見た、十二歳くらいの少女だ。
この子が、綺上院野ばらさま。
なぜ、賞金十億も賭けられているのだろう。
水島さんは一礼をする。
「野ばらさま、私は失礼します」
「ありがとう、水島。ご苦労だったな」
水島さんが立ち去り、僕と野ばらさまだけになる。
挨拶しなければ。
「はじめまして、綺上院野ばらさま。本日より使用人として仕えさせていただきます。百谷かけると申します」
頭を下げると、野ばらさまは笑った。
「顔を上げていいよ。かしこまる必要はない。あたしは堅苦しいのが嫌いでな」
野ばらさまは可憐に微笑んだ。
「ようこそ、綺上院の屋敷へ。あたしは当主の野ばらだ。これからよろしくな、かける」
「よろしくお願いします」
僕は一礼をした。
父の借金を張消しするために、この子を殺さなければいけないのか。
***
二日目。
「ケーキが食べたい。持って来てくれ」
野ばらさまが言うと、水島さんは一礼する。
「かしこまりました」
僕もそれに倣った。
厨房まで行き、紅茶とケーキを水島さんが用意する。
古風だから、和菓子を食べるのかと勝手に思っていた。
野ばらさまは洋菓子がお好きなのか。
使っている食器も高級そうだ。
落として割ったら大変だな。
水島さんが僕に話しかける。
「こちらを、野ばらさまにお出しします」
「はい」
「野ばらさまを、あまり待たせないように」
「はい」
僕は野ばらさまにケーキと紅茶を運ぶ。
胸ポケットにある、包み紙の中身を紅茶に入れられると思ったが、できない。
緊張して食器を落としそうになった。
ケーキを目の前にして、野ばらさまは年相応の表情を浮かべる。
「はわわっ、美味しそうだ。いただこう」
野ばらさまは食事作法がきれいだ。
包み紙の中身を入れていたら、今頃この子はーーと想像してしまう。
自分がしようとした行動を考えて、恐ろしくなる。
気づくと、僕は野ばらさまに頬を指で突かれていた。
「あ、あの……?」
「かける、大丈夫か? 声をかけても反応がなかったからな」
「申し訳ありません。僕は大丈夫ですから」
野ばらさまは僕に聞いてきた。
「甘いものは食べられるのか?」
「はい。食べられます」
いったい、なんの質問だろうか。
「水島、あと二人分の紅茶とケーキを持って来い。三人で食べるぞ。付き合え」
「かしこまりました」
いつの間にか水島さんがいた。
「用意は僕が」
言い終わる前に、水島さんは厨房へ行く。
僕も行こうとしたら、野ばらさまに止められた。
「水島に任せておけ。あいつは甘いものが好きだからな。顔には出さないが、喜んでいるのだろう」
厨房へ向かった水島さんは、どこか浮き足立っていたような気がする。
「かけるも、慣れないことをして疲れているようだからな。たまには息抜きも必要だぞ」
年下の少女に気を遣われてしまった。
「あの、僕は……」
言い淀んだら、野ばらさまは寂しそうな表情をする。
「あたしが一緒に食べたいのだ。迷惑だったか?」
そんなことを言われたら、断れない。
「ご一緒させていただきます」
「本当か? 一人で食べるよりも、みんなで食べた方が美味しいからな。嬉しいぞ」
野ばらさまは笑った。
僕の目的を知ったら、この子はどういう表情をするのだろうか。
見たくないな。
***
三日目。
「かける、紅茶を淹れてくれないか?」
「はい。ご用意します」
紅茶を淹れたことなんて一度もない。
せいぜい、市販のティーパックだ。
厨房に行って、手探りで淹れてみたが、形にはなった。
野ばらさまにお出しする。
「ど、どうぞ」
「ありがとう」
ティーカップを手に取り、野ばらさまは紅茶を口に含む。
時間が止まったように、野ばらさまは動かなくなった。
「の、野ばらさま?」
僕が声をかけると、野ばらさまはティーカップを置いた。
「水島。かけるに紅茶の淹れ方を教えてやってくれ」
「かしこまりました」
いつの間にか水島さんがいる。
やはり、僕の淹れた紅茶がまずかったのだ。
失敗した。
「申し訳ありません、野ばらさま。僕が淹れた紅茶はすぐに下げて、別のをご用意します」
「いい」
野ばらさまは笑わないで言った。
