28.絹のはしご
私が帰省してから十日後。デート当日だ。
「じゃあ行こうか、カルル」
「はい!」
ファナーリ侯爵家の領地でももっとも栄えた町に、私はカルルとともに馬車で運ばれ、帰宅時間を確認してから馬車を下りる運びとなった。
カルルも当たり前にそうなのだろうけれど、私は私で、自由に町に出るのなんて何年ぶりだろう。
ファナーリに買い取られてから屋敷をまともに出た記憶はなく、残りはこの一年の“宝石箱”の中での記憶しかない。
そう思うと若干どころではなくベルも一緒のほうがよかったのでは、と思うのだけれど、カルルはずっと「二人きりのデート!」と私が驚くほどうっきうきなので、やはりこの状況が最良なのだ。
お互いに額に、貴族や豪商といった金を持っている輩が好む、カーバンクルにあやかったサークレットをつけている……と見せかけて、実際はその下に本物の額石がある、とは、もちろん誰にも秘密である。
魔力を封じ、周囲にカーバンクルとしての気配を気取らせない機能付きのサークレットは、お忍びのカーバンクルには欠かせないものだ。
さらに私もカルルも、街灯を着て、フードを深く被っている。
カルルの容姿はあまりにも目立ちすぎるからだ。
二人揃ってフードを被っていたら、いかにもお忍びの姿すぎて、それはそれで目立ってしまう。
だからこそ私はいいと言ったのに、カルルは「兄上は綺麗だからだめです」なんて譲ってくれなくて、最終的に「僕とおそろいは嫌ですか?」なんて言われたらもうだめだ。
折れるしかない。
私の弟が今日もこんなにもかわいくて辛いほどに幸せだ。
「ひとまず適当に歩こうか。お互い、なかなかこんな機会はないしね」
「はい! あ、あの、兄上」
「うん?」
「その……お、お手を、どうぞ。はぐれたら、いけないですから!」
おずおずと差し出された片手、薔薇色に染まる頬、期待と不安に揺れる濃蜜色の瞳。
はぐれたらいけない、だなんて、それはそのままこちらの台詞だ。
まあこの私が他ならぬカルルを見失うなんてことはまずありえないけれど。
カルルだってそんなことは解っているだろうに、それでもこの子が手を差し伸べてくれたのは、私と手を繋ぎたいからなのだと、うぬぼれてもいいだろうか。
私はまだ、この子に触れることが許されるだろうか。
これからもそうであるのだと、信じてもいいだろうか。
何も正解なんて解らないけれど、私がカルルの願い事を叶えるのは最低限の義務であり最高の権利でもある。
ならばやることは一つだ。
「そうだね、よろしく頼むよ、王子様」
「はい!」
差し出されている小さな手に、軽口とともに私が手を重ねると、カルルは大輪の花がほころぶように笑ってくれた。
うーん、眼福なことこの上ない。
「ねえカルル、いつか素敵なお嬢さんに出会ったら、こんな風に手を差し伸べてあげてね」
本当にカルルが手を差し伸べるべきは、私ではない。
カルルのこの手は、いつか出会うであろうお姫様のためのものだ。
かつて私をすくいあげてくれたこの手は、いつかお姫様と結ばれる。
それはとても楽しみなことで、それまでこの子を見守れたら、きっと私は誰よりも幸福になれるのに。
それなのにカルルは、いかにもむっとしたように、その愛らしい唇を尖らせる。
「僕が手を繋ぐのは、兄上だけです」
「それはもったいないよ」
「そんなことはありません。僕は、兄上だから手を繋ぎたいんです」
そう言ってカルルは、繋いだ手に力を込めてくれる。
ぎゅっと握り合ったこの手を、ずっと離さずにいられたら、なんて思ってはいけないことだ
。いつか私は、この手を放し、カルルをファナーリから送り出す。
この柔くうつくしい手は、綺麗なままであらねばならない。
「……兄上?」
「うん? なんでもないよ。さあ、行こうか」
無意識に沈黙を選んでしまった私を、カルルが不安そうに見上げてくる。
その不安に気付かないふりをして笑いかけると、ほっと安堵に幼いかんばせが緩んだ。
そうして手を繋いだまま歩き出した私達は、予定通りに、町を散策する運びとなった。
衣装店のショーウィンドウを覗いたり、書店の陳列棚を前に互いが知る本を教え合ったり。
大道芸人の曲芸を前に手を打ち鳴らしたり、路地裏でまどろむ地域猫達とたわむれたり。
広場で演奏する音楽家達の調べに合わせて踊る人々の中に紛れ込んでステップを踏み、疲れたらカフェに入って休憩して。
カルルが笑ってくれるのが嬉しくて、何もかもが楽しくて、まぶしくて。
カルルがいる世界はいつだってこんなにもうつくしいのだと、改めて思い知らされる。
だからこそ時間はあっという間に過ぎ去って、太陽が傾き、世界は黄昏色に満たされていく。
迎えの馬車がやってくる時間まで、あと少し。
その最後の時間を惜しんで、私とカルルは、ひとけのない展望台へと足を運んだ。
見下ろした先に広がるのは、暮れなずむ町並みだ。
少しずつ灯される明かりが増えていき、頭上でも星が瞬き始める。
ああ、綺麗だ。
「きれい……」
「!」
思わず自分が声に出したのかとすら思うほどに、タイミングを計ったかのようなカルルのつぶやきに息を呑む。
隣を見下ろすと、カルルもまたこちらを見上げていて、ばちんと音を立てて視線がかみ合った。
ぱっと夕焼けの中ですらそうと解るほどに顔を赤らめるカルルに、自然と笑みがこぼれる。
「うん、そうだね。さすがファナーリ侯爵領だ。夜になっても、この土地は明るくにぎやかなんだってさ」
「あ、いえ、あの、僕が綺麗って言ったのは、街並みじゃなくて~~っ! なんでも! ないです!!」
「……そう? なんでもないならいいのだけれど……疲れたなら私が背負ってあげるよ」
「…………僕、そんなに子供じゃないですよ」
「でも私の弟でしょう? 兄が弟を背負うのに、子供か大人かなんて関係ないよ」
「でも、僕だって男です」
「私も『男』だよ」
「っ!」
私の正体を知っているカルルにこう言ってみせても何の説得力もないけれど、それでもだ。




