31.犬のためのぶよぶよとした前奏曲
そうしてそのままどれほどの時間が経過したのか。
ああ、泣き声が聞こえる。
ぐすぐすとしゃくりあげながら、「兄上、兄上」と私を呼ぶ声が耳元で幾重にも重なる。
ああ、ああ、泣かないで、私の、かわいい……。
「……かる、る」
「っ兄上!!」
重くて仕方のないまぶたを持ち上げて、やっと鮮明になりつつある視界の中に、きらめく濃蜜色が飛び込んでくる。
そのまぶしさにまた目を閉じたくなってしまうけれど、そんな場合ではないとすぐに思い直した。
泣きぬれた顔で地面に転がされている私の顔を覗き込んでくるカルルを見上げて、なんとか身を起こそうとして、自分が、そしてカルルもまた、ぎっちりと縄で縛られていることに気付く。
着ていた外套は奪い取られ、カルルも私も、着の身着のままの状態だ。
お互いサークレットは額に鎮座したままであることまで確認してから、腹筋の力だけで身を起こすと、思い切り殴られたらしい頭がずきずきと痛んだ。
「兄上、兄上、大丈夫ですか? ごめんなさい、僕が、僕が勝手なことしたからっ!」
「大丈夫だよ。私こそごめんね、怖い思いをさせてる」
「兄上がいるから平気です!」
「ふふ、そっか」
強がりだと解っていても、それだけ言ってくれる余裕があるならばまだマシだ。
カルルを安心させたくて笑い返しつつ、改めて周囲を見回す。
明かりも何もない場所だけれど、カーバンクルの夜目には関係がない。
おそらくは私が意識を失ってから、それほど時間は経過していない。
見たところ、ここは先ほどの男達が根城にしている建造物の一角の、商品の収納庫と言ったところか。
私とカルルのみならず、盗品と思われる、それなりに価値のあるであろうあれそれが周りにいくつも雑に転がっている。
「カルル、サークレットには触れられていないね?」
「は、はい。サークレットも僕らも商品になるから、まとめて売り飛ばすか、ばらばらにするかで、今、揉めているみたいで……」
「そう。幸か不幸か悩ましいね」
これでサークレットを外してくれていれば遠慮なく魔術が行使できたのだけれど、それはすなわち私とカルルがカーバンクルであるとばれるということにも繋がるので、どちらをより幸いとするかは難しいところだ。
私が意識のないうちにカルルがカーバンクルであると知れれば、こうして会話することも叶わなかったかもしれない。
ただの人間よりも、カーバンクルは当たり前だけれどそういう“商品”としてより価値が高くなる。
最悪、額の石だけ抉り出されて扱われる可能性もあったと考えれば、やはりサークレットに触れられずに済んだのは幸いだったと思うべきか。
縄抜けの方法も仕込まれているけれど、この結び方、そっちの対策がしてある結び方だ。
親指が動かせないようになっている。慣れた手口である。
どうしたものかな、としばし思案に暮れていると、その沈黙が私の怒りであると勘違いしてしまったらしいカルルが、とうとうぽろぽろと泣き出し始めてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、兄上」
ごめんなさい、と、今にも消え失せてしまいそうな声で繰り返す弟の姿に、ぐっと胸が詰まった。
違うのに。謝らせたくない。泣かせたくない。
この子には、ただ、笑っていてほしい。
私の望みは、後にも先にもそれだけだ。
それだけしかないのだ。
だからこそ身を乗り出して、こつん、と、サークレット越しに、お互いの額の石を触れ合わせる。
「大丈夫だよ、カルル」
「あに、うえ」
「うん。大丈夫。私がいるのだから、きみは何も心配はいらないよ」
心からの笑みを浮かべてみせると、カルルは目をまんまるにして、頬をふわりと薔薇色に染めた。
その美しさに思わず目を細めたそのとき、固く施錠されていた扉が開いて、光が差し込み、一気に部屋が明るくなる。
「お目覚めみてえだなあ」
入ってきたのは明らかにカタギではない、それなりに鍛えられた肉体の男、計三人。
そのうち二人は先ほど私が殴り飛ばした男で、真ん中に立つ男は知らない顔だ。
いかにも値踏みするような視線からカルルを隠すために私が身体を前に傾けると、おそらくリーダー格であろう真ん中の男が、嘲りまじりに鼻を鳴らした。
「健気なこって。小僧、ウチのもんが世話になったなぁ」
「そうっすよ! こいつ、馬鹿みたいに強くて……! 顔の骨が折られた奴もいるんすよ!?」
「このままじゃ腹の虫が収まんねえです!」
「ああ、そうだなぁ」
ここぞとばかりに騒ぎ立てる男達に対して、わざとらしく思案に暮れるようにリーダー格の男が視線を巡らし、そしてもう一度私をその視線が捕らえる。
気色の悪い、おぞけが立つような雄の目だ。
「顔とサークレットには傷付けるなよ。チビはともかく、こっちの小僧には少しは思い知らせてやらねえと、後が面倒そうだ」
「そうこなくっちゃ! 流石アニキ!」
「ははっ、久々に楽しめそうっすね!」
リーダー格の男の了承を得て、残りの二人がおぞましい喜色に顔を歪ませ、こちらへと歩み寄ってくる。これは万事休すかな、どうするかな、とりあえず大人しくしておいて機を狙うのが一番かな、などと考える私はそれほど狼狽も何もせずにわりと冷静ではあったのだけれど、問題はカルルだ。
「~~兄上に近寄るな!」
カルルが身を乗り出して、なんとか私を庇おうとする。
そんないじらしい姿を前に、ますます男達は愉しそうに笑い、カルルの首根っこを掴んで、ぽいっとリーダー格の男の元へと放り投げる。
汚い手でカルルに触れた愚行、絶対に後で後悔させてやる。
絶対に、許さない。
けれど今は、そのときではない。
一気に沸騰しそうになった頭をなんとか冷やそうとしている私の前に、男が二人。
リーダー格の男がカルルの頭を固定して、わざわざ私の姿がよく見えるようにしてくれやがる。
だからカルルに汚い手で触るなと以下省略。