まずい紅茶を出されて、怒っているのだろう。
なにも言われないのが、逆にきつい。
野ばらさまはティーカップに入っている紅茶を再び口に含んだ。
「僕が淹れた紅茶を、無理して飲まなくてもよろしいですよ」
「いい。かけるが、あたしのために淹れてくれた紅茶だ。飲むから、置いといてくれ」
野ばらさまは怒っている訳ではなかったのか。
まずい紅茶をお出ししたのに。
なんで。
「え、っと」
なにを言うか考えていると、野ばらさまが僕を見た。
「次に紅茶を淹れる時は、もっと美味しいのを期待しているぞ」
「はい。美味しい紅茶をお出しできるよう精進します」
その後、水島さんに紅茶の淹れ方を徹底的に教わった。
***
僕は何度も野ばらさまの食事に、包み紙の中身を入れようとした。
脳裏に野ばらさまの笑顔が浮かぶ。
手が震える。
額から冷や汗が出てくる。
出した包み紙を胸ポケットに戻す。
また、できなかった。
野ばらさまに食事を運び、彼女が美味しそうに食べる顔を見て思うのだ。
あんなもの、入れなくてよかった。
けれど、いつかは実行しなければいけない。
鬼村は、僕が野ばらさまを殺すのを待っている。
いつまでも、待ってはくれないだろう。
引き返せないところに僕はいる。
逃げることもできない。
僕は、袋の中にいるネズミだ。
***
綺上院の使用人として潜り込んで、一週間が経とうとしている。
鬼村から電話がかかってきた。
暑くもないのに、汗が出てくる。
震える手で電話に出た。
「……はい」
『一人子どもを殺すのに時間がかかり過ぎだ。なにをもたついていやがる』
「もう少し、待ってください」
『あ? こっちは散々待ってやったんだ。これ以上は待てるかよ』
「も、もう少しだけで、いいですから」
僕はなにを言っているのだろう。
時間稼ぎくらいにしか、ならないのに。
『明日までだ』
「え」
『明日までに、綺上院野ばらを殺せ』
「待ってくだ」
言い終わる前に電話を切られた。
もう、後がない。
「かける、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
野ばらさまに、また心配されてしまった。
周りのことを、よく見ている子だな。
「使用人たるもの、主人の要望にいつでも答えられるよう、常に万全な状態でいなくてはいけませんよ」
水島さんにも言われてしまった。
仕方ないだろう。
野ばらさまが水島さんを見る。
「水島、もう少しかけるに優しく言えないのか?」
「私は、同じ使用人として助言したのです」
僕は精一杯笑った。
「大丈夫ですよ。体調に問題はありません。ご心配をおかけしました」
「そうなのか? あまり無理はするなよ。なにかあったら教えてくれ」
「はい。ありがとうございます」
言えない。
あまりにも、酷な話だ。
命を狙われていると知ったら、心に深い傷を負わせてしまう。
泣いているところを見たくはない。
笑っていてほしいのだ。
なのに、僕はそんな子を殺さないといけない。
明日までに。
午前は終わり、午後になった。
残された時間がなくなっていく。
水島さんは、野ばらさまにケーキを買いに行くように頼まれた。
「百谷くん、私が戻るまで野ばらさまをよろしくお願いします」
「はい、わかりました」
水島さんは屋敷を出た。
そういえば、野ばらさまはどこにいるのだろうか。
お部屋に行ってもいなかった。
本当に、この屋敷は広過ぎる。
前から思っていたが、屋敷にいる使用人が少ない。
野ばらさまが賞金十億を賭けられているからなのだろうか。
縁側のところに野ばらさまは座って寝ていた。
日差しが暖かくて眠ってしまったのか。
とは言え、このままにしておけない。
「失礼します」
僕は野ばらさまを布団までお運びする。
あどけない少女の寝顔だ。
布団で寝る野ばらさまを見て、気づく。
今、この場には僕と野ばらさましかいない。
水島さんはケーキを買いに行っているから、しばらくは帰って来ないだろう。
目的を果たせる絶好の機会だ。
この機会を逃したら、次はない。
寝ている野ばらさまに、包み紙の中身を飲ませることは難しそうだ。
