3.私のお父さん
そうやってそんな日々は無情にも私の周りを通り過ぎていく。
楽しいともつまらないとも思わない日々。楽だとも苦だとも思わない日々。
そういうものだと割り切れきれない部分を「間違えたなぁ」と呟いてやりすごす。
「あ、しまった」
「ッ!!」
珍しく間の抜けた声を上げた父上様に気を取られた次の瞬間、脇腹を太い氷の槍が貫いた。
悲鳴を上げることすらできずに無様にその場に倒れ込む。
痛い、冷たい、熱い、苦しい。
そんな感覚が渦を巻き、そしてそれ以上に全身を襲うのは、「やばいこれはさすがに死ぬ」という文字通り致命的な危機感だった。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。
どくどくと血が止まらなくて、身体の震えが止まらない。
寒くて寒くて仕方ない。
「すまん、加減を間違えた。ベル、治療を」
「か、かしこまりました」
倒れ伏す私を前に悪びれることもなく父上様はベルに目配せを送る。
いつも可憐に微笑んでいるはずのベルは、顔色を蒼白にして私のもとに駆け寄り、その両手をかざしてくれる。
あふれだすストロベリークォーツのきらめきに、ほんの少しだけ痛みが遠のいた気がしたけれど、あくまでも気のせいだ。
ベルには申し訳ないけれど、彼女の治癒魔術だけではどうにもならない傷らしい。
これはまずい、と他人事のように思った。
視界がかすむ。意識が遠のく。痛みをもう感じない。
これは、本当に、死ぬ。
そう自覚した瞬間、ぶわりと全身を包みこんだ衝動は、圧倒的な怒りだった。
――ふざけるな。
――冗談じゃない。
たった十年の人生、間違え続けた人生だけれど、その終止符を打つのがこのクソ親父だなんて、そんなふざけたことがあっていいものか。
そのクソ親父は大層つまらなそうな顔をして私を見下ろしている。
ああムカつく。大嫌いだ。
衣食住の保証をしてくれたことに対する感謝以外は全部嫌い。一回と言わず何百回でも痛い目を見ればいいのに。
そんな気持ちで、かすむ視界の中で父上様をにらみ上げたら、何故か彼はいつぞやにも見たような、大層面白そうな顔をして、わざわざ私のとなりにしゃがみこんでくれやがった。
「言い残すことはあるか?」
いやあんたがそれを言うんかい。
と突っ込みたくなったけれど、それが最後の遺言になるのはあまりにも癪に障ったから、私はにっこり笑った。
引きつった笑みになっていることは当に自覚済み、それでもなお笑ってみせた。
「地獄に落ちろ、クソ親父」
ほとんど動かなくなりつつある手を無理矢理持ち上げて、親指をビッと地面に向ける。
ベルの顔色がますます悪くなって、悲鳴を押さえるように両手で口を押えた。
それは申し訳ないなぁと思うけれど、せめて言いたいことは言い残して死にたいもので、うん、ごめん。
父上様の金色の瞳が、ぱち、ぱち、と、大きく瞬く。
そして彼はまじまじと私の顔を見下ろして、そして、ふ、と。その薄く色づく唇から吐息をもらしたかと思ったら、その吐息はやがて大きな哄笑へと変わった。
遠のく意識の中ですらうるさいその笑い声に、つい顔をしかめれば、ますます父上様はげらげらと腹を抱えて笑う。
ぎょっとベルが父上様のことを見つめるが、彼は構うことはない。
「は、はは、ははははははは! 地獄に落ちろ、か! はははは、そうだな、私は地獄に落ちるだろうよ。このグラナート・ファナーリに面と向かって、しかも遺言として言う恐れ知らずは貴様が初めてだ」
光栄に思え、と嫣然と笑う父上様の手が伸びる。
触れられたくないのに、この身体はもう動かすことは叶わなくて、されるがままに彼に抱き上げられてしまう。
「ただの小石だと思っていたが、なかなかどうして気に入った。光栄に思え。貴様こそが、私の道連れだ」
――――は?
なんだそれ。
そう問いかけたいのに、できなかった。
近付いてくる美貌をただ見つめ返すことしかできないままでいたら、その距離が気付けばゼロになって、そうして唇に父上様の唇が重なっていることに遅れて気付く。
同時に『何か』が身体に流れ込んでくる。ベルが施してくれる治癒魔術に似ているけれど、違う。
ベルのそれよりももっと強大で抗うことなんてできやしない、暴流のような魔力が、全身に行き渡っていく。
ああ、あ、ああああああ。
額が、そこにある私のルビーが、熱い、熱い、熱くて熱くてたまらない!
至近距離で見る父上様の青いガーネットが、目が潰れそうなほどにまばゆく輝いている。
もう目を開けてなんていられない。
力尽きる、とは、きっと、こういうことを言うのだと、他人事のように思った。
「こんなものか。ベル、後は任せた。必ず生かせ。リュシオルが死ねば、お前もまた死ぬのだと心得ろ」
「は、はい……! 心得て、おり、ます……っ」
すっかり怯え切ったベルが、再び私に手をかざし、治癒魔術を使い始める。
あたたかい。先ほどよりも明らかに、はっきりと、傷が癒えていくのが解る。
けれどそれを目視で確認することなんてできるはずもなく、私はそのまま、抗うこともできずに意識を手放したのだった。