6.主よ、人の望みの喜びよ
そしてふるりと震えて持ち上げられた長く濃い睫毛の向こうの、父上様のそれよりももっと濃い金色の輝きに射抜かれる。
ひゅ、と喉が鳴った。
こんな状況では言い訳なんてできない。ここで悲鳴でも上げられたら何もかも終わりだ。その前に殺そう。
幸いなことに寝ぼけているらしい少年は、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返して、それからようやく身体を起こして私を見上げる。
ぎくりと強張りそうになる身体を叱咤して、私はナイフで少年の喉元を掻き切った。
そう、そのはずだった、のに。
「だいじょうぶ?」
「っ!」
それなのに、私は、動けなかった。
少年が小さな手を私の顔に伸ばして、そっと触れてきたからだ。
あたたかく柔らかい、どんな武器の重さも硬さも知らないに違いない、真っ白な手。
ひゅ、ひゅ、と喉が奇妙な音を立てている。
額のルビーが熱い。
目の前の少年の額のダイヤモンドが輝いていて、そこから目が離せない。
「怪我してるの? 大丈夫? 痛いよね、だから泣いてるの?」
あどけない声に重ねて問いかけられて、呆然とする。
泣いてるって、誰が?
そう問いかけようとして、できなかった。
自分のまなじりから頬をとめどなくこぼれ落ちる熱いものが涙であることに気付けないほど、私は鈍く離れなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ。ここにはね、僕しかいないのだもの。だから泣いていいんだよ。痛いんだよね、大丈夫だよ。僕が治してあげる」
なにを、言っているのだろう。
筆舌に尽くしがたい、恐怖にも似た衝動に襲われて、その場にへたり込む。
そんな私の両頬を小さな手で包み込んで、少年は、額のダイヤモンドを、私の額のルビーに押し当てた。
「大丈夫だよ。痛いよね。苦しかったんだね。辛かったんだよね」
額から流れ込んでくる魔力は、少年の声と言葉通りに、優しくて、柔らかくて、あたたかかった。
それでいて、抗うことなど許されない、圧倒的な力に満ちていた。
脇腹の傷が完全に癒えていくのをつぶさに感じる。
それどころか、積み重なっていた身体の疲労感すらも、どんどん消え失せていく。
「――――はい! これで大丈夫だよ。もう痛くないでしょ?」
そして私から離れた少年は、得意げに胸を張った。
ああそうだね、おかげさまでもうどこもかしこも痛くない。苦しくない。
そのくせ、どうしようもなく胸が痛くて、苦しくてならない。
ああ、ああ、だめだ。やっぱり殺そう。殺さなきゃ。
この子を私は殺さなきゃ。
そうしなくてはならない。そうすべきであらねばならない。
だって、そうでなかったら、私は。
「お姉さん、ずっと頑張ってきたんだね。すごいねぇ。でもね、泣きたいときは泣いていいんだよ。僕、誰にも言わないよ。だからね、泣いていいんだよ」
「――――ッ!!」
殺したい。殺してしまいたい。
それなのに、もう私は、私には、そんな真似ができなくなってしまったことを自覚した。
ああそうだとも、本当は殺したくて仕方ない。
だってあまりにも不公平ではないか。
私はずっと痛くて苦しくてしんどくて辛くて仕方なかったのに、この少年はずっとずっとぬくぬくと大切に育てられてきたのだ。
どれだけこの少年が甘やかされてきたのかなんて、この純真無垢な蜜色の瞳を見れば嫌でも解る。
なんだそれ。冗談じゃない。
つまるところ私は、この少年の身代わりとしてクソ親父の“息子”扱いされていたのだろう。
だからこそあらゆる教育を厳しくほどこされ、送られてくる暗殺者を相手取り、文字通りこの隠されて愛されて育てられている少年の盾にされていたわけだ。
はははは、なんだそれ。なんだそれ!
そんなの、あんまりにも私がかわいそうじゃないか。みじめじゃないか。
誰一人として私のことをそんな風に思ってくれなかった。
どれだけ私がずたずたのぼろぼろになっても、誰もがそれを当たり前のこととして、私の気持ちなんて二の次で、何もかも私から奪っていくばかりで!
それなのに、それなのに、それなのに、よりにもよってこの少年が、私に、そんな言葉をかけてくれるなんて、そんな馬鹿なことがあっていいものか!
「っあ、ああ、あ」
ひぐっと喉が鳴った。
カラン、と音を立ててナイフが手から零れ落ちる。
まるでめまいがするように視界が歪んで、ぐらりと傾いだ身体を、少年が幼い身体で必死に抱き留めてくれて、そのままぎゅうと抱き締めてくれる。
「えらかったね。がんばったね。泣いていいんだよ。大丈夫、僕、誰にも言わないから!」
「っあ、あああああああああああああっ!!」
限界だった。
少年の小さな身体に縋りつくように、両手で彼を抱き締めて、私は咆哮した。
涙があふれて止まらない。泣いたのなんて何年ぶりだろう。少なくとも記憶にある中では初めてのことで、だからこそなのか、余計にこの涙の堪え方も嗚咽の殺し方も解らなくて、ただただ泣き叫ぶことしかできやしない。
うん、うん、そうだよ、そうだとも。
私はずっと痛くて苦しくてしんどかった。
私を産んでくれた人は私のことを商売道具としてしか見てくれなかったし、実際にカーバンクルとして誕生し直した私のことをわずかな金子で売り飛ばした。
そして売り飛ばされた先で待っていたのは、クソ親父が収める地獄のような牢獄だ。
私の世話をしてくれるベルだって、私の味方じゃない。彼女にとっての主人はいつだってクソ親父だけで、だから私を『丁重に』扱ってくれていただけ。
ずっとひとりだった。だから痛くても苦しくてもしんどくても、誰にも言えなかった。
――ねえ、私は、さびしかったよ。
誰も私のことをかわいそうだなんて言ってくれなかった。褒めてなんてくれなかった。
それなのに、何も知らないはずのこの少年の、つたなく幼い、きっと本当の意味なんて何も解っていないであろうその言葉で、私はすべてを肯定してもらえた気がした。
少年は私のことを引きはがすことなく、嫌がるそぶりもみせず、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返しながら、私の背を撫でてくれている。
ああ、だめだ。もうだめだ。
私はこの子を殺せない。
この子を殺したら今度こそ私は“私”を認めてもらえるかもしれないと思っていたのに、その“この子”こそが私を認めてくれたのだ。
そんなのもう、殺せるはずがない。ずるい。酷い。
何も知らないくせに。
それなのにこの子こそが、今、この瞬間に、私の存在証明となってしまったのだ。
――よかった。
――私はまた、間違えるところだった。
殺さなくてよかった。
殺せないと解ってよかった。私を初めて認めてくれたこの子は、生きるべき存在なのだ。
そうしてひとしきり泣きわめき、泣きじゃくり、それでもなお少年のぬくもりから離れることもできず、やがて私はそのまま、泣き疲れて寝落ちした。
後のことなんてもう知るか。どいつもこいつも私自身も大嫌い。
でもこの子のことだけは、嫌いにならないでいよう、なんて、密やかに決意を固めつつ。