咽せて、吐き出される可能性もある。
ならば。
野ばらさまの細い首を両手で掴んだ。
力を込めれば、確実に。
せめて、あまり苦しまないように、早く。
そうすれば、僕は鬼村から自由になれる。
実行しなければ。
野ばらさまは穏やかに眠っている。
短い間だったけれど、使用人の僕を気にかけてくれた。
僕に笑いかけてくれた。
嬉しかった。
だが、僕は野ばらさまを殺さないといけない。
ころさ、ないと。
手が震える。
力が、入らない。
無理だ。
できない。
僕は、ゆっくりと野ばらさまから離れる。
正座をして、額が畳につく寸前まで頭を下げた。
「も、申し訳、ありません、野ばら、さま」
弱々しい声が口から出た。
謝って許されることではないと、十分わかっている。
許されないことをしたのだ。
それでも、本当に実行しなくてよかったと、心の底から僕は思った。
鬼村の元に後で向かう。
逃げるものか。
水島さんが戻ってくるまで、僕は頭を下げていた。
「ただいま戻りました。野ばらさまはお休みのようですね。お目覚めになるまで、百谷くんに頼みたいことがあります。いいでしょうか?」
「はい、今行きます」
僕は水島さんに言われ、野ばらさまのお部屋を去った。
***
一人になった野ばらは、まぶたを開けた。
布団の近くに落ちている包み紙を拾う。
かけるが落として行ったもの。
野ばらは迷うことなく、包み紙の中身を全て口に含んだ。
「まずい。まずいぞ。こんなものを、かけるに持たせたのか。ーーーーーー鬼村め」
***
鬼村の元に僕は行った。
「やっぱり、僕は殺しなんて、できません」
「そうか。お前も父親と同じで使えない駒だな。だましやすいところも一緒だ」
「まさか……」
「自分がこんなだから、妻と息子に苦労ばかりかけたって。泣きながら、死ぬまでお前らに謝ってたぜ。聞こえやしないのにな。その後、川に捨ててやったよ」
「父さんを殺したのか!」
鬼村の部下に頬を殴られた。
血の味がする。
口の中を切ったらしい。
「今まで、父親のことを放ったらかしにしていたお前が言うのかよ?」
「そ、それは……」
鬼村の言う通りだ。
言い返せない。
「優しい俺が、父親に再会させてやる。まあ、お前が本当に綺上院野ばらを殺したところで、結果は同じだがな」
「約束と違うじゃないか!」
鬼村の違う部下に、今度は腹を殴られた。
立っていられず、床に膝をつき、咳込む。
頭上から鬼村の声が聞こえる。
「嘘はついてないぞ? 生きていることから自由にしてやるんだからな。父親のように」
「……っ!」
鬼村は、げらげらと笑った。
はじめから、そのつもりだったのか。
まんまと、だまされた。
父もだまされて、借金を負わされていたのか。
鬼村に殺されて。
父さん、ごめん。
母と祖父母の顔を思い出す。
ごめん、一生懸命、育ててくれたのに。
野ばらさま。
だまして、殺そうとして、申し訳ありません。
その時、大きい音を立てて誰かが部屋に入ってきた。
鬼村は声を上げる。
「なんだ、お前ら!」
僕は見間違いかと思った。
こんなところに来るはずがない。
「埃っぽいところだな。お邪魔するぞ」
野ばらさまが腰に手を当てて立っていた。
水島さんが斜め後ろにいる。
「綺上院野ばらか。あいつらを殺せ!」
鬼村は十人の部下たちに指示をした。
水島さんが野ばらさまの前に立つ。
「野ばらさま、どうなさいますか?」
「好きにしていいぞ。ただし、殺すなよ」
「かしこまりました」
水島さんは一礼する。
襲ってくる鬼村の部下たちを、水島さんは素手で気絶させていく。
「す、凄い……」
呆然としていると、野ばらさまが僕に近寄ってきた。
「かける、大丈夫か?」
僕は野ばらさまから後退りする。
「こんな危ないところに、なんで来たんですか。僕は、あなたをだまして、殺そうとしていたんですよ」
普通は怒ったり、泣いたりするだろう。
野ばらさまは、僕に笑った。
「当たり前だろう。大事な使用人を迎えに来たんだ」
ああ、眩しくて、見ていられない。
「本当に、申し訳ありません。野ばらさま」
僕は頭を下げた。
鬼村は倒れている部下たちに怒鳴る。
