33.フローラの目覚め
座り込んだままの私のもとに、氷の道を足元に敷きながら近づいてくるそのひとは、そうして軽く片手を挙げた。
同時に生まれたのは、針のような氷の雨だ。
何もかもを凍てつかせる冷気が降り注ぎ、私の炎をかき消していく。
燃えながら悲鳴にもならない声を上げて踊り狂っていた男達にも当然その雨は降り注ぎ、何もかもを刺し貫き、最高の苦痛を与えて男達を絶命させる。
「下郎どもめ」
自身が生み出す氷よりもよっぽど冷たい声、同じくらい冷たいまなざし。
それらをもはや消し炭になった男達だったものへと向けてから、父上様は私へと視線を戻した。
初めて見るまなざしだった。
いつもの愉悦のにじむそれではなく、憐憫すら感じられる優しくやわらかなまなざしに、我知らずぎくりとする。
今なお降り注ぐ雨と同じだ。
何もかもを貫き凍らせていく雨であるはずなのに、その雨は私のことも、カルルのことも傷付けず、私達に触れる寸前で消え失せて、そして生きている者が私とカルルと父上様だけになって、そして、それから。
「ご苦労だったな」
父上様の手が伸びて、私を軽々と抱き上げる。
ひゅっと息を呑む私に、彼は優雅に微笑みかけた。
「さて、帰るか」
「ま、って、かる、るが」
「もちろんだとも」
私のかすれた声による制止に、当然のように頷きが帰ってきて、父上様は自らの背後に目配せを送る。
その視線をきっかけに駆け寄ってくるのは、ファナーリ家直属の騎士団だ。
整然となだれ込んできた一団が、あっという間に意識のないカルルを抱き上げて、ついでに燃え尽きた近辺の調査を始める。
カルル、と呼びかけたくても、手を伸ばしたくても、何もかもが重くて、遠くて、私はそのまま意識を手放すことしかできなかったのだった。
それからどれほどの時が経過したのか。
気付けば私は、自室のベッドに寝かされていた。
なんか前にもこんなことあったな、と、他人事のように思ってから、もちろんすぐに脳裏を埋め尽くしたのはカルルの存在ただひとつだった。
がばりと身を起こしてベッドから飛び降りようとした瞬間、全身に走る痛みにその場で崩れ落ちた。
散々暴行を受けたからとはいえ、それにしたってこれほどまでに身体に損傷が残っているのは久々だ。
ここは間違いなくファナーリ家の自室なわけで、だとしたらベルが……と、そこまで思ったとき、扉が開け放たれる。
「ベル?」
「~~~~ぼっちゃま!!」
悲鳴のように私の侍女であるベルが叫んで、彼女、じゃなくて彼は、慌てふためきながら長いスカートのすそをひるがえして駆け寄ってくる。
ベッドのふちで痛みゆえに動けない私の身体をそっと支えてくれた彼は、その紫の瞳を潤ませながら、「申し訳ございません」とその淡く色づく唇を震わせた。
「わたくしの治療術だけで治すには、ぼっちゃまの体力が消耗しすぎておりました。完全な回復を目指すならば、少しずつ治療術を行使させていただく他はなく……っ! 申し訳ございません、ぼっちゃま、わたくしの力が及ばないばかりにっ! いいえそもそも、わたくしも同行しておりましたら、ぼっちゃまをこのような目に遭わせるような愚行、決して許さなかったものを……!」
心の底からの後悔がにじむ声音で、はらはらと涙を流しながら切々とベルは語ってくれる。
なるほど、一応治療術とかけてもらった上でこれか。
ベルはカーバンクルとしては下位の、それこそ本人曰くの“屑石”だけれど、その治療術は確かなものであると私は認識している。
そのベルに治療術をかけてもらってもなおこれということは、つまるところ私はだいぶまずい状況だったのだろう。
生き残れたのは幸運だった。
まあもっとも幸運なのは。
「カルルは、無事?」
「っまた、次代様ですか!?」
「そうだよ。他に何があるというの? ほら、それよりカルルは?」
おぼろげな記憶の中、父上様がなぜかご登場してくださったことは覚えている。
ならば間違いなくカルルは無事だろうけれど、それでも私は私の予想ではなく、他人からの確証が欲しかった。
「次代様のせいで、ぼっちゃまは……っ」
「カルルのせいじゃない、私の油断が招いたことだ。本当に油断していたよ。ベルの忠告を聞くべきだった。ごめん、反省してる。だからまずは、カルルのことを教えて?」
「……ぼっちゃまは、本当にずるいお方です」
「ベルにだけかもよ」
「…………ひどいお方ですこと。はい、ええ、もう、解りましたとも。次代様はもちろんご無事ですわ。傷一つなく、それはもうお元気に、ぼっちゃまのお目覚めをお待ちにございます。わたくしはぼっちゃまがお目覚めになられたら、絶対にすぐに教えるようにと厳命されておりますわ」
「なるほど。じゃあ早速、カルルに伝えてくれる? リュシオルは無事、元気に目覚めたと」
「どこがご無事でどこがお元気なのですか! いえ、わたくしの治療術の力不足ゆえでございますわね、申し訳ございません」
「そんなことはないよ。きみはよくやってくれた」
「………………お褒めにあずかり誠に光栄にゴザイマス。それでは、このベル、次代様にお伝えしてまいりますわ。決してベッドから降りようなどとは思わないでくださいましね」
「はいはい、よろしく頼むよ」
ひらりと手を振ると、ベルはいかにもじれったそうに唇を噛み締めてから、可憐に深く一礼し、部屋を出ていった。
残された私はそのままベッドの上でぼんやりと待つことになり、それから数分もしないうちにそれはそれは元気よく開け放たれた扉に思い切りびくつく羽目になった。