「お前たち、一人相手になにを手こずっていやがる!」
水島さんは、鬼村の部下たちを相手に優勢のようだ。
「おい、百谷! 最後のチャンスをくれてやる! 綺上院野ばらを殺せ!」
鬼村に名指しされ、僕は野ばらさまを背中に隠す。
「もう言いなりになるものか」
銃口を向けられる。
「じゃあ、お前から始末してやるよ」
避けられない。
水島さんが叫ぶ。
「百谷くん!」
弾声が響く。
目の前に野ばらさまがいた。
いつの間に、僕の後ろから移動したのだろう。
僕を庇って、野ばらさまが撃たれた。
小さな体を僕は受け止める。
野ばらさまは額から血を流す。
嘘、だろう。
「野ばらさま! 百谷くん!」
水島さんが来た。
鬼村の部下たちは、一人残らず気絶しているらしい。
僕は野ばらさまを見つめる。
「野ばらさまが僕を庇ったから、僕の、せいで」
水島さんは野ばらさまを見て、眉間にしわを寄せた。
鬼村の笑い声が聞こえる。
「やった! やったぞ! 十億は俺のものだ!」
聞いていると、気分が悪くなる声だ。
「百谷、前言撤回してやる。死ぬまでこき使ってやるよ。お前のおかげで、綺上院野ばらを殺せたんだからな!」
僕は野ばらさまを抱きしめた。
「父さんを殺したばかりか、僕の大事な主人も殺したのか」
「なに言ってんだ。お前も共犯だろ」
「鬼村、絶対に許さないからな!」
「お前に、なにができるんだよ! 惨めに吠えてろ!」
「その言葉、そっくり貴様に返そう。鬼村」
野ばらさまは目を開けた。
流れていた血は、傷口に戻っていく。
額から出てきた弾丸をつまむと、野ばらさまは床に投げ捨てた。
「なかなか、痛かったぞ」
野ばらさまは無傷になった姿で、立ち上がる。
「心配をかけたな。水島、かける。もう大丈夫だ」
水島さんは、自分の胸に手を当てた。
「野ばらさまを信じておりました」
僕は野ばらさまを見つめる。
「野ばらさま、あなたはいったい……」
鬼村は動揺している。
「どういうことだ? たしかに殺したはず! なんで生きている!?」
野ばらさまは鬼村に振り返る。
「あたしは不老不死でな。かれこれ二百年は生きている」
「そんな話、信じられるか!」
「別に信じなくていい。だが、私は嘘を言っていないぞ」
野ばらさまはなにかを思い出した様子で、懐から折り目がついた紙を取り出す。
どこかで見たことがあるような。
「そうそう。飲んでみたが、この毒まずかったぞ」
僕が鬼村に渡されて持っていた、包み紙ではないか。
恐る恐る僕は聞いた。
「なんで、野ばらさまがお持ちで?」
「かける、あたしの部屋に忘れて行っただろう?」
思い出した。
水島さんに声をかけられた時、野ばらさまのお部屋に落として行ったのか。
鬼村は再び銃を構えた。
「こうなったら、体を穴だらけにしてやるよ!」
野ばらさまは呆れたような表情を浮かべる。
「やれやれ。厄介な男だな。水島」
「かしこまりました」
水島さんは鬼村の銃撃を避ける。
鬼村の間合いに入り、銃を奪い取った。
だが、鬼村は胸ポケットからなにかを取り出そうとしている。
まずい。
僕は鬼村に向かって走り出す。
鬼村は銃を出す。
まだ隠し持っていたのか。
銃口を水島さんに向ける。
水島さんでも避けられない距離だ。
間に合わない。
水島さんが撃たれるのが先だ。
一瞬の隙さえつければ。
「鬼村!!」
僕は大声を出す。
鬼村は僕の方に振り向く。
僕は右手で拳をつくり、鬼村の頬を殴った。
鬼村は倒れ、気絶した。
思ったより呆気ない。
右手が痛い。
水島さんは無事だった。
「百谷くん、命拾いしました。ありがとうございます」
僕の隣に野ばらさまが来る。
「かける、やるじゃないか。見直したぞ」
僕は野ばらさまと水島さんを見る。
「お二人が来てくれたおかげです」
鬼村と部下たちはその後、警察に逮捕された。
鬼村には、きちんと罪を償って貰わねば。
***
父方の祖父母に連絡したら、墓の場所を教えてくれた。
僕は父の墓参りに来た。
後悔している。
父のことを知ろうとすればよかった。
父ともっと話をすればよかった。
父に会いに行けばよかった。
鬼村から、父を助けることができたら。
今も父は、生きていただろうか。
叶わない未来を想像する。
でも、時間は戻らない。
父ともう、話しをすることはできない。
父を殺した鬼村のことは、ずっと許せないだろう。
それでも、前を向いて生きなければ。
できれば、生きていた父に言いたかった。
「本当にごめん、父さん。また来るよ」
***
僕は綺上院の屋敷に行った。
「かけるが気に病む必要はない。鬼村の悪行を止められなかった、あたしにも責任がある。もっと早くに手を打つべきだった。父親のことも、本当にすまない」
野ばらさまは悲しそうな顔をする。
「野ばらさまのせいではありません。悪いのは鬼村です。それに僕は、父を助けられなかった。もう、父のような人を放ってはいけない。
僕は、父のように苦しめられている人を助けたい。野ばらさまと水島さんが僕を助けてくれたように。
お二人とも、本当にありがとうございます」
僕は野ばらさまと水島さんに頭を下げた。
「顔を上げろ。前にも言ったが、あたしは不老不死だ。
綺上院の名前は裏社会で知れ渡っている。今回のようなことが、これからもあるだろう。
かける。それでもよければ、あたしの使用人でいてほしい。もっとも、手放す気はないがな」
「よろしいのですか? 野ばらさまをだまして、殺そうとしたのに」
僕が言うと、野ばらさまは頬を膨らませる。
「かけるは、あたしの大事な使用人だぞ。信じられないのか?」
「いいえ。僕は野ばらさまを信じております。これからも、仕えさせていただきます」
僕は一礼した。
野ばらさまは満足そうに笑う。
「そうか、そうか。よろしく頼むぞ、かける」
僕は野ばらさまの笑顔を、お近くで見ていたい。
「しかし、野ばらさま。今回の件で賞金の額がまた上がるのでは?」
水島さんが言う。
そう言えば、野ばらさまは賞金十億を賭けられている。
いくら不老不死でも、狙われているとなれば心身に悪いだろう。
野ばらさまは考える仕草をし、人差し指を立てた。
「いっそのこと、賞金百億まで目指すか!」
もっと深刻に悩んでいると思っていたのに。
むしろ楽しんでいないか。
野ばらさまは、水島さんと僕を見た。
「水島、そろそろケーキが食べたいぞ」
「かしこまりました」
水島さんは野ばらさまに一礼をする。
「かける、紅茶を淹れてくれ。いいか?」
「はい。ご用意します」
僕も野ばらさまに一礼をした。
僕の主人は賞金十億を賭けられた、二百年を生きる不老不死である。
***
野ばらは新たな使用人を雇用するべく、送られてきた履歴書に目を通していた。
ある一人の履歴書で手が止まる。
地味な見た目で、幸が薄そうな青年の顔写真。
「新しい使用人は、この青年にしようか」
水島は首を横に振った。
「この者は鬼村の部下だと情報が入っております。考え直されては?」
「いや、相手に乗ってやろう。鬼村は、青年を捨て駒として送ってくるはず。なら、青年を貰ってもいいだろう? こんな純朴そうな青年、鬼村のような男にはもったいない」
「ですが、青年がこちら側に来ない場合もあり得ます」
「それはそれで面白い。昔の水島を思い出すな」
野ばらは、からかうように水島に言う。
「もう、二十年前の話でございます」
「まだ、二十年前の話だ」
「野ばらさまには、敵いそうにありません」
「当然だ。生きている年数が違うからな」
再び野ばらは履歴書を見る。
「綺上院の敷居を跨いだ者は、あたしの家族と同じ。この青年を、鬼村から助けるぞ。いいか、水島」
水島は一礼をした。
「かしこまりました」
数日後、百谷かけるが綺上院の新たな使用人として訪れる。
主な登場人物
・百谷かける
本作の主人公。
文系です。
見た目が地味なのを気にしています。
・綺上院野ばら
綺上院の当主。
見た目は永遠の十二歳。
かけるの紅茶を飲んだ時「水島がはじめて淹れた紅茶よりもマシだな」と思っていました。
・水島
綺上院の使用人。
四十代後半。
「かしこまりました」を七回も言わせてました。
野ばらと出会った時は、口も人相も悪かったです。
・鬼村
恐らく、一番話していた人。